高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点ノート(昭和41年)
1966年 2月25日(金)

高3で下宿仲間の同級生「階段で話した将来」

 高野悦子が栃木県立宇都宮女子高等学校在学中の『二十歳の原点ノート』1966年2月25日(金)に下宿先の引っ越しについて記述がある。
 矢野さんの家を引き払って、中島さんに移った。荷物だけおいてきたのだが。

 高野悦子にとって2か所目の下宿先になる「中島さん」(仮名)については、父・三郎によって1966年「三月、卒業した姉のあと、大場宅に下宿を移る」(高野三郎「高野悦子略歴」高野悦子『二十歳の原点』(新潮社、1971年))と解説されている。
 この「大場宅」は、栃木県宇都宮市住吉町の高校教諭、大場弘平方のアパートタイプの下宿である。宇都宮女子高校の生徒だけが下宿していた。
 ここで当時下宿仲間だった、高野悦子の同級生(旧姓)AさんとYさんの2人に対談で話をうかがった。高野悦子は厳密には高校2年生の終わりには引っ越してきていたが、下宿仲間にとっては概ね高校3年生の時に一緒だったと認識されている。


姉と同じ2階の部屋に

 ─「大場宅」に下宿されていたということですが。
大場宅下宿前の高野悦子 A:高野さんも含めて大場さんのお宅に下宿してました。私は1年生の時からずっと入っていたんですが、高野悦子さんと一緒だったのは3年生の時ですね。
 下宿では私が2年生の時に高野さんのお姉さんのヒロ子さんと一緒にいました。ヒロ子さんが卒業されたんで、そのあと同じ部屋に今度は妹の高野悦子さんが入って来たんです。高野さんのお姉さんがどういう〝つて〟で来られたのかはわからないですが、大場さんは宇女高生だけ代々預かってる下宿だったから、どこかで聞かれたんだと思います。
 Y:一緒に下宿してました。私は高校2年生の1965年9月から入ったので、お姉さんのヒロ子さんとはそれから1966年2月まで、そのあとは高野悦子さんと一緒でした。

 ─高野さんとクラスが一緒だったことはありますか。
 Y:2年生の時、高野さん、Aさん、私の3人が一緒のクラスでした。だから修学旅行も同じクラスで一緒に行ってるんです。でも2年生の時はそれほどお付き合いがなかったんですよ。
 A:クラスがだいたい52人か53人いましたね。だからお付き合いは決まった人でしたね。クラス全体でいろいろやったりはしたんですけど…。

栃木県立宇都宮女子高等学校

 ─高野さんは西那須野町からの通学が大変で下宿したんですが、お二人も学校まで遠くて下宿したんですか。
 A:私は昔の今市市、今の日光市ですけど、バスを乗り換えないと通えなくて不便だったので下宿した方がいいかなということになりました。親戚が「宇女高生ばかりいて、みんな勉強熱心な人がいるから」と大場さんの下宿を探してくださいました。
 Y:私も宇都宮じゃないですが、高野さんから比べればそんなに遠くはないんです。親が受験を控えて勉強に専念するようにと下宿させてもらったんですが…、2年生で一緒のクラスだったAさんから「下宿の部屋が空いてるから」って誘われて入りました。

 ─AさんがYさんを下宿に誘ったんですか。
 Y:そうです。
 A:本当にそうだった?
 Y:そう(笑)
 A:ごめん!(笑)

 ─友達から誘われたとしても、それまでYさんは自宅から通学してたのに親がよく許したというか…。
 Y:まあ、口実がありまして。「勉強を一生懸命するから」って(笑)。親はそれを言われると、もう反対できませんので。

