高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点ノート(昭和38年)

〝初恋の人〟中学校同級生・杉本君「今でも覚えているあの場面」

 西那須野町立(現・那須塩原市立)西那須野中学校で高野悦子と同級生だった男性と会って、話をうかがった。
 この同級生の男性は、『二十歳の原点ノート』に登場する「杉本君」である。

 高野悦子は1963年11月6日(水)に以下の記述をしている。
 なぜって、杉本君(ここでは特別「君」をつけさせてもらいます。「君」ってよぶと感じがいいんですもの)と英語の勉強の競争の決心をしたの。そのわけは杉本君がにくらしいから。そのにくらしいというのは複雑な感情で、本当に、にくらしいのとはちがうらしいの。私は杉本君といろいろな事を話したいのに、全然そういう素振りが杉本君にはみえないのが原因です。杉本君は何かさびしいような感じをうけます。

 この日以降、日記には中学校の同級生・杉本君に関して感情が込められた記述が出てくる。
 初恋の人とはあくまで本人によって後から思うものだが、本ホームページは高野悦子の初恋の人が杉本君とみている。
 オフィスに現れた杉本さんは、ほほえみながら「もう時効かな」とつぶやき、少し時間をおいてから話を始めた。


幼なじみだった彼女

 杉本:西那須野町立東小学校で一緒になったのが高野悦子との初めての出会いだった。
 小学1年生のころには彼女の自宅を訪ねたり、ブランコに一緒に乗ったりした。自然に仲よしになった。だから幼なじみと言っていいと思う。
小学校4年生遠足 いつだったか、訪ねた時に彼女が習字を習いに行っていて留守だったので、「お待ちになる?」と言われ、帰ってくるまで彼女の家で待ったことがあったのを、なぜか覚えている。
 それから小学4年生までの4年間はクラスもずっと同じで、ずっと意識していた。
 彼女は成績が良く、私も成績が良かった。当時は、それで学年末に先生から〝ご褒美〟代わりに文房具をもらえた。もらったことを別に隠す必要はなかったけど、二人の間でないしょにしていたこともあった。
 小学5年生からクラスは別になってしまったが、何となく関心はあって、たぶん6年生の時だと思うが、彼女が図書委員をやっていて、図書室で一人で当番として貸し出しや図書カードの管理をしているところを、私が一人で借りに行った。その時は大した話もしなかっただろうが、やっぱり気になってたから行ったと思うんだ。

 学校のクラスは別になったが、すぎのこ幼稚園の英語教室では小学6年生から中学1年生まで一緒に英語を習っている。
西那須野町立東小学校

初恋の人、そして新聞部

学校全景 杉本:1961年4月に西那須野町立西那須野中学校に入って、中学1年生の時は別のクラスだったが気にはなっていた。
 クラブ活動で私は当時は柔道部にいて講堂に畳を敷いて練習していて、高野悦子は卓球部で、同じ講堂の残りの場所に卓球台を置いてやっていたので、チラチラと見てたりした。先輩とかにらんでいるので、もちろん話とかはできなかったけど。
 それが1年生の終わりくらいかなあ、高野悦子がいた1年1組の中に好意を抱いている男子がいるとか、彼女が数学の先生に叱られたとかを伝え聞いたんだ。そうしたら、大いに気になるようになった(笑)。だから、そのころから〝意識〟し始めたんだろうね。
 自分にとっては初恋の人と言えると思う。

 でもやっぱりクラスが違うと教室も離れているし交流がなかったので、“一緒のクラスになったらいいな”と思っていたら、中学2年生になる時のクラス替えで、それが実現してうれしかったなあ。
 2年生の前期にはペアでクラスの学級会長と副会長になった。クラス替えをして初めて選ぶので、おそらく先生の推薦だったと思う。学級会は実際には大した活動はなかったけどね。

 学級会長は、いわゆる学級委員長と同じ意味である。

 高野悦子は1964年1月1日(水)に1963年の活動を振り返っている。
 新聞部のことをいおう。美紀子ちゃんも新聞部に入った。新聞を出すことになって、編集長の杉本さんに相談したが、その他の部員も出てこないので、結局、美紀子ちゃんと二人で仕上げてしまった。楽しかった。

学級新聞 二人で仕上げた学級新聞は『青春 第一号』(3年3組新聞部、1963年7月20日)である。
 本ホームページが入手したその新聞の2面の一部には「編集長・杉本君が原稿を書かない」という大きな空欄があった。

