高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 1月27日(月)
 今日の午後は春のように暖かい日だった。太陽が光線をさし向けて暑さを感じさせた。久しぶりの青空だった。

 京都:霧・最高17.8℃最低10.5℃。午後から気温が年明け以降最高まで上がり、夕方近くから晴れてきた。

 部屋に入って少したって
 レモンがあるのに気づく
 痛みがあって やがて傷をみつける
 それは恐ろしいことだ
 時間はどの部分もおくれている。

 那須文学社版の記述。詩人、北村太郎(1922-1992)の「小詩集」(1953年)からの引用である。『北村太郎詩集』(思潮社、1966年)に所収、『現代詩手帖1967年8月号』(思潮社、1967年)にも掲載されている。
 この記述を受けて、「私は弱い…」以下に続く。

 クラス討論の場で煙草をすわせない何ものかがある

☞1969年1月25日「二十二(水) クラス討論」

 今、エルンスト・フィッシャーの「若い世代」を読んでいる。ヴェルテルの何と自由であることか。
若い世代の問題 「若い世代」は、エルンスト・フィッシャー著佐々木基一・好村冨士彦訳『若い世代の問題』(合同出版、1966年)のことである。当時680円。「若い世代の可能性─資本主義国であるか社会主義国であるかをとわず、いまや世界の反乱軍の中核をなす若い世代。かれらに秘められている可能性をその歴史的・文化史的背景においてとらえる」。
 欧米の戦後世代の精神状況を分析し、戦前との相違を歴史的に明らかにしながら、新しい世代の問題解決の糸口を探っている。
 「ゲーテの小説の中でヴェルテルはロッテに別れを告げようとして、この詩の一部を朗読する。「ロッテの眼から涙が堰を切ったように流れ出て、しめつけられた胸のうちの吐け口を与えたので、ヴェルテルは朗読を中断せねばならなくなった。かれは紙片を投げ出して、ロッテの片手を握り、切ない涙を流した。ロッテは反対の手を顔にあて、ハンカチで眼をおおった。二人は戦慄するような感動を味わった。かれらはこの高貴な人々の運命の中に自分の不幸を感じ、二人は共にそれを味わい、二人の涙は交りあってひとつになった。」」(「ヴェルテル、あるいは多感主義」エルンスト・フィッシャー著佐々木基一・好村冨士彦訳『若い世代の問題』(合同出版、1966年))

1969年 1月30日(木)
 (白い月があらゆるものを射通してしまうような明るい光線を投げかけている冬の不思議な夜)

 京都:最高9.9℃最低2.6℃。月齢11.9、夜になって雲がなくなった。

 二十八日 本多勝一「山を考える」を読む。彼のパイオニア精神を力強く感じる。
山を考える 本多勝一『山を考える』(実業之日本社、1966年)である。「なぜ多くの人が山に行くのか? なぜこれほど遭難が多いのか? 本当の山登りとは? 現代の登山では「考える」ことが可能なのか?─ヒマラヤからエスキモーへ、そしてニューギニア、アラビア、アルプスと世界をめぐり歩いた著者が、新聞記者として、一登山家として高い思考力でこれらの問いに答を投げつけた好著。いままでタブーとされていた部分に真正面から取り組んだ、現代登山家に贈る必読の本格的山岳書!」。
 「原始のままの湖畔で、原始のままの姿による性事を行う感動など、現代では大部分の人が知らないだろう」、「原始林 一、暗い樅の林に…中略… 重い肩の荷物を 旅人がおろす 三、鈍い月の光に 谷の灯も見えず 固い木の根を枕 旅人が眠る」(本多勝一「パイオニア・ワークとは何か」『山を考える』(実業之日本社、1966年))といった文章や歌詞がある。
旅に出よう

 二十九日 総会。

 ワンゲル部の総会である。

 学校は大衆団交で教室はもちろんのこと、校庭まで学生であふれていた。

寮連合と大学側の公開大衆団交 広小路キャンパスの研心館4階で、1月29日「午前11時から、大学側の拡大補導会議(学内理事会と学寮委員会などで構成)の理事、教職員ら20人と、寮連合の学生の初の〝大衆団交〟が開かれた」
 「大学はこの〝団交〟を「あくまで封鎖解除をめざしたもので、寮連合だけが交渉相手だ」としている。
 しかし、討議の内容が大学の基本的な教育方針に触れ、紛争解決のカギになるとみられるだけに、会場にはノンセクト学生や代々木系学生もつめかけて約3,000人でぎっしり満員。
 この〝団交〟を「立命館の民主的ルールにそむくもの」と反対していた学友会(代々木系)も「〝団交〟の重要性から考えて、ボイコットするのではなく、封鎖解除を要求する立場から積極的に参加する」との方針である」(「3000人集まり団交─立命館大、寮連合と学校側」『朝日新聞(大阪本社)1969年1月29日(夕刊)』(朝日新聞社、1969年))
 大衆団交の音声は研心館3階教室と中川会館前キャンパスへ放送された。この団交は延々と続き、2月1日(土)早朝に中断した。