大場宅空撮
 ─大場さんの下宿の建物はどうなっていたんですか。
 A:木造2階建ての古い造りでした。私たちが入っていた部屋は本当に〝下宿〟という感じで、1階に2部屋、2階に4部屋あったんですね。
 Y:下宿の建物が長方形で真ん中が玄関でした。玄関を入ってすぐ階段があって、1階の向って右側に2部屋あって、2階に上がって4部屋です。
 高野さんの部屋は2階の左端ですね。
 A:私は1階の右側の部屋にいました。1階にはあと左側に、私たちより広い部屋が1部屋空いてたんです。そこにYさんが入りました。
 Y:私の部屋だけ2階の2部屋分の広さが1階で1部屋になってたんですね。だから他の倍くらいありました。8畳で床の間と押入れが付いてて。
 ここは元々下宿のおじさんとおばさんが将来〝隠居〟する時のために用意していた部屋なので、作りも立派でした。
 A:Yさんの部屋に行くと、“わあ、私の部屋と違う!”(笑)。広かったんです。

 ─ということは、下宿は高野さんを含めて最大7人入っていたということですか。
 Y:ずっと満室だったので、毎年7人でした。
 A:でも1階のYさんの部屋はそれまで空いてたから、Yさんが来るまでは6人でしたけどね。
 Y:それで私が3年生の時の7人は、3年生が4人、2年生が2人、1年生が1人の構成でした。3年生はAさん、私、高野さん。もう一人が矢沢さんって…。高野さんと矢沢さんは3年生の時に一緒のクラスでした。

☞1966年9月16日「矢沢さんは御茶の水女子大にいくらしいが」

 ─下宿の部屋はどんな作りだったんですか。
大場宅入り口から A:4畳半くらいの畳敷きで、押入れがありました。南向きで窓がありました。高野さんの所も同じだったと思います。あと机はもちろん、ちょっとした整理ダンスも自分で持って行ってて、衣類を入れていました。
 Y:みんなそんな感じでした。ほかの部屋に入ることはあんまりしなかったですねえ。1階はありますが、2階に上ったことはないです。
 A:Yさんと私はよく行き来したんですけど、ほかの人の部屋には行ったことがないです。2階の高野さんの部屋も行ったことがありません。

 ─下宿の隣に母屋があったんですね。
 Y:そうです。バス通りの角にある入り口を入って、母屋の前を通ってから下宿に行くんです。母屋には、おじさんとおばさんの部屋がありました。
 A:母屋へは下宿の1階廊下からつながってました。朝夕の食事とお風呂は母屋でした。
 そして庭にね、いつも放し飼いのニワトリがいたんです。それで卵料理が多かったんですよね、ハハハ(笑)。Yさんの部屋の裏側にニワトリ小屋がありました。朝はうるさかったんじゃないかと。
 Y:ちょうど目覚まし代わりで…。

3食付き…でもおなかすいちゃって
 高野悦子が『二十歳の原点序章』1966年11月23日(水)、下宿での生活時間について書いている。
 八時十五分、朝飯のベルとともに起床、

 ─下宿での一日の生活ですが、朝食が午前8時15分という記述があります。
 A:もっと早かったです。
 Y:休日以外の普段は午前7時半くらいでした。8時くらいには下宿出る感じでしたから。朝食はベルが鳴ったんですよね。
 A:ベルが鳴りました。それで高野さんも含めてみんな母屋の方に集まりました。食堂と言っても座敷だったですけど、そこでみんなでいただきました。
 Y:座敷に長いちゃぶ台(座卓)がちゃんと用意してあって、7人座っていただいて、それだけですね。朝はもう新聞とか読んでる暇がないですからね。

 ─朝食は何でしたか。
 A:ごはんでした。おしんこもおばさんがよく付けてくれて…。
 Y:3食ともごはんです。朝はおみそ汁とおしんこと…簡単なものでしたよね。つくだ煮のようなのを2、3種類お皿に乗せていただきました。
 A:そうですね、焼き魚ですとかね。

