日記の冒頭の記述。日記を書きはじめたのは午前11時10分。
京都の午前4時の気温は9℃。
『朝日新聞(大阪本社)1969年4月23日』(朝日新聞社、1969年)である。
「自民党は22日、同党に「裁判制度に関する調査特別委員会」を設置する方針を固めた。自民党内には日米安保条約再検討期にあたる70年をひかえて、最近の公安、労働事件に対する裁判所の判決を不満とする空気が出ており、同特別委は裁判制度の根本的検討とあわせて、裁判官の姿勢をけん制するねらいを持つものともみられている。
このような特別委設置は政党の司法権への干渉になりかねないとして、憲法で保障された「三権分立の原則」とからんで各方面で論議が起りそうだ」(「自民、裁判制度を検討─「公安判決」に不満」『朝日新聞(大阪本社)1969年4月23日』(朝日新聞社、1969年))。
「東京大学の加藤一郎総長は22日夕、東京・駒場の宇宙航空研究所で行われた記者会見で、文部省が21日付で全国の大学長あてに出した警察官の学内立入りなどについての新しい文部次官通達を批判する見解を発表した」(「文部省の次官通達、東大総長が批判」『朝日新聞(大阪本社)1969年4月23日』(朝日新聞社、1969年))。
☞1969年4月16日「やるぞお ぼかあ闘いますぞお」
京都:晴・最高27.4℃まで上がり、一番の陽気になった。
“沖縄デー”に関する一連の闘争についての参加を意味する。
☞四・二八御堂筋デモ
「「雄弁は銀、沈黙は金」という言葉が、日本にあるそうです」(奥浩平「中原素子への手紙1963年4月4日」『青春の墓標─ある学生活動家の愛と死』(文藝春秋新社、1965年))。
☞1969年4月22日「Silence is Golden」
☞1969年4月16日「今月はあと二〇〇〇円しかないが何とかやりぬこう」」
4月10日付記述「ウィスキーを三杯」等下宿消費分(サントリーホワイト)=840円
4月15日付記述の洋酒喫茶等3軒分=1,960円
4月18日付記述「今日は酒と煙草にお金を使いすぎた」=金額不明
4月22日付記述のシアンクレール分=400円以下 などが該当する。
金子光晴「鮫」「女たちへのエレジー」『言語空間の探検』全集現代文学の発見第13巻(學藝書林、1969年)。
☞1969年4月23日「しかし「言語空間の探検」を読んで」
全学連(反代々木系)は当時、4月28日に首相官邸を占拠するといった実力闘争を掲げていた。
☞1969年3月25日「おお、北アルプスの山々よ」
翌日の「4・26全関西労学集会」に向けた、立命館大学全共闘の決起集会が予定されていた。
恒心館は、全共闘の封鎖が続いていた。高野悦子が恒心館に入ったのは、記述では3月10日夜以来である。
当時、恒心館にいた日本史学専攻の同級生(1967年入学)は「高野さんはいつも殆ど一人で淋しそうでした。でも、どうすることも僕にはできませんでした」(「手紙(立命館大学生。高野家宛)─高野悦子さんを囲んで」『那須文学第10号』(那須文学社、1971年))。
☞1969年3月11日「九時、店を出て恒心館に行った」
☞恒心館
☞御堂筋デモ参加の立命館大同級生「彼女からもらった1本のロングピース」
恒心館屋上で見ていたのは、河原町通向こうの広小路キャンパスである。
☞1969年4月17日「私にできる唯一の反抗であったのだ」
石原吉郎「サンチョパンサの帰郷」吉野弘「消息」「幻・方法」『言語空間の探検』全集現代文学の発見第13巻(學藝書林、1969年)である。
吉野弘(1926-)は、詩人。
☞1969年4月23日「しかし「言語空間の探検」を読んで」
日本史集会は、日本史学専攻の集会。
河上君(仮名)は、日本史学専攻の同級生(3年)。当時の日本史学専攻3年における共産党員のキャップ。
岩井氏は、文学部日本史研究室の教授・岩井忠熊(1922-2023)。
1月に他の教授陣と同じく辞意を示したが、後に辞意を撤回して大学に残った。共産党員だった岩井は「代々木系といわれる」(鈴木沙雄「特集・新局面を迎えた大学問題─関西にみる東大紛争の衝撃」『朝日ジャーナル1969年2月9日号』(朝日新聞社、1969年))と報じられた。
☞二十歳の原点序章1968年4月21日「岩井先生の『近代史学の形成』をよんだことで」
☞1969年2月1日「教授のいない大学に」
☞1969年2月8日「岩井先生にテレして試験がどうなるのかきいてみよう」
☞1969年6月1日「岩井の学問とやらをコテンパンにやっつけて」
メンダイは、京都国際ホテルのメイン・ダイニングのこと。
☞京都国際ホテル
「人間を苦しむ神、いや、俺を苦しむ神がどこかにいなければならない。
俺はその神に、存在の悲しみを「問わ」なければならない」(山本太郎「詩論序説」『山本太郎詩集』現代詩文庫(思潮社、1968年))の引用である。
☞1969年4月22日「山本太郎詩集」
社青同=日本社会主義青年同盟は、日本社会党の青年組織を母体とする活動家の団体。ただし社会党とは距離を置いていた。
なお立命館大学全共闘を構成する一派である「社学同」とは源流から異なる。
☞1969年4月22日「井上清の「第二次世界大戦後の日本」」
那須文学社版の記述。冒頭に出てくるが、書いた時間のことである。午前11時45分。
26日京都:曇、夜になって雨、最低12.3℃最高19.9℃。
