高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 4月15日(火)
 小雨降る日
 八・〇〇AM

 京都:曇時々雨、最高24.6℃最低11.7℃。午前8時ごろから小雨になった。

 きのうは彼女とデイト。彼女は、吉村さんとあんな話をするのはごう慢だといった。

 前日(おととい)の夜に吉村さんと話したことが話題に出た形である。

 高石友也の「坊や大きくならないで」をステレオできく。

☞1969年4月11日「高石友也の「坊や大きくならないで」を買う」

 ニューコンパ
同じ日に4店〝はしご〟ではない

 1969年4月15日付記述の4店の位置をまとめると下の地図になる。
河原町通周辺地図河原町通の夜景
 店名が並んでいるが、同じ日に4店を〝はしご(酒)〟したわけではない点に注意する必要がある。
 4月13日(日)には「ニューコンパ」で吉村と飲んでから、「白夜」に入った。翌日の4月14日(月)には牧野と会って「リンデン」で話してから、「ろくよう」に入ったとみられる。振り返って2日分の店名を続けて記述したのである。

☞1969年4月22日「翌晩、私は思った」

ニューコンパ

 ニューコンパは、京都市中京区河原町通六角下ル一筋目東入ル北車屋町にあったスナック。入ったのは2階である(下の広告参考)。この店では吉村と飲んでいる。
ニューコンパ六角店地図ニューコンパ跡
 店名には「洋酒天国」の冠が付いていた。これは元々サントリーの広報誌の名前で、サントリーのウイスキー類も置いている店(取引先)という意味。店ではニッカウヰスキー、サッポロビール(現・サッポロホールディングス)、モロゾフ酒造(現・モンデ酒造)、旭興業の洋酒類も扱っていた。
 高野悦子が吉村と2人だけで飲んだのかははっきりしない。
当時のニューコンパ
 当時の業態一般の名称で言えば、〝洋酒喫茶〟にあたる。洋酒喫茶とは、喫茶店のような店が洋酒類を出すスタイルで、カフェバーのようでもあるが、当時その果たした機能はむしろ現在の居酒屋とほぼ同じと言ってよい。
 ニューコンパは主にカウンター形式で、女性バーテンダーを取り入れた新しいスタイルを特徴にしていた。

 当時の地元資本・不二興産グループの店の一つである。不二興産はこのほかに、京都市中京区木屋町通蛸薬師上ル一筋目西入ル南車屋町の洋酒喫茶「グランドコンパ」、京都市左京区一乗寺塚本町のゴーゴー喫茶「ローヤルコンパ」なども経営していた。
 ニューコンパがあった建物は現存せず、現在は、2015年にリニューアルオープンした専門店ビル「京都BAL」の一部になっている。

 ブランデージンジャー
 オンザロック       少々きつかった(八六〇円)

 ブランデー・ジンジャーは、ブランデーをジンジャーエールで割ったカクテル。このカクテルが「少々きつかった」にあたる。
 金額の記入は、後から酒代に使ってしまった金額を計算するためである。

 ジンライム

 ジン・ライムは、ジンにライムジュースを混ぜたカクテル。

 白夜(二階喫茶)
白夜

 白夜は、京都市中京区西木屋町通三条下ル大黒町にあったビルの喫茶・スナック。
 「百万人の憩の殿堂、グリルと喫茶、洋酒界のエリート」をうたい、当時は女性客の比率が高いと言われた。
白夜の広告と地図白夜跡
 「二階喫茶」は、2階の喫茶部という意味と考えられる。
洋酒喫茶・白夜の広告
 建物は現存せず、飲食店などが入るビルになっている。

 リンデン
リンデン

 リンデンは、京都市中京区河原町通三条下ル大黒町にあった喫茶店(下記地図参照)。
店のマッチ
 この夜、牧野とはこの店を出た付近で別れたと考えられる。4月15日付記述の4店の中では、当時最も新しく開店した店だった。
 現在は別の喫茶店になっている。
リンデン跡

 ろくよう

六曜社

 ろくよう(六曜)は、京都市中京区河原町通三条下ル大黒町の喫茶・スナック、六曜社のことである。
六曜社の地図六曜社
 河原町通をはさんで、リンデンの真向かいの地下になる。
 那須文学社版の記述では「六曜社」と「ろくよう(六曜)」とが使い分けられているが、単行本・新装版では表記が「ろくよう」に統一されている。
 ※地下店の正確なひらがな表記は最後の字が「う」ではなく「ー」と伸ばす「ろくよー」だが、本ホームページでは便宜上、『二十歳の原点』と同じ「ろくよう」で統一する。

