高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点序章(昭和43年)
1968年10月23日(水)
 雨

 京都:雨・最低12.9℃最高14.3℃。

 「明治百年祭」反対、立命総結起集会に参加する。
 「明治百年祭」は、元号が明治に改元した1868年10月23日(旧暦・明治元年9月8日)から100年を記念して政府主催で行われた一連のイベントである。その最重要イベントである政府主催「明治百年記念式典」が10月23日(水)に行われることになっていた。
 立命館大学では10月19日(土)の学園振興懇談会(各学部長(理事)、学友会(自治会)、大学院生協議会、教職員組合)で、一部学友会(民青系)側からの要求を受けて、理事側が明治百年祭に関する文部省通知に対する抗議声明を出すことを確認し、10月22日(火)に大学と理事会の連名による抗議声明が発表された。
抗議声明
 政府は、1968年10月23日が明治改元から満100年に当たるという理由をもって、いわゆる「明治百年祭」を国家的行事として行なおうとしています。本学にも10月8日付文部次官通知をもって、当日、国旗掲揚、記念の趣旨の徹底、午後休日等の措置をとるよう求めてきました。教学内容に深くかかわるこのような要請を行なうことは、教育、研究の自由に対する介入のおそれがあるといわざるをえません。
 そもそも国家的行事としての「明治百年祭」は、第一に、近代日本の歴史についての特定の歴史観を基礎としてすすめられていることに問題があります。特定の歴史観を政府が式典、行事をとおして国民に強いることは、憲法第19条の思想および良心の自由、憲法23条の学問の自由を侵すものといわなければなりません。
 第二に、「明治百年祭」の理念の内容をなしている特定の歴史観、国家観そのものが、明治憲法体制とその思想を全面的に肯定し、そのもとに行なわれた数々の戦争をも基本的には肯定しようとするものであり、平和主義と国民主権の原則をかかげる日本国憲法の精神にそむくものであります。
 平和と民主主義を教学の理念とする立命館大学は、こんにち政府が行なおうとしている「明治百年祭」が、平和と民主主義の教学理念の依拠する日本国憲法と教育基本法の精神に反するものであるとの認識に立ち、この企画と措置に対して強い反対の意思を表明するものであります。
 1968年10月22日
    立命館大学
    学校法人立命館

 また文学部では10月22日、学部五者会談(文学部長、教学主事(教務担当教員)、補導主事(学生担当教員)、事務長、文学部自治会代表)が開かれ、「自治会側の①文学部教授会は明治百年祭反対声明を発表せよ。②23日1、2時限をクラス討論にすることを保障せよ。③3、4時限を文学部集会とすることを保障せよ。④教授会は基本的に円山までのデモに参加せよ。の4つの要求を中心に話しあわれ、23日の日程についてはほぼ自治会側の要求が認められた」(『一文・法五者会談開かる』「立命館学園新聞昭和43年10月28日」(立命館大学新聞社、1968年))

明治百年祭反対立命総決起集会 10月23日(水)は3時限と4時限が全学休講となり、広小路キャンパスでは文学部など各学部で午後1時過ぎから明治百年祭反対の記念講演と学部集会が開かれた。
 さらに六者共闘=立命館大学六者共闘会議(一部学友会・二部学友会・大学院生協議会・教職員組合・生活協同組合・生活協同組合労働組合から構成、民青・共産党系)主催の「明治百年祭反対全立命大学人総決起集会」が午後4時20分から広小路キャンパス研心館4階で開かれ、理事(各学部長)らを含む1,200人が参加した。高野悦子が参加したのもこの集会になる。「二十歳の原点序章」では「総結起」という表記になっているが、誤字である。
 「集会で理事会を代表して藤井産社学部長は「政府の意図する明治百年記念行事は、今日の日本の繁栄がアジア諸民族の犠牲によってうち立てられたものであることを忘れ、かつまたこれは過去に犯した数々の戦争の罪も洗い去ってしまおうとするものでもあり、われわれは平和と民主主義の立ち場からこういった反動政策に反対する」ことを述べた。ひきつづき六者を代表して北村生協労組代表が決意表明を行ない、一部女子学生会が闘争宣言を読み上げ」(『政府へ抗議声明─明治百年祭』「立命館学園新聞昭和43年10月28日」(立命館大学新聞社、1968年))た。
 集会は午後5時10分すぎに終わり、そのあと理事を先頭に学生や教職員が秋雨の中を円山公園までプラカードデモを行った。

 バイオリンの狂おしいほど優雅な響きに耳を傾ける。

 NHK-FM10月23日午後8時20分~10時00分:コンサート コダーイ曲「マロシェセーク舞曲」「山の夜」「ジプシーがチーズを食べる」バルトーク曲「弦楽四重奏曲第4番」