「せっかくのゴールデンウィーク開幕というのに、低気圧がやってきた。西日本は各地とも厚い雲におおわれ、一時雨のところが多い。天気図をみると、大陸から日本にかけて、高気圧、低気圧が雑居している。典型的なぐずつき型だ」「京都南部=南西後北西の風雨後晴」(「きょうの天気」『朝日新聞(大阪本社)1969年4月26日』(朝日新聞社、1969年))。
☞1969年4月11日「グレーのセーターに紺のスカート」
行き先は、立命館大学の全共闘が拠点としていた恒心館である。
恒心館から向ったのは、京都市左京区吉田本町の京都大学本部である。
午後2時半から京都大学本部キャンパス法経第一教室で「全京都労学高決起集会」が開かれた。集会では沖縄の教職員組合や学生が講演を行ったあと、京大全共闘や立命館大学全共闘が決意表明をした。
午後4時半から京都大学本部時計台前で「4・26全関西学生総決起集会」が開かれた。立命館大学全共闘・寮連合300人を含む約2,600人が参加した。集会では京都府学連(反民青系)、各大学全共闘などが闘争報告を行ったあと、「4・28沖縄闘争勝利」の決意を表明した。
集会の後、京大本部構内をデモ行進した後、午後6時過ぎから京大を出発。
立命館大学全共闘を含む約1,500人は、東一条通、東大路通、丸太町通、河原町通、四条通を通って、京都市東山区円山町の京都市円山公園音楽堂の集会にデモをしながら急ぎ足で向った。
円山公園音楽堂では、午後7時から京都反戦青年委員会、京都府学連(反民青系)など主催の「70年安保粉砕・4・28沖縄闘争勝利、4・26全関西労学決起集会」が開かれた。大阪や兵庫県からの学生も含め「集会には、約4,000人が参加し、会場は超満員となった。段上では、まず各地反戦青年委員会(国鉄向日町反戦、京都府庁反戦など)が、沖縄闘争に対する決意表明や、連帯のあいさつをのべた。つづいて学生の方からは、中核派、社学同統一派、反帝学評、プロレタリア学生同盟、府高連などが決意表明」(「沖縄デーに向け労学総決起」『京都大学新聞昭和44年4月28日』(京都大学新聞社、1969年))を行った。
午後8時40分から、祇園石段下から四条通、河原町通のコースで、途中ジグザグデモをしながらデモ行進し、午後9時半ごろ、京都市役所前に着いて解散した。
デモには約3,000人が参加した。「デモの通過で四条河原町交差点は一時、交通が停滞した。石段下付近では混乱を恐れ、シャッターをおろす店もみられた。この日のデモは反日共系学生のデモとしてはことしにはいって最大の規模」(「デモ学生19人逮捕」『京都新聞昭和44年4月27日』(京都新聞社、1969年))だった。
26日の京都は午後8時から雨が降り始め、午後9時は降水量0.5mmの小雨になった。「京都市役所前の御池通では十数分にわたってうずまきデモをくり返したため一時交通は完全にとまった」(「沖縄デーへ動く学生─京都で4000人集会」『朝日新聞(大阪本社)1969年4月27日』(朝日新聞社、1969年))。
「シュプレヒコールを行う。叫ぶことが唯一の武器。
市役所の前につき、歩みをとめて一服喫った。足許のアスファルトは雨でぬれているし頭には小雨が降り注ぐ。
寂しさと無力感と充実感とが、ごちゃごちゃに混じり合い、春雨のように、独りであることを、じっくりと感じた。
私は大声で叫びたかった」(4月28日付記述)は、この日(4月26日)のことである。
☞1969年4月28日「シュプレヒコールを行う」
高野悦子は、このあと恒心館に戻り、そこに泊っている。
☞1969年4月29日「四・二六に参加 恒心館に泊りこみ」
この日付の記述はすべて、4月26日(土)夜に泊まった恒心館で書いたメモからの引用とみられる。
京都国際ホテルのバイト代が入るまでのことである。
☞1969年4月24日「あと五〇〇余円で十日間を暮さねばならぬ」
この記述も含めて、本日付記述全体が4月26日のことを示している可能性がある。したがって、4月27日の中村に関する記述が出てこない。
☞1969年5月4日「二十七日、中村氏と呑みに出かける」
恒心館にいる学生は、立命館大学全共闘である。
『叛逆のバリケード』の巻頭に所収されている詩「生きてる 生きてる 生きている バリケードという腹の中で 生きている…」(日本大学文理学部闘争委員会書記局編『増補・叛逆のバリケード─日大闘争の記録』(三一書房、1969年))のことである。
☞1969年2月22日「今「反逆のバリケード」を読んでいる」
日本史闘争委員会は、立命館大学全共闘のうち文学部史学科日本史学専攻の学生の集まり。当時の立命館大学全共闘で専攻別にみて有力だったのは、文学部の日本史闘争委員会と法学部闘争委員会である。
日本史闘争委員会は、〝師岡問題〟を発端に、中川会館の封鎖をめぐって話し合い路線をとった看板教授陣が辞職。さらに教授陣がいなくなった中でのレポートによる期末試験、入試実施という事態を経て、大学当局との対立が先鋭化した。
「われわれ日本史闘争委員会、文闘委は人間を解放するために、自己を解放するために徹底的に現行大学制度の解体を目指し闘うことを宣言する」とした(「商品と化す「学問」─日本史闘争委からの報告」『立命館学園新聞昭和44年4月14日』(立命館大学新聞社、1969年))。
☞1969年1月23日「師岡問題」
☞1969年1月25日「教授が相ついで辞表を提出するなど、立命は実質的に崩壊しつつある」