☞1966年11月3日「今朝からお葉の漬けものが出ている」

 ─下宿からは宇女高に入るのはどの門でしたか。
宇女高南門跡 Y:私たちは南門から出入りしてましたよね。
 A:そうそう。西門側から入ることもありましたけどね。

 ─学校での昼食は。
 A:昼食は下宿のおばさんがみんなにお弁当を用意してくださって、それを持って学校へ行きました。
 Y:結局、3食付きということです。
 A:宇女高には当時、学校食堂はなかったですが売店はありました。売店ではパンが買えたんですよね。でも私たちは弁当でしたからね。

 ─高野さんも含めて皆さん弁当を持っていかれたんですね。
 A:そうです。
 Y:弁当は学校に行く日です。帰ってきて自分で弁当箱を洗って、置く場所があるんで、そこへ弁当箱を返しました。
 A:弁当を作っていただいて食べたんですけど、当時は高校生なんでおなかがすく年頃じゃないですか。学校から帰って来ると夕飯までおなかがすいちゃって、ちょっとおやつを買いになんて…。
 Y:それと…弁当はごはんと、おかずがいつも焼き魚につくだ煮だったんです。
 A:卵のそぼろもいつもあったの覚えてます。
 Y:それで自宅から通学してる人は、お母さん手作りのいろんなのを食べてるわけですよね(笑)。結構つらかったです。“パン買って食べた方がいいかな”ということもありましたけど、でも弁当を残すとおばさんから「具合が悪いの」とか言われますから、それはそれで…。
昼食で弁当を食べる写真 A:だから夕方までおなかすいちゃうんで、みんな買い物に行ってましたよね。
 Y:買い物に行って、自分のお小遣いで買って…。
 A:お菓子とかパンとか食べてました。高野さんも食べてたと思います(笑)
 Y:そう、主婦の人が買い物する店でお菓子を買ってきて…。
 A:学校の前の店には行かなかったです(笑)

 宇都宮女子高校の南門は現在使用されていない。

 ─夕食は何時ごろでしたか。
 Y:またベルが鳴って、みんな食堂に集まって…。暗くなってからだから、時間によってですけど…。
 A:午後7時か7時半だったですよね。
 Y:夜もやはり、ごはん、みそ汁、おしんこに、コロッケだったり。カレーライスだったこともありましたね。あと混ぜごはんもよく出ましたね。
 A:そうですね。でもね…、なんか私たち育ち盛りなんでおなかすいちゃったんですよね、ハハハ(笑)
 Y:ごはんは食べ放題だったんですよ。おひつを置いといてくれて、お代わり自由なんです。
 あと毎日夕食の終わった後にお茶を飲んで、その時に新聞を見せていただけるんで、新聞をバラして分けて、それぞれで回し読みして10分から20分話をして、食堂を引き上げました。
 A:うん。交代で読んで、読み終わると「ごちそうさまでした」って。
 Y:新聞の内容で時には7人で話をして、30分とか40分経つと、おばさんに「もうそろそろ」と言われて。

 大場さんの下宿で講読していたのは朝日新聞だった。

 ─食堂以外でも話することはありましたか。
 Y:母屋の食堂ではすぐ隣の部屋におじさんとおばさんがいるんで、話がしにくいことは階段の方に移って。みんな集まったのはこの階段の所ですよね。
 A:そうですね、時々そこに腰かけてお話しして。
 Y:階段の所で夜、1時間くらい話してる時が結構ありましたよねえ。ちょっとあんまり教育上聞かれては困るようなことは、その階段に7人で座って話をしてました。
 A:それぞれの部屋に行ってまでということはあんまりなかったです。

 洗濯、下着やソックス、セーターを洗って十一時半位になった。
 ─下宿で洗濯してたんですか。
 A:下宿の1階に洗濯場があったんですよ、廊下の角の階段の下に共同のトイレと簡単な洗濯場のような所が。私たち基本はそこで肌着とか自分で洗えるものは洗ってました。2階の人もみんなここに下りてきて交代でです。
 Y:私の部屋だけは中にトイレも洗面所もあったんで、そこで洗濯してました。洗濯と言っても、手で洗うんですよ。面倒です。
 A:洗濯機がなかったですもんね、フフフ(笑)。だから大きなものはしませんでしたね。
 Y:大きなものは土曜日に実家に帰るときに持ってって、洗濯して持ち帰りました。手で洗わなくて済みますからね。でも実家へ帰れないときは自分で洗濯しましたし、上着とかセーターとかはクリーニング屋さんに出していました。


