1968年5月31日(金)から6月2日(日)の2泊3日、ワンゲル部の活動で曽爾高原に行った。
曽爾高原は奈良県曽爾村にある高原。京都からハイキングの場合、近鉄で京都駅-大和八木-名張駅、さらに名張駅からバスを利用を念頭に置いたルートの可能性が高い。
☞1968年9月30日「曽爾」
京都:曇・最低19.1℃最高29.8℃。夜一時雨。
平安神宮は京都市左京区岡崎西天王町にある神社である。
1895年に平安遷都1100年を記念して創建された。平安京の大内裏主要部を模して本来の8分の5の規模で建造された。門の南約350mの神宮道にある鉄骨鉄筋コンクリート造りの大鳥居は1929年に完成したもので、高さ約24mと巨大で人目を引く。
1968年当時の社殿のうち本殿や内拝殿など9棟は1976年1月6日に放火で消失し、その後再建された。大鳥居は2004年に塗装の塗り替えが行われている。
高野悦子は高校2年生の修学旅行でも平安神宮を訪れたことがある。
☞二十歳の原点ノート1965年11月20日「平安神宮」
スイレンやカキツバタを見たのは社殿の周囲をめぐる平安神宮神苑である。
6月8日(土)に神苑に行ったのは、無料公開だったためと考えられる。本来の拝観料は80円だった。
神苑は当時、ハナショウブが見ごろとなる6月上旬に無料公開の日が年1回あった。現在は6月上旬と9月19日の年2回になっている。
「若葉、青葉にかこまれた西苑、南苑の池の周囲には、約3,000本のハナショウブが並び、濃紫、純白のハナが池面に映えて風情はひとしお。
一方、池の真ん中にはスイレンがピンクの花を咲かせており、開苑と同時に東京の修学旅行生200人が一番乗りするなど、一般市民、観光客が相つぎ、午前中に約4,000人と平常の3倍の入り。ハナショウブを背景に記念写真をとる旅行生や緑の木陰でスケッチする学生など、優雅な初夏の色どりを楽しんだ」(「目にしむ〝初夏〟─平安神宮神苑、一般公開」『京都新聞昭和43年6月8日(夕刊)』(京都新聞社、1968年))。
小川治兵衛の作で、東山を借景として3つの池が配置された回遊式庭園である。1975年に国の名勝に指定されている。
シダレザクラやフジの名所にもなっている。
当時のしおりによれば「東、中、西、南の諸苑は広さ約3万㎡を誇り明治庭園を代表するものであり春の紅しだれ桜、夏の花菖蒲、すいれん、秋のはぎ、もみじ、冬は雪景等四季折々の景観は樹林、布石の妙と相まって名苑として知られております」。
行ったのは、京都市左京区岡崎法勝寺町の京都市動物園である。岡崎公園にあり、岡崎動物園と呼ぶこともある。当時の入園料40円。
京都市紀念動物園の名称で1903年4月開園、国内では東京・上野動物園に次いで古い。戦後、進駐軍により敷地南側の約4分の1が接収されたが、1952年に接収解除後、施設が整備された。1964年に現在の京都市動物園に改名している。
当時の年間入園者数は70万7,146人(1967年度)。面積は約4haで大都市の動物園としては狭い。
「49の動物舎はほんの数平方メートルの小さなものから、1,110平方メートルに及ぶツルの放養場に至るまで、大小さまざま、しかも多くの動物舎は、その内部を幾つかの部屋に区分しており、このことによって多数の種類の動物を収容している。昭和43年5月末現在の飼育動物数は哺乳類67種273点、鳥類173種746点、爬虫類7種43点、両棲類1種13点、合計248種1,075点である」(「動物園」『昭和43年度事業概要』(京都市文化観光局、1968年))。
「動物園では、シュバシコウ、コクチョウに続き、ニホンカモシカ、クロエリハクチョウ、フンボルトペンギンなどの赤ちゃんが相ついで誕生、係り員たちは〝ベビーラッシュ〟にうれしい悲鳴をあげている」(「黒エリ白鳥など相つぎ─市動物園にベビーラッシュ」『京都新聞昭和43年6月7日(夕刊)』(京都新聞社、1968年))。
1965年にフラミンゴ放養場を造ったほか、1969年に野外劇場が撤去され、跡地付近にゴリラ、オランウータン、チンパンジーなどの類人猿舎を建設している。
2009年から2015年にかけて全面的リニューアルを行い、老朽化した施設の建て替えと園内レイアウトの一新を行った。園の入り口は西側から北西側に移っている。
