高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点序章(昭和43年)
1968年10月 9日(水)
 今ワンゲルでオープンワンデリングの一般募集を存心館前でやっているが、

☞二十歳の原点1969年2月15日「存心館横の薄暗がりに坐りこんで」
オープンワンデリング

 ひけ目(特に活動家に対して)を感じるのだ。

 10月8日(火)午後1時から広小路キャンパスで、立命館大学一部学術本部(反民青系)などの主催による「10・8山崎君追悼立命統一集会」があり、約500人が参加した。この集会は、1967年10月8日のいわゆる第一次羽田事件における機動隊との衝突の際に死亡したマル学同中核派活動家で、京都大学生の山崎博昭(当時18)を追悼するために開かれた。

 これから読まなくてはならないものは『マスコミ黒書』『自由からの逃走』

マスコミ黒書マスコミ黒書の広告 日本ジャーナリスト会議編『マスコミ黒書』(労働旬報社(現・旬報社)、1968年)は、政府・自民党による有形無形の圧力や商業主義の中で、真実を伝えるべき新聞・テレビの報道の自由がゆがめられている姿を描いた報告集。当時480円。
 特にベトナム戦争、沖縄問題をめぐる報道の在り方について詳しく論じている。広告では「消えた番組・消された記事の恐るべき全貌=日本のマスコミが伝える真実は何か!全国民の目からかくされ語られぬ真実は何であり、それは何故なのか?TBSニュースコープ田英夫事件・共同通信編集局長の解任等、相つぐ事件のねらいと真相は? 今日のマスコミを覆う〝黒い現実〟─言論思想統制=世論づくりの姿とねらいをベトナム報道・国防論争・吉田国葬・倉石発言などの豊富な具体的事実・そのしくみ・機能・歴史を通してするどく告発!」。
 「「マスコミ」の現実を、報道の実態、背後にあるマスコミ統制の動き、それとのマスコミ産業労働者、ジャーナリストのたたかいの面を通じてとらえ、同時にマスコミの機能と効果と戦後の歴史を俯かんしようと意図したものである。「マスコミ黒書」と名づけたゆえんは、この現代の怪物であるマスコミが権力とのかかわりあいにおいて、権力の国民支配の黒い手のひとつになっているという総括的認識にもとづいている」(「現代日本のマスコミ」日本ジャーナリスト会議編『マスコミ黒書』(労働旬報社、1968年))。
 日本アジア・アフリカ連帯委員会編『ベトナム黒書─アメリカの戦争犯罪を告発する』(1966年)、ベトナムにおけるアメリカの戦争犯罪調査日本委員会編『歴史の告発書』(1967年)、日本平和委員会編『日本の黒書』(1967年)、沖縄・小笠原返還同盟編『沖縄黒書』(1967年)、D・W・W・コンデ著岡倉古志郎・岩崎昶訳『CIA黒書』(1968年)に続く、労働旬報社(現・旬報社)の〝黒書(告発書)シリーズ〟第6弾にあたる。

自由からの逃走 エーリッヒ・フロム著日高六郎訳『自由からの逃走』新版(東京創元新社(現・東京創元社)、1965年)は、ナチズムに至ったドイツの考察を通じて現代人にとっての個人の自由の意味について社会心理学の観点から分析した研究書。
 エーリヒ・フロム(1900-1980)の原典はアメリカで1941年初版だが、国内では社会学者の日高六郎(1917-2018)による訳書『自由からの逃走』(創元社、1951年)として戦後に出版された。
 「自由は近代人に独立と合理性とをあたえたが、一方個人を孤独におとしいれ、そのため個人を不安な無力なものにした。この孤独はたえがたいものである。かれは自由の重荷からのがれて新しい依存と従属を求めるか、あるいは人間の独自性と個性とにもとづいた積極的な自由の完全な実現に進むかの二者択一に迫られる」「全体主義がなぜ自由から逃避しようするのかを理解することが、全体主義的な力を征服しようとするすべての行為の前提である」(エーリッヒ・フロム「序文」『自由からの逃走』(東京創元新社、1965年))
 「現代社会というこの巨大なメカニズムのなかで、人間性の回復がどのようにして可能であるのか、ナチズムに表現されるような政治的あるいは暴力的画一主義にどのように抵抗すべきであるのか、さらに人類の破滅につながる戦争の危機を克服するにはどうすればよいのか。そうしたことがらはすべてわれわれ日本人にとっても切実な関心事であろう」(日高六郎「新版にさいして」『自由からの逃走』(東京創元新社、1965年))。
☞二十歳の原点1969年3月15日「フロムの「自由からの逃走」ではないが」

