高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 6月14日(土)
 晴

 京都:晴・最高25.3℃最低16.0℃。午後から快晴になった。

立命館闘争勝利大報告集会 告知ビラ
 高野悦子が当時手に取ったとみられる立命館大学全共闘の「立命館闘争勝利大報告集会」告知ビラ(写真下)の全文は以下の通り。
立命館闘争勝利大報告集会ビラ6・13立命館闘争勝利大報告集会! 立命大全学共闘会議
 全立命の全ての学生院生教職員諸君!全京都の労働者学生高校生市民諸君!
 全共闘圧殺のみを狙った三度にもわたる権力機動隊の導入、国会権力─学内暴力集団=日共民青行動隊による大学武力制圧、かかる暴力支配を唯一の存立基盤とする武藤日共体制の露骨な確立、その下における辞任日共教員の無条件復帰、「講義」強行等々の「秩序」回復策動の全面開花。そして一方では、全共闘に対する許し難き告訴、反革命テロル・リンチの公然たる横行という形で、立命館闘争は、当局=日共の片手に「改革案」というアメをもち、片手に反革命暴力支配の強化というムチによって、闘争勃発以前の反動的姿が再び擬制的によびもどされようとしている。
 だが全ての諸君!わが全共闘は、かかる決定的段階にあたってはっきりと宣言しよう。立命館闘争は不滅である、と。思ってもみよ!昨年12月の日共民青による新聞社襲撃、本年1月16日あの歴史的な中川会館本部バリケード封鎖以降、わが全共闘の戦列は、党をあげた反革命日共民青とのかつてない激闘を通じて、帝国主義者の従順な先兵=立命館民主主義解体の闘いを革命的に貫徹してきたことを。『革命は、それが引き出す密集した反革命を打ち破ってのみ強化される』(マルクス)─わが大学闘争は、個別大学内での矛盾の激成という次元にとどまることなく、その闘いを通じて、今や沖縄闘争と共に、日本帝国主義の屋台骨を根底的に揺がす70年安保粉砕闘争の巨大な支柱・火柱としての任務を更に鮮明にしている。安保・沖縄・大学闘争の不可逆的な進撃を何よりも恐怖する帝国主義者の破防法・大学立法をはじめとする露骨な弾圧治安攻撃をみよ!反革命日共民青の憎悪にみちた武装反革命を見よ!
 一切の反革命・敵対者に対する我々の解答はこうである。─大学闘争・沖縄闘争の更なる爆発をもって、安保粉砕・日帝打倒に勝利せよ!帝国主義大学秩序を破壊せよ!弾圧には更なる反撃を!大学立法・破防法を全国大学バリケードで粉砕せよ!立命館闘争勝利!全学奪還!永続バリ貫徹!日共支配体制粉砕!勝利にむかって突き進め!
 安保粉砕!沖縄闘争勝利! 立命館「民主」体制解体! 武藤日共体制実力打倒! 「改革案」粉砕! 全学奪還!武装バリ貫徹! 大学治安立法粉砕!
 とき/6月13日PM.1 ところ/京大法経1 特別講演/高橋和巳氏・師岡祐行氏 連帯表明/東大・日大・京大・阪大各全共闘 基調報告/全学共闘会議 闘争報告/各学部闘争委員会 寮連合

「文闘委の旗」

 十三日 立命館闘争勝利報告集会。
 立命館大学全共闘主催の立命館闘争勝利大報告集会は、13日(金)午後2時から、京都大学本部キャンパス法経第一教室で開かれた。日大、東大、京大、京都府立医大、大阪大の各全共闘代表を招いて、学生約700人が参加した。法経第一教室は時計台の背面にあった。
京都大学法経第一教室立命館闘争勝利報告集会

 立命館大全共闘は、5月20日に恒心館を出され学内における主な拠点を失い、京都大学教養部(京大Cバリ)に間借りする形になった。それ以降、民青系の力の及ぶ広小路キャンパスに事実上近づけず、新入生などへの組織化活動が難しくなるなど運動の後退が続いていた。この日の集会は、その状況を変えるきっかけとするために開かれた。
 集会では、各大学全共闘からの闘争への連帯アピールが行われた後、立命館大学全共闘からの基調報告、各闘争委からの報告、それに立命館大学前講師・師岡祐行の講演があった。その後、これまでの反省をふまえて、全共闘の再強化および立命館大学体制の解体に向けた再進撃を内容とする宣言を、参加した学生全員の拍手で承認。午後5時に終わった。
 法経第一教室は京都大学創立百周年記念事業で取り壊され、現在は百周年記念ホールになっている。
百周年記念ホール外観京大から広小路キャンパスデモ
 約300人がデモに移り、デモ隊は、機動隊の規制を途中受けながら、広小路キャンパスまで着いた。しかし、機動隊が校門前に配置したため、デモ隊は構内に入れず、いったん梨木神社に集まった。そして機動隊が去ってから広小路キャンパスに入り、存心館時計台前で学内デモと総括集会を行った後、再び京大に向った。
梨木神社

 後、亀井さんらと話す。京大Cバリに泊る。

 亀井さんは、立命館大学全共闘の日本史闘争委で有力メンバーの4年生である。
集会後話した文闘委・亀井さん「急に訪ねてきた彼女」
京都大学教養部(京大Cバリ)

 四・三〇─一〇・三〇バイト
 今日、中村はビヤガーデンにきていた。
国際ホテル屋上ビヤガーデン

 京都国際ホテルでは当時、夏季に屋上東側にビヤガーデンを開設していた。1階から屋上(11階)まで11秒、22人乗りのエレベーターは開業当時、東洋一を誇った。
ホテル屋上ビヤガーデン空撮ホテル屋上ビヤガーデン写真
 地上43mで周辺に高い建物がない眺望の良さが売りで、幅広い客層をターゲットとしていた。開業当初のパンフレットは「素晴しい夜景と7色の噴水を見ながら…」「ダイヤモンドの夜!ビールで乾杯!地上10階、空中の楽園、雨の京都もワンダフル、いつでもお越し下さい」と書かれている。
開業当時のパンフレット
 ホテル屋上のビヤガーデンは当時、下図のようになっていた。客は二条通側の直通エレベーターで屋上に着いた。ビヤガーデンのアルバイトは、地下1階などから従業員エレベーターで屋上に上がって、カウンターやレジがあった場所付近に待機し、ビールや料理を運ぶ動線になっていた。
屋上周辺図屋上の動線の状況
 1969年は6月7日(土)にオープンした。関西では比較的少なかったサッポロビールだった。
 ビヤガーデン営業時間は17:30~21:30、ただし土曜日は17:00~22:00だった。6月14日は土曜日なので、バイトの就業時間は開店30分前の午後4時30分から閉店30分後の午後10時30分までになったと考えられる。
ビヤガーデン広告ホテル屋上ビヤガーデン跡
京都国際ホテル
中村

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