高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点ノート(昭和38年)

中学校同級生・杉本君②「卒業式の日、彼女に渡したもの」

 (①「今でも覚えているあの場面」から続き)
 高野悦子の日記の記述で杉本さんとの大きなつながりとして英語の勉強が出てくる。
英語の勉強と彼女の涙
 杉本:私は小学校6年生の時から開設されたすぎのこ幼稚園の英語教室に通って、英語を始めた。英語の勉強に関しては進んでやった。
 教科書は全部覚えたし、マシンブックスは参考集と問題集が合体したような教材でかなり大部だったが、英語は全部やりきった。この教材をやっていたのは男子で数人程度だったと思う。
 英語に関しては学校で一番だった。英語については苦労はなく、勉強として意識なかった。散歩とか学校の空いた時間にもやってた。もう勉強じゃなく趣味みたいな感じで。中学2年生の時に1学年上の3年生の合同のテストを受けたこともあった。中学生時代は英語教室を開くか通訳になることを考えていた。先生には外交官を目指せと言われた。

 私から見て、高野悦子も英語はできたよ。彼女は中学校時代の成績も良かった。当時、同じ学年の女子では彼女ともう一人の上位2人の成績が飛び抜けて、それ以下を大きく引き離していた。

すぎのこ幼稚園
 マシンブックスは、学習研究社・学習活動研究室「中学英語─高能率プログラム学習」学研マシンブックス(学習研究社、1962年)のことである。

すぎのこ幼稚園写真 勉強と言えば、すぎのこ幼稚園の英語教室に一緒に通っていた彼女を中学1年生の時に一度泣かせたことがあるんだ。
 彼女が休みの日に先生が生徒にプリントを配ったことがあって、私と友人が彼女の分のプリントを受け取って、同じ英語教室の別のクラスに来ていた彼女のお姉さんに渡して頼んだんだ、「妹さん(高野悦子)に渡してくれ」って。
 次の回の授業に彼女がプリントを持ってこなかったんだ。授業で使うのに。私と友人が「確かにお姉さんに渡して頼んだよ」と言ったら。彼女は「お姉さんからもらってない」というわけだよ。そのやりとりが何度かあったんだ。私の方は「確かにお姉さんに渡したよ」と言い張るわけ。
 そうすると彼女はちょっと涙ぐんじゃって、ぽろっと涙を流したんだ。うつむいて、手の甲の所に涙が落ちた。彼女は強く反論したりしないんだよ。
 だから、私の友だちには当時、彼女のことを勝ち気だとか負けず嫌いだとか言うのもいたけど、私はそんなふうには感じてなかったね、ずっと。
 そうじゃなくて、彼女は一生懸命なんだよ。


 高野悦子は1963年2月3日(日)に全校マラソンでの優勝を記述している。
 昨日のマラソン、二年女子で一位だった。全然思いもよらなかったことでとても嬉しい。メダルを大切にしまっておこう。
全校マラソン 全校マラソンの優勝もそう。普通は優勝は全員陸上部だから、当時だれも予想してなかった彼女の優勝だった。校門から先頭で入ってくるのを見て知るんだけど、先生もみんなも驚いた。
 見た目がわりときゃしゃでしょ。だから、その時は学校全体がびっくり。私もびっくりしたねえ、“とにかくすごいなあ”って。というのは、私は全力で走らなかったから(笑)。


卒業式の日
 高野悦子は高校入試が迫った1964年2月5日(水)に久しぶりに勉強以外の話題として全校音楽会での優勝を記述している。
 音楽会があって三年三組はみごと優勝した。三木先生と土井先生が先週あたりにほめてくれていたので、あるいはと思っていたが、本当になるとは思わなかった。それだけにうれしい。杉本さんが賞状とたてをもらいにいった。
全校音楽会 杉本:「出張手当」以降は、会話の歯車は合うようになったと思う。印象に残るエピソードがあまりないからね。
 全校音楽会ではクラスで合唱をした。私が指揮で彼女がピアノ伴奏だったが、校内で優勝したことはいい思い出だった。曲はヘンデルの合唱曲「見よ、勇者は帰る」だったと思う。音楽の先生の指導でクラス全員で練習して、クラス全体で表彰された。

 中学3年生の卒業間近の思い出として、雪の日の翌日の下校の時に前日の雪が残っていたことがあった。
 彼女とは登下校が徒歩で同じルートだったが、 私の方が先に歩いていて、雪がきれいなものだから、普段の道を通らずに近道をして空地の中を歩いて行った。そしたら彼女も後から同じ近道に来た。
 彼女は友だち連れだったんで何ごともなく行ってしまったけど(笑)。

中学校通学路

 高野悦子は1964年1月1日(水)に次の記述している。
 杉本君、どんなところがいいのかって? ひねくれていて、男らしさ(つまりやろうという気になったらどこまでもやる男らしさ)がある。でも〝もっと素直になったらなあ〟と思うこともある。
1964年年賀状

 高野悦子が1964年正月に杉本君に宛てて出した年賀状が残っていた。
1964年直筆年賀状
 表(宛名面)は西那須野町と杉本君の氏名だけが書かれている。
 住所の字名以下は書かれていない。杉本君によれば、これは高野悦子から「住所を教えて」と聞かれた時に、年賀状をもらえてうれしいことを素直に表現できず、恥ずかしさまたはてれ隠しで冗談っぽく「西那須野町で届くんじゃないの」と答えたら、実際そのようになったためだという。
 消印は「栃木・西那須野、昭和39年1月1日06~12時」で、1963年12月31日(火)か1964年1月1日(水)午前に当時の西那須野町内で投函されたことになる。郵便番号制度はまだ導入されていなかった。
 裏(通信面)は「A HAPPY NEW YEAR コレカラモドウゾガンバッテクダサイ にしなすのまち えつこ」。
 文字等をろうそくのようなもので書いたあと、水彩絵の具で緑色に塗ってある。文字等の部分が絵の具をはじき、白く浮き上がっている。さらにA HAPPY NEW YEARの部分はクレヨンで青くなぞってある。「A」という文字と人のような形とを重ね合わせて表現している。
 杉本君からも折り返し年賀状を送ったという。