 じっくりと考えながら読む本。事実を知るための本。

 『自由からの逃走』が前者に、『マスコミ黒書』が後者にあたる。

 きのうの北山先生の史学史の講義

☞1967年4月30日「北山先生は人間臭い」
☞二十歳の原点1969年2月18日「北山先生は他の先生よりも人間的魅力を感じさせてくれた先生である」

1968年10月10日(木)
 体育の日

 自転車で桂川沿いの散歩をしている。
☞1967年10月10日「晴 体育の日」

 夕暮れ─雨粒がポツンと気まぐれにおちてきた。

 京都:曇・最高21.2℃最低14.2℃。午後2時から3時にかけてに弱い雨が降った。

 西山の裾野を背景に右手に石づくりの橋のある、
 おうようとした桂川の流れ。
松尾橋

 松尾橋は京都市右京区梅津大縄場町と京都市右京区(現・西京区)嵐山朝月町・嵐山宮ノ前町を結ぶ四条通の橋で、桂川に架かる。
 当時の橋は、1953年に架け替えが完成したコンクリート橋桁の鋼鉄橋で、欄干に石材が用いられていた。
長さ約200m・幅(有効幅員)6mで片側1車線の対面通行だった。
桂川左岸から見た当時の松尾橋桂川右岸から見た当時の松尾橋
 松尾橋は四条通の拡幅に伴って、1971年に架け替えられた。
河川敷から見た現在の松尾橋松尾橋を通る四条通
桂川の河原

1968年10月12日(土)
 曇

 京都:晴・最低9.9℃最高19.7℃。日中は雲が多かった

 松尾神社の後ろの山に
松尾大社

 松尾大社は、京都市右京区(現・西京区)嵐山宮町にある神社である。松尾神社から1950年に松尾大社と改称した。本殿は室町時代初期の1397年建造され、1542年に大修理が施されたものだが、1924年から1926年にかけ国費などで形式や材料の旧態保存を原則とした解体修理が行われていた。
 「西にのびた葛野の秦氏は、大宝元年(701)に至って秦都里の勧請によって松尾神社を祀ったという。この社も歴史のながれについて信仰のうごきを見せているようで、神殿の背後の松尾山から落下する荘厳な瀑布は、古代人には神聖な神の降臨を感ぜしめたことであろう。平安時代になってからは、祭神大山咋命(おおやまくいのみこと)が賀茂別雷神の父神に当るといって、賀茂社とも関係をつけた」「そしてついには江戸時代のころから造酒の神としての信仰をかち得るようになった。稲実の豊饒を祈ることから、御酒の醸造へとうつることは、大嘗会の祭事をみても、自然ななりゆきが考えられるが、ともかく神格を農耕から酒造という近世産業にみごとにのりかえたところに、神社経営の手腕がみとめられる」(林屋辰三郎「松尾と稲荷」『京都』岩波新書(岩波書店、1962年))。
松尾大社付近地図松尾大社境内の様子
 本殿はさらに1971年に修理工事で屋根の葺き替えや壁の塗り替えなどが行われた。また現在ある参集殿と儀式殿は1971年に、庭園(松風苑三庭)は1975年にそれぞれ完成した。松尾大社交差点近くの赤い大鳥居は平安遷都1200年記念として1994年に建立されたものである。
 後ろの山は松尾山で、頂上近くの斜面に「磐座」(いわくら)と呼ばれる巨大な岩石があり、社殿から磐座への登山道(磐座登拝道)がある。
松尾大社磐座登拝口入り口磐座登拝道
 2018年の台風21号による影響で倒木や山崩れがあったため、磐座登拝道は現在、通行禁止になっている。
☞1968年6月12日「久しぶりで裏山に行っておどろいた」