 もの悲しくて本屋に入ったら太宰治の全集があったので希望をたくして買う。
太宰治全集表紙 入ったのは四条河原町付近の書店。太宰治の全集は、『太宰治全集第1巻』(筑摩書房、1967年)である。
 所収作品は[晩年]の「葉」、「思ひ出」、「魚服記」、「列車」、「地球図」、「猿ヶ島」、「雀こ」、「猿面冠者」、「逆行」、「彼は昔の彼ならず」、「ロマネスク」、「玩具」、「陰火」、「めくら草紙」、および[虚構の彷徨]の「道化の華」、「狂言の神」、「虚構の春」。
☞1969年1月31日「太宰の本」
 四条まで歩く途中、メガネ(名前忘れた)に会う。

 喫茶店─河原町通─四条河原町。途中で会ったのは日本史学専攻の同級生女子3人連れとみられる。

 愛宕山に雪が降った。
 明日、その三角点と龍ヶ岳に行ってこようと思う。

愛宕山三角点

 愛宕山(あたごやま)は、京都市右京区嵯峨愛宕町にある山。山頂部分には愛宕神社があり、標高924m。京都地方では1月30日未明に降雨があった。
渡月橋から見た山頂下宿から愛宕山地図
 三等三角点「愛宕」は、愛宕山山頂の北で京都府京北町細野滝谷(現・京都市右京区京北細野町滝谷)にある三角点。当時の標高は890.5m(現在は889.8m)。
 想定したルートは清滝停留所─愛宕山(愛宕神社)─三角点─竜ヶ岳とみられるが、ここでは便宜上、愛宕神社から三角点までのルートを紹介する。1969年当時は付近の杉林の状況が現在とはかなり異なる点に注意する必要がある。
 愛宕神社では石段の踊り場にあたる裏参道分岐点(①)で向かって右の道に入る。
当時の三角点周辺図愛宕神社石段下裏参道分岐点
 月輪寺方向との分岐点(②)を過ぎ、約10分で地蔵がある竜ヶ岳・首無地蔵の分岐点(③)に出るので、竜ヶ岳方向に直進する。
月輪寺方向分岐点竜ヶ岳・首無地蔵分岐点
 ここから三角点まで現在のところ道標等がないので注意しながら、小屋のあるカーブ(④)は右に曲がって、坂を上って行く。
小屋のあるカーブ上り坂の杉木立
 坂を上って行くとすぐ、林道から右に山道が分かれるポイント(⑤)があるので、山道に入る。そのまま林道を行けば竜ヶ岳へ通じている。山道からは急な坂になるが道なりに進む。積雪があると滑りやすい。
山道が分かれるポイント山道の積雪
 間もなく鉄塔前の広場(⑥)が見える。当時は鉄塔はなかった。三角点はこの広場から鉄塔に向って左の斜面沿いを登った所にある。
鉄塔前の広場斜面の上の三角点
 三角点には柱石が設置されていたが、付近の工事の際に破損したため、現在は金属標になっている。ここからは京都の市街地が一望できる。
三角点クローズアップ三角点から見た京都市街
 広沢池や京都御所(京都御苑)などがくっきりと見える。
広沢池の眺め京都御所(京都御苑)の眺め
 京都バスの終点である清滝停留所から三角点までは3時間弱かかる。
愛宕神社ハイキング写真ポイント

竜ヶ岳

 竜ヶ岳は、京都府京北町細野滝谷(現・京都市右京区京北細野町滝谷)にある山。標高921m。愛宕三山の一つに入るが、愛宕山に比べると訪れる人は少ない。三角点から竜ヶ岳山頂までは約1時間かかる。
三角点と竜ヶ岳地図当時の地図
 三角点への山道が分かれるポイントを林道の道なりにしばらく進むと竜ヶ岳への分岐点の立て札がある。
ポイントを林道側へ竜ヶ岳分岐点
 ここから竜ヶ岳山頂まで案内板等はなく、木々に付いているテープやリボンを目印にする。積雪時には装備が必要となる。
テープとリボンの道頂上直前
 竜ヶ岳からも広沢池など京都市街の眺望が広がっている。
山頂竜ヶ岳から見た京都市街
 午前9時前に清滝を出発して三角点と竜ヶ岳を巡ると、帰りは夕方近くになる。
☞1月31日「明日は八時と早い」

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