 学級会だけでなく彼女と私は2人ともクラスの新聞部になった。
 2年間で、彼女と一緒に一番活動したのは新聞部だと思う。
 これが実は、クラスの担当を決める際に私が「新聞部になりたい」と言ったら、担任の三木先生も〝適任〟ということで新聞部になったんだけど、そうしたら先生が、本当は別の担当だったはずの彼女に「高野さん、新聞部に入りなさい」って言って。2人で一緒にできるようになった。
 クラスの中で配る学級新聞を生徒が自分たちでガリ版を切って作った。部員は数人いたと思うが覚えてるのは彼女のことだけで(笑)

記事の空欄 それで私が編集長で彼女が副編集長になった。そこに倉橋美紀子も新聞部に入ってきたわけだよ。そうするとどうしても女子2人で活発に話をして、私は蚊帳の外になっちゃって。私はおもしろくないんで活動もしなくなると(笑)
 3年生の夏の紙面で、ついに編集長である私が〝社説〟を嫌がって書かなかったんで、空欄ができたことがあった。あげくに「編集長・杉本君が社説の原稿を書かない」という断り書きまでされてしまって(笑)。結局、3年生の時は私はあまり書いていないんじゃないかな。あとは彼女と倉橋で作ったわけだね。

 『青春第一号』には杉本さん作の一コマ漫画や別の生徒の投稿作品なども掲載されており、2人の文章だけという意味ではない。
西那須野町立西那須野中学校

席替えと意識

杉本君の漫画 杉本:中学3年生の席替えだった。
 身長の低い者から高い者の順に教壇から最前列が男子、2列目が女子、3列目が男子…と並べていくことになっていた。
 高野悦子はクラスで2番目に小柄で、私は背が高かったので、本来なら彼女は私よりずっと離れた前の方の席になりそうだった。
 私は思い切って「授業をよく聴きたいので一番前に行きたい」と先生に言ってみた。そうしたら席を最前列にしてくれた。2列目だった彼女が私の真後ろの席になった。
 一緒に新聞部になれたことといい席替えのことといい、三木先生は私が彼女を意識していることに気付いて気を使ってくれたんじゃないかと思っている。
 いずれにせよ、彼女の目の前に私がいて、私が振り返ると彼女がいることになった。

 たとえば社会の授業中。私が先生の質問に答えられなかったことがあった。
 そうすると彼女が後ろから小さな声で答えをささやいた。「ILO条約」って。正解を教えてくれた。
 でも私としては教えてもらった答えをいうのはしゃくなもんだから、聞えてるんだが先生に対して答えなくてね(笑)
 そうして彼女は私を意識するようになっていったと思う。

 ある日の休み時間中に、彼女が後ろから私の背中をチョンチョンって突いて、「杉本君、何色が好き」って聞かれたことがある。
 その時は、何色が特に好きっていうことはなかったので、「何色ってことはないよ」と答えた。
 でも今になって思うと、女の子の間で色占いとかよくするよね、何色が好きな人がどんな性格だとか。そういうのと関係があったのかなと思う。
 色で何かを探ってきたのかもしれないけど(笑)、その時の私は鈍感で全然気付かなかった(笑)

 美術の授業で校外で写生する時間があった。
 私が西那須野中学校の隣りの農業高校に行って、農場のサイロを中心に色彩画を描いていた。そしたら彼女が友達と一緒に来て、通りすがりに描いている絵をのぞいて「上手ねえ」って言う。
 私本人に向っては言わないで、女の子の友達に「上手ねえ」って同意を求めるんだね。
 私は何とも言えずに描いてるだけだったけど。どういうわけか、友達に「上手ねえ」ってその場で何度も繰り返すんだ。彼女は友達に同意をせがむんだけど、友達は同意しないんだけど(笑)
 そんなふうにせっかく話す機会があったのに、あまり話せなかった。

 私は友人に「杉本は彼女に話しかけられると赤くなり、杉本から話かける時は青くなる」って言われたことがあるんだ。これは今思うとうまい表現だったなって(笑)。意識しているから顔色に出てたんだろうね。
 素直になれなかった。つい意識しちゃって、私の方からは気楽に話しかけることはできなかった。
 思春期だから多かれ少なかれ女の子を意識することはあると思うけど、それだけでなく、彼女を特に意識したと思う。

 ついに高野悦子は1963年11月6日(水)に以下の記述をしてしまう。
 このごろ杉本君は先生の目のかたきになっています。実際、悪いのは悪いのですが……自分自身、悩んでいるんだと思います。そして、だんだんひねくれていくみたいです。それを私が助けてあげられたらいいなあと思っています。だけど普通の友のように、杉本君と私とは話していないので残念です。向こうは私に全然無関心のようなので、こっちも怒っているのです、でも話せたらなあと思います。