 『二十歳の原点ノート』1966年11月22日(火)に下宿での入浴についての記述がある。
 お風呂に入りながら、何か食べたいなあと思ったので、サブレーを二枚持っていった。
 ─下宿では風呂に一緒に入ったりしましたか。
 A:違います。入浴は一人ずつです。廊下を渡って母屋に行くとすぐに左側にお風呂場がありました。
 Y:狭いものね。2人は入れなかったです。
 A:それで入る順番がずれていくんです。
 Y:だれが一番に入るかって部屋ごとにずれていくんです。出たら「お風呂どうぞ」って次の人に。
 A:次の人に回します。同じ人が毎回一番早い時間に入るんじゃなくて。順番をずらしていきます。
 Y:たしか1日おきだったですね、毎日は入れませんでした。
 A:一日おきでした。
 Y:夏はつらかったですね、体育をやった日とかですね(笑)
 A:うん、だから自分で体を拭いたりしましたね。でもいろいろお世話になっているというのがありましたからね。


母屋で見た『アンディ・ウィリアムズ・ショー』
 ─下宿を営んでいたおじさんとおばさん…、ご夫婦はどんな方でしたか。
 A:おじさんは書道の先生で、もうずっと書を書いて練習をされてました。
 Y:いつも新聞紙に字を書いていらして、その辺に書いた字が置いてありましたよね。
 A:とても口数の少ない、いつも穏やかな…。怖い人なのかなあと思ったら、そうでもなかったんですよね。
 Y:うん、あまりおじさんと直接お話しすることはありませんでした。おばさんが必ず間に入って…。
 A:おばさんはお話好きで、とても世話好きな方だったんで、おばさんが下宿の子どもたちの面倒を見てたんですよね。すごい教育熱心で、女の子たちを集めて家庭教育がてら、いろいろお話ししてくれました。


 日記では下宿での部屋の利用方法をめぐって注意された時のことがくわしく書かれているのが印象的だ。
 結局おじさんが言ったことは、セロテープを使用しないこと、柱をきれいにしておくこと、画鋲を使わないこと、の三つである。
 いろいろ考えてみたが、セロテープさえ認めないというのは合点がいかない。

 ─おじさんがこれらはダメと言ってましたか。
 Y:本にも書いてあったと思うんですが、私たちは部屋に画びょうをはったりセロハンテープを貼ったりしてはいけないと結構言われてたんです。すごく厳しかったですね。
 A:書いてありましたでしょう。厳しく言われました。
 Y:セロハンテープははがした後に黒くものが付きますし。
 A:跡が付いて壁とかと色が違ってきますからね。
 Y:それで、机の脇にベニヤ板の半分くらいの板が下がってありました。そこだけは貼っていいということでした。化学の元素周期表だとかそんなのをその板一面に貼ってました。
 A:私なんかブロマイドを貼ってましたけど(笑)
 Y:特に私の部屋は、おじさんおばさんがいずれ自分たちが入ろうと思っていたところなんで、「絶対に汚さないように」「畳も痛めちゃいけない」…気を付けました。
 「机とかで畳がへこむのもダメ」って親が言われたらしくって、親が敷物を敷いてくれたんです。
 A:Yさんの部屋だけではなくて、みんな言われてたんですけど。特にYさんの部屋は厳しかったね、ハハハ(笑)

