モーター小屋とは、電気ポンプで地下水をくみ上げる井戸がある小屋。くみ上げた水は主に水田に使われた。
西那須野町(現・那須塩原市)のある栃木県北部の那須野が原は、扇状地のため川の水がほとんど伏流水として地下に潜って流れており、明治時代に入るまで慢性的な水不足で開発は遅れていた。このため1885年に那須疎水事業がはじまり、那珂川の上流に堰を建設し、そこから用水路を引いて飲料・農業用水を供給することになり、これによって那須野が原では安定した水供給が一応確保されることになる。
しかし疏水を利用できたのは権利を有する家だけであり、開田には限界があった。水田化できたのは限られた地域で、疏水の水を効率よく使用し開田したため、水田は疏水の水路沿いに多かった。
これに対して戦後、深い地下水もくみ上げられる電気ポンプが普及することによって、水利が十分に及ばない地域でも水田が広がることになった。1968年の調査では、西那須野町ではポンプ1,398台が設置され、那須疏水利用地区における水田面積においても64%が電気揚水だけを水源にしており、疏水・揚水併用が23%、これに対して疏水のみを水源にしているのは13%にすぎなかった。
「疏水利用、併用の開田は電気揚水による開田には及ばなかった」(「地下水利用と開田」『西那須野町の産業経済史』(西那須野町、1997年))のである。
高野悦子の自宅から西那須野中学校への通学路は以下の通りである。ただし当時、中学校の正門は校舎北側ではなかった。
また途中の裏道などを通って近道することもあったとされる。
☞西那須野町立西那須野中学校
『二十歳の原点ノート』に記述はないが、高野悦子は1963年8月6日(火)~8日(木)の3日間、雲照寺で行われた「幹部訓練」に参加している。
幹部訓練は、地元の小中学校で優秀な生徒・児童だけを集め、将来のリーダー役の育成や交流をめざすことを意図して特別な研修指導を合宿形式で行うというものである。当時の栃木県では同様の行事が各地で行われていたとされる。
「昨年に順じて、8月6、7、8の3日間、雲照寺に於て、小中合同の幹部訓練が行なわれた。各校の代表者だけに、行動もぴちぴちして、関係者を驚かせた。ハンゴー炊飯も2、3回から先生方の手もわずらわすことなくよくやれたし、リズム、ゲーム、話し合いもうまくいった。特に最後をかざるハイキングでは、途中にまちうけた指導の先生方の扮装の鬼や地ぞう様に苦しめられてふーふーしていた。いずれおとらぬ珍談が続出した…」(「幹部訓練の一コマ」『西中生徒新聞昭和38年10月5日』(西那須野中学校生徒会、1963年))。
『西中生徒新聞』紙上に高野悦子の「感想文」が掲載されている。
○ 感想文
今、雲照寺の境内のしばふに座って、この3日間を思うと、途中では、「ああはやく帰りたい。」とか、「来てよかった。」とかいろいろに思ったが、今の現在は、来てよかったと思っている。
いろいろな講話、水泳訓練、つなの結び方、3拍子とか4拍子などのリズム運動、一風変わっていたキャンプファイヤー、その他たくさんあった行事、今思えばすべて楽しい思い出である。そしていくつかの意味をふくんでいてくれる貴重なものである。
またこの静かな、そして美しい新せんな緑の中で、時々鳴くカナカナゼミの音、また私の知らない鳥の声、こんな所で3日間くらしてこられて、私のプラスだと思う。
それに初対面の人との生活。7班の朝顔で中学生は私一人だったので困ってしまったがそれだけプラスになった。自分一人の生活でなく全員の生活ということを。そしてそれにはいろいろなものがのりの役目をしている。そして、それを講話で、または体験で知らされたこの3日間、私にとってはプラスになった幹部訓練だった。(7班)
雲照寺は、栃木県西那須野町三区(現・那須塩原市三区町)にある真言宗東寺派の寺院である。明治時代に小学校が開校する以前は、地元の児童たちが寺子屋式教育を受けていた。
かつては本堂などを合宿や研修の場として提供していた。境内が芝生になっている。
住職の草野栄龍(1917-1986)は『那須文学』の同人に名を連ねた。
☞『那須文学』「高野悦子さんの手記」
高野悦子は小学校入学当初から学業成績が極めて優秀だった。