 山小屋ゆきの打ち合わせで、泉さんや大木さんと会ったら、

 打ち合わせは前もって済ませていて、10月12日(土)は山小屋に行く当日である。
 泉さん、大木さんともに1年生女子の部員。泉さんは1968年10月12日の山小屋日記に「パーワンに行けない、欲求不満。憂さ晴らしに、女の子3人で語り合おうと山小屋に来たけど、現在4回生2人、2回生1人と、我々3人。チョットガッカリ。私にとって4回生はどうもケムタイ。特に、8日の例会にはマイッタ。まるで、4回生の意見会みたい。それで、「1回生、発言しろよ」と言う。あんな所では恐ろしくって何も言えない。これからは、少し勇気を出して、発言しようかな。それにしても、一週間ほどどこでもいい、パーワンに行ってみたいなあ」(「山小屋日記~半世紀の記録」『漂雲─45周年記念山小屋特集号』(立命館大学ワンダーフォーゲルOB会、2007年))と残している。
山小屋

1968年10月14日(月)
 丁度一週間前は、五十年来の皆既月食と重なった満月で、
月見パーワン

 高野悦子は1968年10月5日(土)から10月6日(日)、ワンゲル部の「月見パーワン」と呼ばれる山行に参加した。サイト地は京都・北山の廃村八丁だった。1学年下の1年生だったOBは「月見パーワンは秋の満月の夜に月を見ながらという企画のパーワンだった」と振り返る。

廃村八丁

出町柳から菅原町バス停 廃村八丁は、京都府京北町上弓削八丁山(現・京都市右京区京北上弓削町)にある集落跡の呼称。
 「その名もゆかしい〝北山の奥座敷〟である」(渡辺歩京「廃村八丁」『続・北山の道』(白地社、1981年))とされ、京都市街から公共交通機関で日帰りハイキングをする場合は限界に位置する。

 出町柳(現・出町柳駅前)停留所10:09-(京都バス花背線)-12:20菅原町(現・菅原)停留所
菅原バス停前の橋
 当時の有力なガイドブックによると「菅原で下車する。バス停の前の橋を渡ってホトケ谷にはいる」
菅原バス停から廃村八丁地図
 「谷の源頭にあたる開けた感じの林間を上方の明るい尾根筋めざして登ってゆく。登りつめたところがダンノ峠である。展望はきかず、ササが風に音を立てている峠である」
 「四郎五郎峠は右手が開けている。道はその開けた方の斜面へ下る」
ダンノ峠四郎五郎峠
 「間もなく小屋が見えてくる。この小屋は山の道具を入れておく倉庫で、八丁の廃屋ではない。家は全部つぶれて、現在残っているのは、白壁の土蔵だけである。この土蔵は頑丈で、壁は異様に白く、八丁の新名所となった落書の壁画が白壁一面に描かれている。このあたりが八丁の中心部」(北山クラブ編「ダンノ峠から廃村八丁へ」『京都周辺の山々』(創元社、1966年))とされた。
廃村八丁中心部土蔵の白壁の落書き
 八丁は1934年の大雪の被害の際に全住民が離れ廃村となった。「昭和初年の大雪の年に非常な飢餓におそわれたのを期として村人は山麓に下ってしまったのであった。長い間祖先から続いて耐えて暮らしてきたのに急に自然の脅威におびやかされて村を捨てなければならないというのはちょっと不思議な気もするが、これは人間生活の向上というか、新らしい生活様式が入ってくると、昔は耐えられた生活にも今では耐え忍ぶということが身心ともできなくなるのであろう」(森本次男「亡びた山村」『京都北山と丹波高原』(山と渓谷社、1964年))
土蔵跡 土蔵の白壁の落書きは東京・日本橋付近の様子で1957年に描かれた。廃村八丁のシンボルとなり、高野悦子も目にしたとみられる。土蔵は老朽化により荒廃し、現存しない。