 ─厳しい話が多いですね。
 Y:でも週末になると、実家へ帰る人もいるし日曜日も下宿にいる人もいるんですけど、日曜日におじさんとおばさんがたとえば親戚の法事だったりで外出する時があったんですよね。
 「お昼は近くの店から出前を取って、食べてね」って出かけて行くんです。そうするといなくなるんで、母屋の食堂の脇にあるおじさんおばさんの部屋で、テレビが見られたんですよね(笑)
1967年当時のアンディ・ウィリアムス 覚えてるのはNHKの『アンディ・ウィリアムズ・ショー』をやってました。
 A:あー、やってましたねえ。
 Y:「ムーン・リバー」が流行してた時で、それを高野さんも含めてみんなで見て「この歌いいね」って盛り上ったのはよく覚えてます。『アンディ・ウィリアムズ・ショー』は毎週日曜日のお昼ごろやってたんです。おじさんおばさんがいないとそれが見られるのが楽しみで(笑)
 A:ハハハ(笑)、本当ね。
 Y:お昼に出前で持ってきてくれた中華そばをみんなで食べて…。
 A:その日に下宿に残っている人だけでしたね。
 Y:そう、実家に帰っちゃっている人はいなかったですけど。もうおじさんおばさんがいなかったから、私たちだけでいろいろ遠慮なく話しながら(笑)
 A:ハハハ(笑)。おばさんは「テレビ見ちゃダメ」って言ってましたもんね、もう「勉強の邪魔っ」といった感じで、すごい厳しかったです。
 Y:テレビはおじさんおばさんの部屋にしかありませんでしたから。
 A:自分の部屋にテレビはなかったです。ラジオは持っていたんで、聞いてましたけど。

 『アンディ・ウィリアムズ・ショー』はNHK総合テレビで日曜日午後1時00分~40分に放送していた。
☞二十歳の原点序章1967年4月28日「アンディ・ウィリアムズが来日した」

一緒に見に行った「嵐が丘」
 再び『二十歳の原点序章』1966年11月23日(水)に戻ると、下宿から〝買い出し〟に行ったことについて書いている。
 ボンミヤノでお菓子の安売りをしているというので、私が代表で買ってきたり、

大場宅周辺地図
 ─「菓子の安売りを代表で買って」とあります。
 A:それですよ、ハハハ(笑)。勤労感謝の日…休みの日ですよ。
 Y:ありましたね。「安くケーキを売ってるから」みたいな情報が入ってね。「だれが行くか」(笑)。下宿のみんなで少しずつお金を出しあって買ってきて食べました。
 A:ボンミヤノの近くまで普段は行かなかったですね。学校の周りだけでしたからね。学校はすぐ近くで徒歩で通う距離でしたんで自転車とか持ってなかったですから。

 ─買い物はどうしてたんですか。
 A:みんなで昭和通りを歩いて行きましたよ。まだ砂利道で、ものすごく大きなサクラの木が両側に植わってました。サクラはすごかったんですよ、太いのがいっぱいでした。
 Y:サクラは今はもう切っちゃっいましたけど。 みんな、その通りを通って買い物に行ったりしました。「きょう行く?」とか言って、お菓子やおやつ買いに行ったり、あとクリーニング屋さんも一緒に…。

昭和通りフタバ食品工場跡
 ─範囲が狭いですね。
 A:そう、本当に狭かったですね。散歩に行くとしても気象台の辺りまででした。気象台は今でもありますよね。あっちの方まで行ったりしました。気象台より手前にアイスクリームのフタバの事業所があったんですよね。その辺りと…刑務所があったんですよ。
 Y:今は公園の所が刑務所でした。
 A:そこまで行ったこともありました。高い塀でしたけどね。