 無関心だなんてとんでもない、関心はすごいあった(笑)。もったいなかったなあ(笑)
 自分自身に恋の芽生えという体験がないから、自分自身に戸惑っていた。こういうのは恋だよという自覚がないから、おそらく自分自身をうまく取り扱うことできなかった。
 本当は話したかったんだよね。でも二人になれないと話せないし、二人になるとこっちは緊張して意識して、素直に気楽に言葉が出てこなかった。

今でも覚えているあの時あの場面

 杉本:ただ高野悦子の日記に、“話ができてうれしかった”というような記述があるよね。授業中に私が抜け出したあと話をして、何となく自然な会話ができたんで気持ちが通じたというね。

 それは1963年11月19日(火)の記述のことである。
 今日の五時間目の数学の時間、杉本君はずっといませんでした。そして、六時間目が始まる前にきたので、「五時間目いなかったの、どうしたの」と私がいうと、杉本君は「出張してたんだ」といったので、私は「出張手当もらった?」とふざけていったら、杉本君は笑っていました。何だかとても楽しかったです。そのことを考えるとうれしいです。いつも歯車が合わないでずれていたのが、きちんと合わさったんですもの。つまり、二人の会話が成立し、最後がユーモアでおさまったのが特にうれしかったの。

 ゆっくり読み上げると、杉本さんは、文章のひと言ごとにうなずいたあと、だまったまま、しばらく遠くを見つめた。

親友・倉橋さんと …うまいなあ、すばらしいな。ちゃんとそういうふうに表現できるんだから。びっくりする。実際そうだったんだよ。
 この時は、私が自習の時間に抜け出した。いわゆる〝エスケープ〟だった。実際は教室から抜け出して、校内の別の教室の陰に隠れてただけなんだけど。
 ぶらぶらして1時間ほどして戻ってきたら、彼女に「どうしたの」って。
 「出張してたんだ」って答えたら、「出張手当もらったの?」って聞かれた。これは先生からお目玉を食らったのという意味なんだけど、私が「まだだよ」ってやりとりした記憶がある。
 私もあの時あの場面を今でも完全に覚えている。すんなり会話がはずんでうれしかったんだ。初めて気が通じたみたいでね。だから強く印象が残っている。
 それ以降は彼女との会話の歯車があった。

 私が彼女を好きだということは、周りの人は結構知ってた。
 ただ彼女に伝わってたかどうかはわからない。日記には伝わっているように書いてないしね。
 逆に自分の方に伝わってきたこともなかった。無関心でもないし、反感を抱いてなかったことはわかったけど、自分としてはただ単なる好意の域は出てないと思っていた。

 『二十歳の原点ノート』の記述で杉本さんとの大きなつながりとして英語の勉強が出てくる。
英語の勉強と彼女の涙

 杉本:私は小学校6年生の時から開設されたすぎのこ幼稚園の英語教室に通って、英語を始めた。英語の勉強に関しては進んでやった。
 教科書は全部覚えたし、マシンブックスは参考集と問題集が合体したような教材でかなり大部だったが、英語は全部やりきった。この教材をやっていたのは男子で数人程度だったと思う。
 英語に関しては学校で一番だった。英語については苦労はなく、勉強として意識なかった。散歩とか学校の空いた時間にもやってた。もう勉強じゃなく趣味みたいな感じで。中学2年生の時に1学年上の3年生の合同のテストを受けたこともあった。中学生時代は英語教室を開くか通訳になることを考えていた。先生には外交官を目指せと言われた。

 私から見て、高野悦子も英語はできたよ。彼女は中学校時代の成績も良かった。当時、同じ学年の女子では彼女ともう一人の上位2人の成績が飛び抜けて、それ以下を大きく引き離していた。
 マシンブックスは、学習研究社・学習活動研究室『中学英語─高能率プログラム学習』学研マシンブックス(学習研究社、1962年)のことである。
すぎのこ幼稚園

すぎのこ幼稚園写真 勉強と言えば、すぎのこ幼稚園の英語教室に一緒に通っていた彼女を中学1年生の時に一度泣かせたことがあるんだ。
 彼女が休みの日に先生が生徒にプリントを配ったことがあって、私と友人が彼女の分のプリントを受け取って、同じ英語教室の別のクラスに来ていた彼女のお姉さんに渡して頼んだんだ、「妹さん(高野悦子)に渡してくれ」って。
 次の回の授業に彼女がプリントを持ってこなかったんだ。授業で使うのに。私と友人が「確かにお姉さんに渡して頼んだよ」と言ったら。彼女は「お姉さんからもらってない」というわけだよ。そのやりとりが何度かあったんだ。私の方は「確かにお姉さんに渡したよ」と言い張るわけ。
 そうすると彼女はちょっと涙ぐんじゃって、ぽろっと涙を流したんだ。うつむいて、手の甲の所に涙が落ちた。彼女は強く反論したりしないんだよ。
 だから、私の友だちには当時、彼女のことを勝ち気だとか負けず嫌いだとか言うのもいたけど、私はそんなふうには感じてなかったね、ずっと。
 そうじゃなくて、彼女は一生懸命なんだよ。