当時の六曜社珈琲店のマッチラベル 1階は喫茶店「六曜社」だが、地下は洋酒類を出す〝洋酒喫茶〟「ろくよう」だった。
 六曜社珈琲店は奥野實が1950年に開店。今の北隣の建物で開業した喫茶店「コニーアイランド」を現在の店舗に引っ越した形だった。「六曜社」という店名は、引っ越してきた現在の店舗の場所に元あった店の名前で、戦前に6人で共同経営していた喫茶店に由来していたという。
 大学生をターゲットにした広告を積極的に行い、「河原町三条を少しくだって、モグラの穴のような細い階段をコトコトおりると、〝六曜社〟という地下室の小じんまりした喫茶店がある」「レコードから流れる「エグモント」を聞きながら、さかんに議論しているのがいるかと思えば、一杯のコーヒーを前にして、丸善あたりで買って来たらしいデューイの原書を包の中から取り出して、ゆっくりそのページをくっているのもいる」「「六曜社族」というコトバがある」(「喫茶店〝六曜社〟」白井好夫・富田裕作『東西大学生でかだん随筆』(新陽社、1956年))と評判になった。
 店の人気は高く、「河原町三条下ル東側にあるが、狭いながらも効率よく部屋造りをした、よくはやっているコーヒ店である。建築素材として、赤松、ラワン、ウォールナットなどをふんだんに使っており、なかなか豪華な感じの店。壁面には清水焼のみどり色のタイルを使用し、京らしいムードも出している。客椅子の狭いために、客同志がなかよく仲間意識をもてるようにレイアウトされており、いつの間にか、隣人と話し合うようなチャンスも起きようというものだ。なお、近年、地下にもスナック・バーを造り、この方は少し高級、テーブル席で16人、カウンターで11人ほどの定員、ここでは、酒類の他に、サンドイッチ、ピラフ、スパゲッティなどを出している。いずれも若い人の趣味にぴったり合うためか、いつも客がよく入っており、コーヒもなかなか厳選していてうまい」(臼井喜之介「六曜社(喫茶)」『新編京都味覚散歩』(白川書院、1970年))と評された。

 1969年当時は全共闘系の関係者が出入りする店としても知られていた。立命館大学全共闘を描いた小説にも「京都では、河原町三条の、ある喫茶店が、バリケードに出入りしている学生の溜り場で、そこを「六曜社」といった」(兵頭正俊『三月の乾き』(三一書房、1985年))と登場する。
 「壁には横尾忠則のポスター。学生運動盛んな60年代。血気漲(みなぎ)る若者たちがあたりまえに論議を交わす時代だった。喫茶店が大流行していたこともあって、1階の来客が1日600人の日も。地下のバーも優秀な女性バーテンやボーイを雇い、高野悦子『二十歳の原点』にも登場する「居酒屋ろくよー」として賑わいを見せる」(甲斐みのり・奥野美穂子「六曜社のこと」『京都・東京 甘い架け橋─お菓子で綴る12か月の往復書簡』(淡交社、2010年))状況だったとされる。
 京都市内の老舗喫茶店として超有名で、4月15日付記述の4店の中で唯一、現存する。
六曜社地下店1階入り口
☞1969年4月16日「居酒屋「ろくよう」で隣に坐った学生風のあんちゃんに」
☞1969年5月12日「「ろくよう」でトーストを食べ、」

六曜社地下店マスター 奥野修さんの話

 六曜社地下店のマスター、奥野修さんに話を聞いた。
 「自分自身は『二十歳の原点』を読んだことはありませんが、読者で話を聞きに来る方はいらっしゃいますね」。
 「六曜社は当初は地下だけでコーヒー店をしていました。それが建物の1階部分にも店を構える機会ができたので、1965年にコーヒー店を1階にして、地下を居酒屋で「ろくよー」というバーにしたんです。バーは店にとって初めての試みだったこともあり、当時は専門のバーテンダーら2人に担当をお願いしていました」。

 二代目である奥野さんは1952年京都生まれの京都育ち。中学生のころには店に遊びに来ていた。
 「地下の構造、低めのテーブルや革張りのイスなど基本的には当時そのままです。ただ当時はバーということもあり照明が暗めでした」。
 1980年代になって地階で再びコーヒーを出すようになって、ライトを強めにし、ドアや入り口付近にガラスをはめ込んで外光を取り入れる形にした。全体に明るくしたのである。
 また現在はカウンターの途中に切れ目があり、向かって左側はミルやポットが並んで主にコーヒーを入れるスペースに、右側はウイスキーのボトルなどが並ぶバーの仕様になっている。それが以前はカウンターに切れ目がなく、全て現在の右側と同じようなバーのイメージだった。地下店は現在、午後6時からバーの営業に入る。
店内カウンター店に並ぶボトル
 地下店の日中のコーヒーは、注文を受けてから一杯分ずつ豆を挽いてペーパードリップで入れる「手間をかけた」スタイルである。1980年代に入ってから始めたやり方だ。
 一方の1階はネルドリップで入れる「王道」。六曜社の長年のやり方であり、1960年代もこちらの入れ方をしていた。
1階も店内の様子は当時そのままとのことである。
1階の座席ブレンドコーヒー
 地下店か1階か。それぞれの持ち味があるうえ飲む本人の好みもある。人気のドーナツはどちらでも味わえる。ただ地下店で奥野さんの前のカウンター席に座ると、一杯ずつ仕上げていく作業を目の前で見ることができ、コーヒー好きにとってはたまらないものがあるのも事実だ。