リニューアルが完了した2015年度の年間入園者数は120万6,160人で、1979年度以来36年ぶりに120万人を超えた。
☞山小屋
インドニシキヘビを見たのは、園内北東部にあった熱帯動物舎である。
展示されていたインドニシキヘビは「1963年東京の上野動物園で、40頭もの仔ヘビがうじゃうじゃと孵化しました。ヘビ屋敷化を心配した上野動物園、全国の各動物園に無償プレゼント作戦を展開しましたが当園のインドニシキヘビ君たちもその時の小さな仔ヘビたちだったのです」(小島一介「ニシキヘビ」『京の動物園誌』(たたら書房、1983年))。
熱帯動物舎跡は現在の「ゾウの森」ゾーン裏側付近にあたる。
子ぞう舎は、園内南西部の一角にある「お伽の国」の隣に位置した。
「お伽の国」は幼児が小動物と親しむための子ども動物園で、1965年に開設した。ウサギ、ヤギ、ヒツジ、ガチョウなどを放し飼いにし小型の愛玩動物を展示して、子どもたちが動物に触れ合える場にしていた。
子ゾウは「お伽の国」のPR役を果たして人気があったため、ぞう館とは別に、「お伽の国」の隣にある子ぞう舎に入れられた。
「お伽の国」は1980年に全面改修され、2011年に撤去された。跡には現在「アフリカの草原」ゾーンができており、子ぞう舎跡はこのゾーンの南付近にあたる。
子象は、2歳でメスのアジアゾウ(インドゾウ)である。
インド生まれで1966年9月7日(水)に京都市動物園に到着した。前日の「6日夜8時、横浜からトラックに揺られて東海道を西下。けさ午前9時半、動物園前に到着。8トン積みクレーン車で園舎近くまで運び込まれたが旅の疲れもみせず、さっそく訪れた入園客らに鼻をすりつけあいきょうをふりまいた」(「ゾウぞよろしく…選手交代─京都動物園」『京都新聞昭和41年9月7日(夕刊)』(京都新聞社、1966年))。
「この子象は体重266㎏で、生後ほぼ6か月齢のものと推定された。あまりに可愛い子象であったため、当時の担当者はこれに「嵯峨」という名前を付け、厳しい躾が疎かにされた結果、成長と共に制御が難しく」(瀧澤晃夫「ゾウ」『京都岡崎動物園の記録』(洛朋堂、1986年))なった。
サガ(嵯峨)は観客に対してれんがを投げつけてけがをさせるなど乱暴をするようになり、1975年6月に巡回中の移動動物園に引き取られて事実上追放される形で京都を去っている。
ビーバー舎には京都市と姉妹都市のアメリカ・ボストン市から1963年10月に受け取ったアメリカビーバーのメス2匹がいた。2匹は1969年3月に相次いで死んでいる。
コンパが開かれたのは、京都市東山区下河原町のレストラン、上海祇園店である。
戦後の1946年に上海より引き揚げて素人から飲食店を始めたことが店名の由来。「総合食堂」を名乗り、おでん、串カツなどを中心とした一般向けの創作料理や中華料理といった幅広いメニューを提供した。
祇園店は主に宴会客向けの営業を行っていた。10人から200人までの大小宴会・パーティー場のほか、サウナ、マージャン・卓球等の娯楽設備を備え、特に料金前払いで一人600円の宴会システムを打ち出していた。
建物は現存せず、マンションの一部になっている。
上海は祇園店のほか、京都市下京区西木屋町通四条上ル一筋目西入ル真町の四条本店、京都市中京区河原町通姉小路上ル下丸屋町の三条店、京都市中京区西木屋町通蛸薬師上ル一筋目西入ル南車屋町の木屋町店などで様々な業態のレストランをグループ展開していた。
阪急・河原町駅(現・京都河原町駅)で上海祇園店から最も近い出入り口は木屋町南口(現・木屋町南出入口)になる。
吐いたホームのベンチは乗車した阪急・河原町駅(現・京都河原町駅)、乗り換えした桂駅、下車した松尾駅(現・松尾大社駅)のいずれかということになる。
☞二十歳の原点1969年2月8日「帰りの電車で」
裏山は、京都市右京区松尾谷松尾山(現・西京区松尾谷松尾山町)の松尾山を中心とした山である。標高は276.1mだったが、現在は275.6mになっている。
山道は頂上へ通じる道ではなく、ふもとにあたる京都市右京区(現・西京区)嵐山宮町の山林にあった小道と考えられる。
ふもと付近で区画等の整備が進み判然としなくなったが、現在は松尾大社の北側の水路脇を通り心願盃投げや霊亀の滝などへの道になっている。
☞1968年10月12日「松尾神社の後ろの山に」