 高野悦子が訪れた時、木々も紅葉にはまだ全く早く、黄緑色の木立の中に黄色い葉が少し見える程度で、ススキはまだ穂が上がっておらず茎も青々としていたという。
 廃村八丁で日中は川釣りやナシ落としを楽しみ、夜はススキの中で雲に見え隠れする月を見ながら、多くの部員とともにかん酒を飲んだとされる。

 翌晩の10月6日が「「中秋の名月」。だが、大阪管区気象台の予報は「曇りがち、または小雨」。はずれてもせいぜい〝おぼろ月〟だという。その名月は、雲の上で皆既月食。東京・三鷹の東京天文台の説明によると、中秋の名月が皆既月食になるのは、大正2年以来55年ぶりで、名月は午後7時ごろから約4時間半にわたって欠け、隠れ、かすんでしまう」(「あす中秋の名月」『朝日新聞(大阪本社)1968年10月5日(夕刊)』(朝日新聞社、1968年))と予報されていた。しかし「京都地方は心配された空も宵の口からすっきり晴れ上がり、55年ぶりの名月と月食のダブル・ショーが、天空いっぱいに繰り広げられた」(「名月・月食ダブルショー」『京都新聞昭和43年10月7日』(京都新聞社、1968年))。
☞1968年10月30日「月見パーワン」

1968年10月17日(木)
 晴

 京都:曇・最低10.1℃最高21.2℃。

1968年10月20日(日)
 晴

 京都:曇・最低7.0℃最高18.5℃。午前中は雲が少ない日だった。

 ちくしょう、あの西山のやつめ!

ちくしょう・西山さん「一生の戒めに」

 十・二一の闘争が、それほど大事なのか。
 目前の十・二一参加を呼びかけた。

 10月21日(月)に向けて、立命館大学一部学友会(民青系)は、10月14日(月)~16日(水)に「安保終了通告、沖縄即時全面返還を要求する広汎な民主平和勢力による統一戦線の一翼としての10・21スト権確立」について一部(昼間部)全学部で学生による投票を行い、賛成3,656票、反対1,079票、保留370票で〝全学スト権〟が確立したとした。また民青系の法学部、文学部、産業社会学部、経済学部の各自治会、および二部各学部自治会でも、それぞれ学生大会が開かれ〝学部スト権〟が確立したとした。
 このうち一部文学部自治会では、学生大会で直接選出する執行部について委員長に反民青系、副委員長2人に民青系を選出するねじれ状態で1968年度をスタートしたが、9月19日(木)に委員長(反民青系)が辞任して副委員長(民青系)が委員長代行に就任し、9月21日(土)に民青系の新執行部がスタートしていた。

 これに基づいて10月21日は全学ストライキ状態になり、「日共系が多数を占める立命大広小路キャンパスでは正午すぎから正門前広場で学生、教職員ら約500人が参加して集会を開いた」(「京大で角材手に乱闘─同大、立命など全学スト」『京都新聞昭和43年10月21日(夕刊)』(京都新聞社、1968年))。この後、衣笠キャンパスで開かれた集会の参加者も合流して、午後1時から広小路キャンパスわだつみ像前で五者共闘(一部学友会、二部学友会、生協、生協労働組合、教職員組合)(民青系)の集会が開かれ約850人が参加した。参加者は続いて京都大学本部時計台前で午後3時半から、民青系府学連主催の「10・21全京都学生一万人集会」に加わった。呼びかけたのはこれらのイベントへの参加である。
 民青機関紙は「10・21全国学生行動は立命館大学一部・二部、京都府大、京都学芸大の4大学18自治会のストライキをはじめ、26大学7000名、高校生200名、予備校生100名が決起しました。滋賀大も参加し、8年前の安保闘争を上回るものでした」(「10・21全国学生統一行動、府学連が7000名」『京都青年1968年11月1日』(日本民主青年同盟京都府委員会、1968年))と伝えている。
 一方、反民青系では、経営学部自治会主催、学術本部・寮連合後援の「10・21立命統一集会」が10月21日午前11時半から広小路キャンパス中川会館前で開かれ約400人が参加していた。