宇都宮地方気象台跡宇都宮刑務所跡
 昭和通りは、栃木県宇都宮市西原一丁目から幸町までを東西に通る宇都宮市道の愛称。当時は未舗装でサクラ並木で知られた。
 宇都宮地方気象台は、栃木県宇都宮市明保野町にある気象庁の機関。1989年に隣接する宇都宮第2地方合同庁舎に入居した。建物跡は栃木県弁護士会館になっている。ただし観測点は変わっていない。
 フタバ食品は、栃木県宇都宮市に本社がある食品メーカー。アイスクリームや冷菓が主力で宇都宮市幸町に宇都宮営業所があった。宇都宮営業所跡は現在、宇都宮短期大学附属高等学校・中学校第三グランド(テニスコート)の一部になっている。
 宇都宮刑務所は、栃木県宇都宮市明保野町にあった法務省矯正局の施設。1971年に廃止され、栃木県黒羽町(現・大田原市)の黒羽刑務所に移転した。跡地には現在、宇都宮市文化会館や宇都宮市立中央図書館が建っている。

ボンミヤノ

 『二十歳の原点ノート』1966年5月1日(日)には午前中から宇都宮で映画を見に行ったとしている。
 スカラ座で映画をみた。「嵐が丘」と「黄金の七人」だったが、「嵐が丘」を見にいったのだ。

 ─宇都宮の繁華街に一緒に行かれたことはありますか。
 Y:高野さんも含めて映画を見に行ったことがありました。「嵐が丘」か何か…。
 A:「嵐が丘」ですね。一緒に見に行きましたね。宇都宮のスカラ座。朝から行って並びました(笑)
 Y:並びましたね、当時は映画は並んでみるのが普通でしたから(笑)。宇女高で推薦映画にされたんですね。「世界文学の関係でぜひ見なさい」みたいなのがあったと思います。他の人もたくさんいた気がしました。
 私たちそんなにいろんな所へ行ったりしなかったですから、映画に行ったことはよけいに覚えてます。本当に勉強だけといった感じでしたから。私たちは部活にも入ってなかったし、もう本当に受験のためにというようなものなんで。結構そういう風なことは覚えてるんですよ。
 A:私は宇女高に入って華道クラブに入ったんですよ。そしたらおばさんに「部活やったりすると勉強がおろそかになるから」のようなことを言われまして、ハハハ(笑)。本当に教育熱心な、勉強一筋みたいな…。
 Y:私も中学校の時はテニスをやってましたんで、宇女高に入学した時にテニス部に誘いは受けたんですが、自宅から通ってたんで通学時間が長いし、親にもちろん反対されたんで(笑)、入りませんでした。
 A:でもみんなすごい勉強はしましたわ。私はしなかったですけど、ハハハ(笑)
 Y:私は勉強しました。
 A:Yさんはしたね。当時は進学が大変、一番人数の多い年代ですもんね、昭和22、23年。
 Y:塾なんかありませんでしたからね、全部自分でするほかなかったですから。受験の情報もあんまりなかったですし。やっぱり理系は教科的にちょっときつかったですよね。

宇都宮スカラ座

忘れられない大事件

 A:3年生の時に下宿のKさんの部屋に近くの若い男の人が入ったの覚えてます?
 Y:覚えてます、夜中に(笑)
 A:近くに職人さんか何かの男の人がいたんですよね。
 Y:そう、若い男の人がいたんですよ。ちょっとヘンな人がいて、夜中に塀を乗り越えて入って来ました。Kさんは鍵を掛けてなかったのかなあ。
 A:Kさんは1階で私の隣です。その部屋に窓から入って来たんです。

 ─侵入したわけですね。
 Y:でもKさんはすごく落ち着いてて、「玄関から出してあげた」と言うんですけどね。次の日におじさんとおばさんが言いに行ったかもしれませんね。
 A:何も危害を加えられなかったんで、警察沙汰とかまでにはなりませんでした。それから鍵は必ず掛けるようになりました。大事件で、びっくりしました。そんなことがありました。