中学3年生当時の席次は学年全体で7番前後、女子だけでみると2番だったとされる。姉のヒロ子も中学校時代に成績優秀だったので、勉強ができる美人姉妹という評判になっていた。中学3年生当時の学年のトップが、野々村さんだった。
当時の栃木県の公立中学校では試験のたびに科目ごとの点数や成績そして順位を全部廊下に張り出して発表するのが一般的だった。このため同級生で誰ができるのか、何番にいるのかが一目瞭然でわかったとされている。
すぎのこ幼稚園は、栃木県西那須野町(現・那須塩原市)扇町にある私立幼稚園。幼稚園は現存するが、園舎は一新されている。高野悦子の自宅のすぐ近くである。
すぎのこ幼稚園は、那須寺が1955年に開園した。当時の西那須野町で最初の幼稚園である。それまで地元の幼児は主に大田原市の幼稚園に通っていた。
栃木県立大田原女子高等学校の教諭をしていた園長が1960年、同僚の英語教師を呼び、地元の子どもたちを相手に英語教室を開き、高野悦子もその一人だった。この英語教師は東京外国語大学出身で外国人の通訳をしていたこともあり、英会話に堪能で発音もネイティブに近かったとされる。教師は途中で交代したが、高野悦子は中学1年生までこの英語教室に通っており、ここで英語とくに発音の基礎を身に付けたと考えられる。
すぎのこ幼稚園では現在、年長の園児を対象に課外で英語教室を開いている。
高野悦子は、中学3年生だった1963年秋ごろ、栃木県西那須野町(現・那須塩原市)東町付近の住宅でスウェーデン人の女性が開いた英語教室に数回参加し、英語を教わっている。
このスウェーデン人の女性は栃木県黒磯市(現・那須塩原市)に住むキリスト教プロテスタントであるスウェーデン聖潔教団の宣教師の夫人である。宣教師は西那須野町では1953年ごろから住宅を会場に集会を開いて伝道活動を行っていた。夫人による日曜学校の英語教室もその活動の一環だったとみられ、地元の中学生らを相手に英語を教えていた。会場の住宅は現存しない。
箒川は、栃木県塩原町(現・那須塩原市)を源として、那須野が原の南を流れる河川である。西那須野町から塩原町へは上流に向かうことになる。
塩原町付近では渓谷をなしており、川沿いが塩原温泉にあたる。春から秋にかけてアユ、ヤマメ、イワナなどの渓流釣りが行われている。
この日の数学の時間は、選択クラスの授業のことである。
高野悦子が通っていた西那須野中学校では当時、高校進学をめざす生徒に加えて中学を卒業して直ちに就職する生徒も多数いた。このため3年生では、通常のクラスたとえば高野悦子で言えば在籍した3年3組とは別に、英語と数学について高校進学をめざす生徒だけを対象とした選択クラスを編成して受験に向けた授業が行われていた。
なおここで登場する野々村さん、杉本君、美紀子ちゃん(倉橋さん)のいずれも高校に進学している。
「うらの方」は、栃木弁で「後ろの方」の意味である。栃木弁の典型的表現の一つ。
舟木一夫(1944-)は歌手で、橋幸夫、西郷輝彦とともに御三家と呼ばれた。学生服姿がトレードマークで、代表曲は青春歌謡としてあまりに有名な「高校三年生」(1963年)である。この曲で1963年12月31日の第14回NHK紅白歌合戦に初出場している。
日本テレビ12月28日午後0時15分~午後0時45分:「歌」(こまどり姉妹、北原謙二、舟木一夫)。
『学研マシンブックス─高能率プログラム学習─』は、教育出版大手の学習研究社(現・学研ホールディングス)が発行していた中学生向けの問題集である。1962年初版、当時150円。
「独特の方法にもとづいて作られた教材(プログラム)と、それを入れて動かす機械(マシン)から成っています。このプログラムは、ひとくちにいうと、問いと答えの連続したものですが、これをマシンに入れると、1問ずつ問いが現われ、解答すると、つぎに正解が現われて、自分の答えとくらべることができ、あっていたらつぎに進めるようになっています」
「かんたんなマスク・カードをつけて、マシンの代わりをするという方法です。これですと、プログラムだけの価格で、マシンのはたらきを兼ねるものが買えます。アメリカではこのペーパー・マシンが全盛となっています。私たちがこの本を「マシンブックス」と呼ぶのは、このためです」(学習研究社学習活動研究室「“プログラム学習”とは何か─新時代の高能率・高速度勉強法』『学研マシンブックス─高能率プログラム学習─中学英語第1巻』(学習研究社、1962年))。