 三浦君は三浦君で、私をオルグしただけだ。

☞1967年11月16日「存心館前でばったり三浦さんに会う」

1968年10月21日(月)
 十・二一国際反戦デー。

 10月21日はベトナム戦争の停戦と沖縄返還を掲げた「国際反戦デー」とされた。国際反戦デーは1966年に労働組合の全国中央組織である総評(日本労働組合総評議会)が毎年10月21日をベトナム反戦国際統一行動日とするよう世界の平和、労働団体に提唱したのが始まりで、1968年は3回目にあたる。

 学生の動きを、やはり派閥争い的に、暴力集団的に見ている。
 深く感動を受けたのは、大阪の教職員組合が今日の授業一時間を、沖縄の地理、歴史、現状などを教える授業にしたことだ。

大阪教職員組合の沖縄取組みについての記事 『朝日新聞(大阪本社)1968年10月21日(夕刊)』の記事である。
 「学生運動の主要拠点校では街頭集会やデモ参加に備え、朝からバリケードなどを築いてかなりの大学がストに入り、京大では学生同士の乱闘もあった」
 「10・21統一行動に参加する関西の学生運動各派は、反代々木系が「大阪・御堂筋デモ」、代々木系が京都、大阪などでの「統一集会とデモ」を目標とし、夕方から街頭に繰出すが、この闘争を盛上げるため、拠点校の多くが朝からストや授業放棄にはいり、クラス討論などを行なった。近畿地方でストにはいったのは、京都大学など11大学。代々木系、反代々木系学生自治会がそろってこれだけのスト体制を固めたのは、最近ではめずらしい」(「デモ控え動き緊迫、拠点校続々スト」『朝日新聞(大阪本社)1968年10月21日(夕刊)』(朝日新聞社、1968年))

 「大阪教職員組合(東谷敏雄委員長、3万人)は、国際反戦統一行動日のこの日、府下小、中、高校でいっせいに「沖縄を1時間教える運動」を繰りひろげた。沖縄問題を正しく教えることを通じて、本当の平和、民主主義、基本的人権の意味をとらえる子どもたちを育てようとのねらいで、先月末の臨時大会で全教師に呼びかけていた。日教組も、沖縄の教育実践を運動方針にかかげているが、組織的な取組みとしては、全国ではじめて」(「そろって〝沖縄教育〟─大教組、小・中・高校で1時間」『朝日新聞(大阪本社)1968年10月21日(夕刊)』(朝日新聞社、1968年))

 愛宕山に牧野さんと登る

 10月21日は全学ストライキ状態となっていたためハイキングに行くことができた。
☞二十歳の原点1969年2月6日「酔いながら牧野さんのところへいく」

愛宕山登山ルート

 愛宕山に牧野さんと登ったルートの往路は清滝地区からの表参道だった。
 下宿から表参道の山道への最寄りにある京都市右京区嵯峨清滝深谷町の清滝停留所までは、電車・バス利用または徒歩になる。
 電車・バス利用の場合は、阪急・松尾駅(現・松尾大社駅)-(阪急嵐山線)-嵐山駅…阪急嵐山駅前停留所または嵐山停留所-(京都バス)-清滝停留所。
嵐山から清滝までのバスルート愛宕山表参道ルート
 「バスを降りる清滝は、昔は愛宕詣での宿場のあった所で、今はモミジの名所として知られている。左の坂道を下り、清滝川にかかる渡猿橋を渡って、旅館の立ち並ぶ間を抜ける」(「愛宕山から水尾へ」創元社編集部編『関西ハイキングガイド』(創元社、1966年))。現在、付近で営業している料亭や旅館はなくなった。
 紅葉は5分くらいで、モミジはまだ色づいていなかった。
清滝停留所からの下り坂二の鳥居
 山道への入り口に「二の鳥居」がある。本来の表参道は京都市右京区嵯峨鳥居本仙翁町にある「一の鳥居」を起点に愛宕神社まで50丁(約5.5㎞)とされていて、「二の鳥居」はその12丁目にあたる。「二の鳥居」から愛宕神社まで約4.2㎞の道のりになる。
 山というよりは神社の参道を上っていく感じがしたとされる。