1968年10月28日(月)
 曇

 京都:晴・最低8.2℃最高19.2℃。午後から雲が広がる

1968年10月30日(水)
 ワンゲルの総会が衣笠で行なわれる。

 10月29日(火)のことである。
☞1968年7月1日「衣笠でfire keeperのmeetingと庶務のmeetingをし」
ワンゲル部

 公認問題に始まり、旧人合宿、スキー合宿、二重会員問題、

 公認問題は、ワンゲル部が任意の組織のままでいるか、それとも大学の公認団体をめざすのかという問題である。
 さらに公認団体になるとしても、運動系である体育会のクラブや同好会、または文化系である一部学術のサークルになるかを決める必要があった。公認団体になった場合、学生から徴収した学友会費からの支援が行われた。1968年度の場合、体育会、一部学術、さらに芸術系である学芸を合わせた全体で1204万5000円の予算が配分されていた。
 公認問題の背景には、ワンゲル運動の意義を強調するか否かをめぐる一種の路線対立があったという。
 OBの一人は「“山に登って汗をかいて頂上に行って達成感があればいい”という路線に対して、“ただ山を登るだけではいけない、ワンゲルはもっと思想的なものを深めて、人間疎外に対して人間性回復のためにするんだから、いろいろ頭を使っていかないといけない”というような中で問題があった」と語る。別のOBは「きつくなったら『お前のワンゲルの位置付けはどこにある』とか、『行きたいだけじゃダメだろう』とか言われて訳がわからなかった」と苦笑する。
 ワンゲル部は現在、体育会の同好会になっている。
☞1968年11月28日「私は旧人合宿に行くのをやめた」

 二重会員問題は、ワンゲル部の部員でありながら別の団体とくに一般の山岳会などに入ることを認めるかという問題である。
 当時のワンゲル部では、冬山を原則として禁止していたにもかかわらず、部員でありながら地元の山岳会にも入っていた男子学生が冬山で遭難、ワンゲル部からも急きょ捜索メンバーを出すという事態を経験した。それもあり、ワンゲル部の活動に物足りず、一般の山岳会などに入って険しくて難度が高かかったりりリスクが大きい山行をする人に対しては、部として責任を引き受けられないので退部を求めるべきという意見が浮上していた。

 私はPRスキー、スキー合宿、旧人合宿と、春休み中に三つの行事が重なる。

美山荘・わらび平スキー場
高野悦子のスキー道具(遺品)

 ほとんど週に一回は山に行っていた。

 時系列でまとめると以下の通りになる。
・10月 6日(日)~ 7日(月)…月見パーワン
・10月12日(土)~13日(日)…山小屋入り
・10月21日(月)…愛宕山
・10月27日(日)…Openワンデリング

 北山がほとんどだ。

 愛宕山は周山街道(国道162号)より西側にあり、ハイキングの対象としての狭義の「北山」には含まれない。
 「北山の地域については定説がない。大正の初期ごろから登山する人たちによって、称されたまま今日に受けつがれている呼名であり、比叡や愛宕を含むとする人もあれば、含めないで、これらを東山、西山と区別してしまう人もある」(角倉太郎『比良連山と京都北山』「登山ハイキング─比良連山・京都北山」改訂新版(日地出版(現・ゼンリン)、1969年))とされ、当時の有力なガイドブックは愛宕山などを「いわゆる西山。北山との境界は周山街道とした」(『例言』北山クラブ編「京都周辺の山々」(創元社、1966年))と区分している。
 一方、歴史的には「北山は平安のむかしから「京の北方につらなる山々」という広い意味と、いまの鷹ヶ峯から衣笠山にわたる都の、ごく近郊を示した狭い範囲の二様につかいわけられていた」(『はじめに』毎日新聞京都支局編「京の里─北山」(淡交新社、1966年))という。

1968年10月31日(木)
 晴

 京都:晴・最低6.0℃最高20.2℃。

 史料購読と英語があったにもかかわらず、午前中は学校に行かず、

 10月30日(水)の行動についての記述である。

 OpenワンデリングのPL、

 PLは、ハイキンググループでの引率者を示すパーティー・リーダーの頭文字。ワンゲル部ではパーワンのリーダーから「パーリー」と略して呼ぶことが多かった。
パーワン(パーティーワンデリング)

 立て看づくりがあったので。

 ここではPRスキー参加者募集の立て看板ということになる。
☞二十歳の原点1969年1月25日「ビラや立看で知るのが唯一の情報」

高野悦子「二十歳の原点」案内