 奥野さんのもう一つの顔が、シンガーソングライター「オクノ修」。
 中学生時代から音楽を始め、買ったギターで作曲したのがスタートだ。京都と言えば、その昔に関西フォークってありましたね…と聞くと、「それはそれで今も続いています」ときっぱり。
 「でも私の場合は社会的メッセージ性の強いフォークソングではなく、自分の中で自然に出てきたシンプルな言葉やメロディーの曲を歌ってます」。
 1972年、19歳の時に自主制作したファーストソロアルバム「オクノ修」では、「君がいってしまう唄」「おなかがへってる唄」「夕ぐれ時の唄」など独特の世界を作り出している。その後も10枚以上のアルバムをリリースしている。
 奥野さんは地下店を切り盛りしながら、現在も月1回程度のペースでステージに立っている。大抵は店の仕事を終えてから行く。
 ライブは今後も続けていくという。「また来月、今度は一乗寺でソロライブの予定です」。奥野さんの穏やかな表情が一層ほころんだ。

 奥野さんに河原町通の変容について質問してみた。
 「ひどいですね、跡形もない。ここ2~3か月でも何店かなくなりました。残念です。観光の方の比率が高くなって、街が変わりました」。
 一転して厳しかった。もちろん観光客のことではない。観光客相手で事足れりとする程度の店が多くなったことにである。

 アスパラ

 アスパラは、銀座ベーカリー(現・ギンビス)のアスパラガスビスケットである。
 アスパラガスビスケットは、野菜のアスパラガスの茎の形に似た棒状のビスケットである。

 後ろをふりかえるな。そこの暗闇には汚物が臭気をはなっているだけだ。

☞1969年4月12日「後ろをふりかえるな」

 あのウェイターのおじさんに Do you know yourself ? と、いったら、 Yes, perhaps, I know yourself. ─といった。私は I don't know myself. と、いって笑った。

 六曜社の創業者夫婦で1階の喫茶店で働いていた奥野八重子(1925-)は、「高野悦子という名を聞いたことがなかった。本に登場したウェイターに尋ねると、「なんとなくそんな会話をした記憶がある」という。旧満州で生きるか死ぬかの時代をくぐり抜けてきた立場からすると、物にあふれ、自由の中で生きる若者がなぜ自死するほど悩むのか、理解しがたい部分もあった」(樺山聡「出発/八重子」『京都・六曜社三代記 喫茶の一族』(京阪神エルマガジン社、2020年))とされている。

 オイストラフのヴァイオリンをきき、

 NHK-FM4月15日午前9時00分~:家庭音楽鑑賞「パガニーニ『奇想曲第9番』」である。
 オイストラフ(ソ連、1908-1974)は、20世紀を代表する名ヴァイオリニストの一人。

 こわごわと「アウトサイダー」を読んだ。
本の表紙  「アウトサイダー」は、コリン・ウィルソン(英、1931-)著福田恒存・中村保男訳『アウトサイダー』(紀伊国屋書店、1957年)のことである。
 「現代社会の病める知識人像を鋭く衝いた青年必読の書!混乱する現代社会にあって知識人はどう生きたらいいのか?若い著者はサルトル、カミュ、ヘミングウェイ、ドストエフスキイ、ゴッホ、ニイチェらを手引にこの人生究極の問題を追求した。その斬新な手法と大胆な論旨は世界の論壇に大旋風を捲き起し、知的スリラーとまで評されている」。
☞1969年4月16日「ムルソーのように「きのう鈴木が死んだ」」
☞1969年6月22日②「「アウトサイダー」は不敵に超然としてこちらをみている」

 彼ののせた手の感覚はお風呂に入るまでつづいた。

鈴木
八千代湯

 帰り、タイムコーダーの所で吉村君に会った。泣きそうな怒りそうな顔をしていた。

 那須文学社版に基づく記述。以下、「星は暗闇に輝いている。」につながる。

 しかしまた今日、ホワイトを四、五杯のんで眠ろう。

☞1969年6月7日「買ってきた八四〇円ナリのホワイトを飲んで酔っぱらって…」

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