 「道端に竹ヤブが多い。いくらかあごを出しかけたころ「なかや跡」と石碑がある、平坦な台地につく。「なか屋」とは愛宕参道50丁のちょうど中間、25丁目にあった茶店のことである。ここからの眺めは素晴らしい。嵯峨野一帯、桂川の蛇のようにくねるさま、小石を敷きつめたような京都の町、その背後には比叡山から大文字、醍醐連山、湖南の山波が空と地を分かち、可愛らしい東山は、地をはうごとくである」(「愛宕表参道から月輪寺へ」北山クラブ編『京都周辺の山々』(創元社、1966年)
茶屋・なかや跡大杉大神
 「二十五丁目なかや趾」と変体仮名で書かれた石碑は1959年に建立されている。
 「なかや」は茶屋兼宿屋で、京都愛宕研究会によると「店の女たちは、「あたご山坂エー坂エー坂、25町目の茶屋の嬶、嬶旦那さん、しんしんしんこでもたんと食べ、坂をヤンレヤンレ、坂エー坂エー坂坂坂」などと歌って参拝者を迎えたという。「しんこ」とは米粉を練って蒸したお菓子で、『水の富貴寄』(1778年刊行)「名物之部」にも「あたごしんこ」と書かれた愛宕詣の名物である。 茶屋は『なかや』だけではなく、1町毎にあったと言われ、明治初めには19軒あった。現在参道各所に残る石垣はその名残である」という。
愛宕山登山道から見た京都市街と桂川
 「再び登り出すと、今度は東南に展望が開け嵐山続きの三角点482.6ピークの脚下で、清滝川と合流した保津川が大きく曲がって南流するさまが眺められる。坦々とした登りであり、地蔵尊に刻まれた丁数の増加していくことが唯一の楽しみとなる。再び杉の老樹があり、今度は大杉大神と書かれ、空洞の中に小さな祠がながめられる」「大杉を過ぎると美しい杉の並木の下の道となる。水の尾の分かれをすぎるとシキミを売る店がある。(「愛宕表参道から月輪寺へ」北山クラブ編『京都周辺の山々』(創元社、1966年)
 嵐山続きの三角点ピークは現在482.2mになっている。大杉大神の杉は2017年の台風21号によって倒れた。
 愛宕神社に着くまでに2、3か所で景色が見えた。

水尾分かれシキミ花売り場
 「水尾分かれ」は水尾地区からのルート(水尾参道)との合流地点にあたる。
 ここから少し上ったところに「花売り場」があり、愛宕神社の火よけの神花であるシキミを売っていた。水尾の女性が毎日ここまで上って来てシキミを売り、愛宕神社参りをした人々が火よけのお札代りに土産にしたという。シキミの葉をかまどにくべると火事にならないと言われ、かまどがなくなった現在も、愛宕神社で千日詣りが行われる毎年7月31日夜から店が開き、シキミを買い求める人の姿がある。ここから愛宕神社まで約1.1㎞になる。
愛宕神社黒門愛宕神社境内
 境内の入り口に「黒門」がある。元々神道と仏教が融合(神仏習合)していた愛宕山は、明治政府の神仏分離令(1868年)により寺院が廃止されて愛宕神社となったが、黒門は寺院当時の名残である。
 境内を進むと両側に石灯籠が並んでいる。
愛宕神社鳥居愛宕神社社殿
 愛宕山の最高点に愛宕神社の社殿がある。
愛宕山三角点