 高野悦子は1963年2月3日(日)に全校マラソンでの優勝を記述している。
 昨日のマラソン、二年女子で一位だった。全然思いもよらなかったことでとても嬉しい。メダルを大切にしまっておこう。

全校マラソン 全校マラソンの優勝もそう。普通は優勝は全員陸上部だから、当時だれも予想してなかった彼女の優勝だった。校門から先頭で入ってくるのを見て知るんだけど、先生もみんなも驚いた。
 見た目がわりときゃしゃでしょ。だから、その時は学校全体がびっくり。私もびっくりしたねえ、“とにかくすごいなあ”って。というのは、私は全力で走らなかったから(笑)

 高野悦子は高校入試が迫った1964年2月5日(水)に久しぶりに勉強以外の話題として全校音楽会での優勝を記述している。
 音楽会があって三年三組はみごと優勝した。三木先生と土井先生が先週あたりにほめてくれていたので、あるいはと思っていたが、本当になるとは思わなかった。それだけにうれしい。杉本さんが賞状とたてをもらいにいった。

全校音楽会 杉本:「出張手当」以降は、会話の歯車は合うようになったと思う。印象に残るエピソードがあまりないからね。
 全校音楽会ではクラスで合唱をした。私が指揮で彼女がピアノ伴奏だったが、校内で優勝したことはいい思い出だった。曲はヘンデルの合唱曲「見よ、勇者は帰る」だったと思う。音楽の先生の指導でクラス全員で練習して、クラス全体で表彰された。

 中学3年生の卒業間近の思い出として、雪の日の翌日の下校の時に前日の雪が残っていたことがあった。
 彼女とは登下校が徒歩で同じルートだったが、 私の方が先に歩いていて、雪がきれいなものだから、普段の道を通らずに近道をして空地の中を歩いて行った。そしたら彼女も後から同じ近道に来た。
 彼女は友だち連れだったんで何ごともなく行ってしまったけど(笑)

中学校通学路

 高野悦子は1964年1月1日(水)に次の記述している。
 杉本君、どんなところがいいのかって? ひねくれていて、男らしさ(つまりやろうという気になったらどこまでもやる男らしさ)がある。でも〝もっと素直になったらなあ〟と思うこともある。
1964年年賀状

 高野悦子が1964年正月に杉本君に宛てて出した年賀状が残っていた。
1964年直筆年賀状
 表(宛名面)は西那須野町と杉本君の氏名だけが書かれている。住所の字名以下は書かれていない。杉本君によれば、これは高野悦子から「住所を教えて」と聞かれた時に、年賀状をもらえてうれしいことを素直に表現できず、恥ずかしさまたはてれ隠しで冗談っぽく「西那須野町で届くんじゃないの」と答えたら、実際そのようになったためだという。
 消印は「栃木・西那須野、昭和39年1月1日06~12時」で、1963年12月31日(火)か1964年1月1日(水)午前に当時の西那須野町内で投函されたことになる。郵便番号制度はまだ導入されていなかった。
 裏(通信面)は「A HAPPY NEW YEAR コレカラモドウゾガンバッテクダサイ にしなすのまち えつこ」。
 文字等をろうそくのようなもので書いたあと、水彩絵の具で緑色に塗ってある。文字等の部分が絵の具をはじき、白く浮き上がっている。さらにA HAPPY NEW YEARの部分はクレヨンで青くなぞってある。「A」という文字と人のような形とを重ね合わせて表現している。
 杉本君からも折り返し年賀状を送ったという。

卒業式の日

 そして1964年3月14日(土)、西那須野中学校は1963年度卒業式を迎える。

 ひねくれてたんだよ。〝もっと素直になったら〟というのは、その通りだった。本当は彼女に大いに関心があったんだけどね(笑)
 卒業まで彼女と二人になることはなかった。どこかに一緒に行きたかったが、それがかなうこともなかった。