卒業式の日

 そして1964年3月14日(土)、西那須野中学校は1963年度卒業式を迎える。

 ひねくれてたんだよ。〝もっと素直になったら〟というのは、その通りだった。本当は彼女に大いに関心があったんだけどね(笑)。
 卒業まで彼女と二人になることはなかった。どこかに一緒に行きたかったが、それがかなうこともなかった。

 中学校卒業式の日は、彼女からサイン帳に書いてくれって頼まれた。
 ただ私は、別れの言葉を書くつもりはなかった。
 学生服の胸にある名札の「杉本」を切り取って、彼女のサイン帳に挟んで返した。それは私の全くの思い付きだった。
西那須野中学校卒業記念写真中学校卒業写真の高野悦子

 当時は卒業式のあと高校の合格発表日があった。卒業してから進学先がわかるわけだ。
 高校の合格者は中学校へ報告に行く。私も西那須野中学校に行って報告したら、先生から「彼女も合格したよ」って聞いた。
 そして友人の自転車の後ろの荷台に乗って学校から帰る途中に、彼女が向こうから歩いてきたのが見えた。
 私が彼女に「おめでとう」と言ったら、彼女は「ありがとう」と答えた。
 中学生時代に交わした最後の言葉だった。


京都へ向って歩く
1967年当時の西那須野駅 杉本:高校生の時は、彼女の姿を見かけたことが一度だけあった。それは高校2年生のころだと思う。
 私の実家は商店をしていたけど、高校1年の秋に父親を亡くしてから、母親が宇都宮の問屋に仕入れに行っていた。母親が仕入れの帰りの夜、雨の日だったんで私が母親を迎えに駅まで行ったら、高野悦子も学校(宇都宮女子高校)から帰る途中で、駅ですれ違った。
 でも私は彼女に声はかけなかった。
 高校時代も彼女に憧れていたんだが、彼女に引け目みたいなものを感じてしまっていた。高校時代は会ってなかった分、どんどん彼女のことが理想像としてどんどん高くなっていって、自分のことが低くなっていった。中学校の時のように普段から毎日顔を合わせていれば、そこまでにならなかったと思うけど、そうなってしまっていた。

栃木県立宇都宮女子高等学校

 最後に会ったのは、大学生の時だった。
 私は当時、彼女一人のことをずっと思っていた。彼女が立命館大学に行ったと聞いた時は、どうして東京の大学に来なかったのかとがっかりしていた。
 1968年7月、私は彼女にどうしても会いたいと思って無茶なことをした。「東京の下宿から歩いてきた」と言えば、きっと会ってくれると思って、京都に向って歩きだした。当時のことなので、立命館大学を訪ねたら住所を教えてくれるだろうと思った。
 5、6日は野宿をして10日くらいかければ行けると思って、静岡県の掛川市あたりまでたどり着いた。でもそこで台風にあって、宿に2、3泊したらお金がなくなり、東京に引き返してきてしまった。

 遭遇した台風は、静岡県太平洋沿岸等に被害が出た1968年の台風4号である。

よせ書き 青春
 杉本:だけど1か月後の1968年8月に彼女に会うことができた。喫茶店・ブラジルの2階だった。
ブラジル

 ブラジルは、栃木県西那須野町(現・那須塩原市)永田町にあった喫茶店である。建物は現存せず、駐車場になっている。
ブラジルの店周辺の地図ブラジル跡

 私が夏休みで西那須野に帰ってきて、男の友だち3人を呼び出したら、彼女も来てくれた。そこで、私が京都に向って旅していた時点で彼女は帰省していたことがわかったわけだ(笑)。店にはあとから西那須野中学校時代の同級生の女子2人も来た。
 “会えてよかったなあ”と思った。その時の彼女は中学時代よりいくぶんふっくらしてたけど、イメージは変わってなかった。
 彼女が歴史学でどんな勉強しているか興味があって聞いてみた。そしたら「全然勉強はしてないんだ」って話をした。それが本気でそう言ったかは別として。
 店を出て、彼女は友だちと実家の方に歩いて消えていった。

西那須野中学校寄せ書き
 ガリ版刷りの「青春─よせ書き3年3組」(西那須野中学校、1964年)。高野悦子は「わたしを知っているの、それは私だ。わたしは、わたし自身を生かすのに努力する」、同じページに杉本さんはイラストともに「仲よくいこう」と書き残していた。

杉本君が保存していた那須文学 1969年、東京にいた私は彼女が亡くなって葬儀があったという連絡を受けた時、衝撃とともにがく然とした。そのあと日記を読んで、学生運動をしてたとか知ってさらにびっくりした。
 今も残念だ。
 死んで日記が出なければ彼女は有名にならなかったが、有名にならなくてよかったから生きていてほしかった。(談)


 “文学青年”の面影が残る温和な人柄の杉本さん。今も、中学校時代から得意だった英語を生かした仕事をされている。
 高野悦子の墓参りをしたことはないという。
 ※話中に登場する人名の敬称は略した。注は本ホームページの文責で付した。

 インタビューは2013年6月30日に行った。

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