愛宕神社ハイキング写真ポイント

 高野悦子は愛宕神社で写真に写っている。撮影ポイントは石段の踊り場である。ここは表参道の終点で、裏参道への分岐にもあたる。
愛宕神社ハイキング写真ポイント地図愛宕神社石段
 一緒に行った牧野さんが撮影した。石段の踊り場で社殿に向かって左手前の灯籠をバックにしている。後ろの木々の枝ぶりや足元の敷石も当時とあまり変わっていない。
愛宕神社ハイキング写真ポイント愛宕神社での高野悦子
 高野悦子は大学2年生の時、この写真のような髪形(ショートボブ)を主にしていたと言われる。

 ルートの復路は表参道を戻り、水尾分かれから水尾参道を下った。
水尾参道地図水尾分かれ
 「愛宕神社に参拝後、亭々たる杉木立の中の表参道を約30分下ると水尾への道が右に分かれる」
水尾参道の木立水尾参道の急坂
「水尾への急坂を一気に下る。かなり下ってから分かれ道を左へとる」(「愛宕山から水尾へ」創元社編集部編『関西ハイキングガイド』(創元社、1966年))。清滝側の山道よりも距離は短いが傾斜は厳しい。
分かれ道山道の終点
 山道が終わって、集落への坂道を下った。

水尾

 水尾は京都市右京区嵯峨水尾宮ノ脇町・嵯峨水尾武蔵嶋町をはじめとする地区。山林が大部分で耕地は少ないが、各種の果樹が繁茂し、ユズとウメが特産物とされている。
 坂道を下って水尾参道入り口までの左側をはじめユズの果樹園が多くある。
ユズ果樹園ユズの果実
 水尾参道入り口を過ぎて集落へ入った。
 家々のユズの木に実がたわわになっていた。「取るべからず」などと書いてあり幻滅もあったが、“まあまあ感じがいい”ユズの里という印象だったとされる。
水尾地区地図水尾参道入り口
 京都市立水尾小学校(現・休校中)の裏を通って、「道標の立つ車道へ出る。
水尾小学校裏道しるべの立つ車道
すぐ左の白壁ヘイの前から右へおり、旧道を行くと近い」
水尾から保津峡地図右へ下りて旧道へ
「新道と合してから、もう30分、水尾川に沿う道は単調だが」(「愛宕山から水尾へ」創元社編集部編『関西ハイキングガイド』(創元社、1966年))、高野悦子と牧野さんは新道と呼ばれた車道(現・京都府道50号京都日吉美山線)を歩き、道に沿っていた保津川(桂川)の支流が、はるか下で水音を聞くだけになった。
 旧道へ下りずに、遠回りになる車道だけを歩き通した可能性もある。
明智越への分岐車道と合流
 当時なかった現・JR保津峡駅に通じる橋の分岐付近を過ぎると、堆積岩の地層が露出した「壁岩」が左側に現れた。現在はコンクリートで覆ったり、金属製ネットを張ったりして落石を防止している。
 現在は水尾・JR保津峡駅間で自治会バスが週5日・1日5往復運行されている。
京都日吉美山線壁岩
 トンネルをくぐって国鉄・保津峡駅(現・嵯峨野観光鉄道・トロッコ保津峡駅)入り口まで着いた。
国鉄保津峡駅入り口保津峡から嵐山地図
 保津川(桂川)に架かるつり橋・鵜飼橋を渡れば駅となる。国鉄・保津峡─嵯峨(現・JR嵯峨嵐山)駅間は京都行き上り普通列車で10分以下だが、日中は1時間に1本程度だった。そのまま車道を進むルートからでも、時間はかかるが嵐山方面に行けた。
保津峡駅国鉄保津峡駅跡ホーム
 国鉄・保津峡駅は、1989年にJR山陰本線の新線への切り替えに伴って移転し、1991年に旧駅が嵯峨野観光鉄道・トロッコ保津峡駅として再び開業した。

1968年10月22日(火)
 曇

 京都:曇・最低10.9℃最高18.2℃。

 『チボー家の人々Ⅳ』を二四八頁まで読む。

 デュ・ガール著山内義雄訳「1914年夏(2)60 7月31日・金曜日─ジャック、アントワーヌのもとで昼食を共にす」『チボー家の人々第四巻』新版世界文学全集32(新潮社、1960年))まで。
チボー家の人々

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