 中学校卒業式の日は、彼女からサイン帳に書いてくれって頼まれた。
 ただ私は、別れの言葉を書くつもりはなかった。
 学生服の胸にある名札の「杉本」を切り取って、彼女のサイン帳に挟んで返した。それは私の全くの思い付きだった。
西那須野中学校卒業記念写真中学校卒業写真の高野悦子
 当時は卒業式のあと高校の合格発表日があった。卒業してから進学先がわかるわけだ。
 高校の合格者は中学校へ報告に行く。私も西那須野中学校に行って報告したら、先生から「彼女も合格したよ」って聞いた。
 そして友人の自転車の後ろの荷台に乗って学校から帰る途中に、彼女が向こうから歩いてきたのが見えた。
 私が彼女に「おめでとう」と言ったら、彼女は「ありがとう」と答えた。
 中学生時代に交わした最後の言葉だった。

京都へ向って歩く

1967年当時の西那須野駅 杉本:高校生の時は、彼女の姿を見かけたことが一度だけあった。それは高校2年生のころだと思う。
 私の実家は商店をしていたけど、高校1年の秋に父親を亡くしてから、母親が宇都宮の問屋に仕入れに行っていた。母親が仕入れの帰りの夜、雨の日だったんで私が母親を迎えに駅まで行ったら、高野悦子も学校(宇都宮女子高校)から帰る途中で、駅ですれ違った。
 でも私は彼女に声はかけなかった。
 高校時代も彼女に憧れていたんだが、彼女に引け目みたいなものを感じてしまっていた。高校時代は会ってなかった分、どんどん彼女のことが理想像としてどんどん高くなっていって、自分のことが低くなっていった。中学校の時のように普段から毎日顔を合わせていれば、そこまでにならなかったと思うけど、そうなってしまっていた。

栃木県立宇都宮女子高等学校

 最後に会ったのは、大学生の時だった。
 私は当時、彼女一人のことをずっと思っていた。彼女が立命館大学に行ったと聞いた時は、どうして東京の大学に来なかったのかとがっかりしていた。
 1968年7月、私は彼女にどうしても会いたいと思って無茶なことをした。「東京の下宿から歩いてきた」と言えば、きっと会ってくれると思って、京都に向って歩きだした。当時のことなので、立命館大学を訪ねたら住所を教えてくれるだろうと思った。
 5、6日は野宿をして10日くらいかければ行けると思って、静岡県の掛川市あたりまでたどり着いた。でもそこで台風にあって、宿に2、3泊したらお金がなくなり、東京に引き返してきてしまった。

 遭遇した台風は、静岡県太平洋沿岸等に被害が出た1968年台風4号である。

よせ書き 青春
 杉本:だけど1か月後の1968年8月に彼女に会うことができた。喫茶店・ブラジルの2階だった。
ブラジル

 ブラジルは、栃木県西那須野町(現・那須塩原市)永田町にあった喫茶店である。建物は現存せず、駐車場になっている。
ブラジルの店周辺の地図ブラジル跡

 私が夏休みで西那須野に帰ってきて、男の友だち3人を呼び出したら、彼女も来てくれた。そこで、私が京都に向って旅していた時点で彼女は帰省していたことがわかったわけだ(笑)。店にはあとから西那須野中学校時代の同級生の女子2人も来た。
 “会えてよかったなあ”と思った。その時の彼女は中学時代よりいくぶんふっくらしてたけど、イメージは変わってなかった。
 彼女が歴史学でどんな勉強しているか興味があって聞いてみた。そしたら「全然勉強はしてないんだ」って話をした。それが本気でそう言ったかは別として。
 店を出て、彼女は友だちと実家の方に歩いて消えていった。

西那須野中学校寄せ書き
 ガリ版刷りの『青春─よせ書き3年3組』(西那須野中学校、1964年)。高野悦子は「わたしを知っているの、それは私だ。わたしは、わたし自身を生かすのに努力する」、同じページに杉本さんはイラストともに「仲よくいこう」と書き残していた。

杉本君が保存していた那須文学 1969年、東京にいた私は彼女が亡くなって葬儀があったという連絡を受けた時、衝撃とともにがく然とした。そのあと日記を読んで、学生運動をしてたとか知ってさらにびっくりした。
 今も残念だ。
 死んで日記が出なければ彼女は有名にならなかったが、有名にならなくてよかったから生きていてほしかった。

 〝文学青年〟の面影が残る温和な人柄の杉本さん。今も、中学校時代から得意だった英語を生かした仕事をされている。
 高野悦子の墓参りをしたことはないという。
 ※話中に登場する人名の敬称は略した。注は本ホームページの文責で付した。

 インタビューは2013年6月30日に行った。

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