各ページともに左右の欄に分かれていて、左の欄に問題が、右の欄にはその正解が載っている。マスク・カードと呼ばれるコの字形の水色のしおりで正解を隠しながら、問題を解いて答えを書き、カードで隠していた正解と照らし合わせて次へ進むという順序をくり返していく。
各巻ともB5判192頁で、中学英語は2年生と3年生を対象に全部で10巻からなる。全体の分量は多いが、学びやすい順序に構成され、一問一答で無駄がないため、慣れるとスピードをもって学習を進められるようになるのが特徴の教材だった。
☞〝初恋の人〟中学校同級生・杉本君「今でも覚えているあの場面」
成人の日の祝日は当時、1月15日だった。
NHKテレビ1月15日午後1時00分~午後2時00分:「第10回NHK青年の主張全国コンクール全国大会」。その年に満20歳を迎える若者が自分の考えたことや感じたことなどを主張として発表する番組である。
高野悦子は高校への進学を決めていたが、西那須野町では1950年代後半ごろから集団就職が始まっていた。集団就職とは、地方の中学校卒業者が労働省(現・厚生労働省)や都道府県などのあっせんにより、京浜地区などの企業の主に工場に集団で就職することをいう。当時中学校卒業者は「金の卵」と呼ばれた。
西那須野中学校でも卒業者の多くが東京方面に就職していくため、毎年3月には国鉄(現・JR東日本)・西那須野駅で満員の集団就職列車を見送る光景が見られた。集団就職は全国的に1964年をピークに減少していく(『西那須野町の社会世相史』(西那須野町、2004年)参考)。
烏が森公園は、栃木県西那須野町(現・那須塩原市)三区町にある公園(地図上左参考)。
烏が森公園は、サクラ、ツツジ、アジサイなどの花の名所として知られ、園内にある標高297メートルの烏が森の丘では那須野ヶ原を一望できる。このため1879年に内務卿(内務大臣)伊藤博文や大蔵大輔(大蔵次官)松方正義が那須野ヶ原視察に訪れたほか、1885年には那須疏水の起工式が行われた。
1886年にソメイヨシノを植樹、1907年ごろから見事な花をつけるようになり、多くの客が訪れるようになった。とくに1919年ごろまでは〝関東随一〟とも〝関東北随一〟と言われるほどのにぎわいを見せ、多くの出店があった。戦後の1959年には丘の下にフランス式庭園を整備した(『西那須野町の福祉厚生史』(西那須野町、1995年)参考)。
交通の要衝として発展した旧・西那須野町にとっては最も身近な行楽地である。
高野悦子は西那須野町立(現・那須塩原市立)東小学校1年生の時の遠足でも訪れている。
なお単行本『二十歳の原点ノート』(新潮社、1976年)、『二十歳の原点ノート』新潮文庫(新潮社、1980年)、それに『二十歳の原点ノート[新装版]』(カンゼン、2009年)のいずれも〝烏〟(からす)ではなく「〝鳥〟(とり)が森公園」と表記している。
西那須野駅は、栃木県西那須野町(現・那須塩原市)永田町にある国鉄(現・JR東日本)東北本線の駅である。
鉄道の開通に伴い1886年に那須駅として開業、1891年に西那須野駅と改称された。塩原軌道や東野鉄道の開業もあって塩原温泉や栃木県北部の中心都市である大田原の玄関口となっていく。
1935年に二代目駅舎が完成した(写真)。高野悦子が利用したのはこの駅舎である。1977年に東北新幹線建設工事に伴って仮駅舎に移転するまで使用された。
東北本線は上野・黒磯間が1959年5月に電化、1964年9月に複線化が完成した。これらに伴うダイヤ改正等で、西那須野駅は1964年10月当時、上野駅まで約2時間15分(急行)、宇都宮駅まで約33分(急行)の距離となった。当時は一日あたり上り普通列車が22本に対して、急行列車が13本と大きなウエイトを占めていた。
西那須野駅は当時年間約300万人の乗降客が利用しており、塩原温泉への観光客の増加や鉄道利用の高校生の増加などにより乗降客は1968年にピークを迎えている(『西那須野町の交通通信史』(西那須野町、1993年)参考)。
1980年から現在の駅舎になっている。
08:40国鉄(現・JR東日本)・西那須野駅-(東北本線(上野行普通列車))-09:32宇都宮駅
☞宇都宮駅 栃木県立宇都宮女子高等学校