 ─それまで部屋に鍵を掛けていなかったんですか…。
 A:部屋の廊下側には鍵がなかったですが、下宿の玄関は閉めてました。
 Y:窓から入られました。Kさんの部屋の窓の鍵が開いてましたの。
 A:結構な高さの位置にある窓だったんですけど。あの事件は忘れられません、今だったら新聞に載っちゃうかもしれません。
 Y:その男の人は、一緒に寮で暮らしている人たちが面白がって「やれ、やれ」みたいな感じで、たぶん入って来て…。「近くの家に女の子がいっぱいいるから、行ってこい」みたいな感じだったと思います。
 危害を加えるつもりがなかったので、そのままになったんだと思うんです。
 A:とにかく女の子ばっかりいる下宿だということは周り全部に知られていました。何年も何十年も続いてましたからね。それがわかって入って来て、ベルトに草履(ぞうり)か何かはさんで、Kさんの枕元に座ってたんですって。
 Kさんもびっくりして…(笑)。それから厳重に「鍵をしなさい」と言われまして。Kさんはしっかりした人だったんですけど、たまたま鍵をしてなかったんですよね。

 ─もしかしたらAさんの部屋に侵入した可能性もありますよね。
 Y:鍵が掛かってなかったら、そうですよね。
 A:それがテストの前の晩だったんですよ。私は普段あまり勉強しないんで、もう徹夜で勉強してましたけど、Kさんはいつも真面目にちゃんと勉強する人で、この時は早々と寝てたんですよね。
 だから私の部屋は鍵も掛けてましたけど、明かりがついてました。高野さんは2階だからあまり関係なかったかもしれませんが、そんなことがありましたね。

下宿の階段で話した将来のこと
 高野悦子は前の下宿だった大島宅に下宿当時の1965年7月27日(火)、家族の下宿訪問について書いている。
 今日はお父さんやお母さん、それに昌之が来る日、家族全員で夕食を共にする約束で四時半ごろから浮き浮きしながら待っていた。

 ─大場さんの下宿でも高野さんの両親が来ることはありましたか。
 A:来られました。高野さんのお父さんがベレー帽か何かかぶって外套を着て、お母さんが着物で。とても素敵なご夫婦でしたよ。弟さんを連れて来られたこともあったかもしれません。
 Y:それで、高野さんの家族はよく一緒に食事に出られたりしてました。
 A:そうなんです。高野さんのお父さんとお母さんが来てご家族で宇都宮市内で食事したというのは、ありました。
 Y:当時の普通の人はあまりしないことなんで、うらやましかったです。
 A:うらやましかったですよね。私たちの実家ではそういうのは考えられませんでした。

 ─高野さんの家族が来たことはどうやってわかったんですか。
 Y:下宿の方に入って来られました。
 A:私の部屋の前を通られるんで、外ですけどね。
 Y:もちろん母屋の方に行っておばさんにあいさつして、そしてということだと思います。
 A:高野さんが出ていくのもわかったし。もう…うれしそうでした。彼女はすごい明るい感じでしたね、声が高くて。あの時は本当にうらやましかったです(笑)
 Y:今は普通かもしれないですが、当時はそんなにはなかったです。
 A:50年前のことですもんねえ。
 Y:経済的理由というよりも、私の場合は父が仕事が中心で、家族のためにというのがなかったんですよね。

 高野悦子は2年生の1966年2月22日(火)、学校の中でピアノを弾いたことを書いている。
 音楽室にとびこむ。ソナチネ四番を夢中で弾く。

 ─高野さんについて特に印象に残っていることは何ですか。
当時の音楽室の様子 A:覚えてるのは、彼女はすごくピアノが弾けたんですよ。2年生の時だったかなあ、宇女高で音楽室の掃除の日があって掃除をしてたら、ピアノの練習ができる防音装置の付いた部屋があって、そこで彼女がピアノを弾いているところを見たんです。
 “すご~い、私も習いたかったけど習えなかった…”みたいな(笑)。昔「ダイアナ」という曲がはやったんですが、高野さんは「ダイアナ」を歌いながら弾いてました。楽譜とか見ないで“うまいなあ”って。“高野さん何でもできるんだ、すてき”って。高野さんがその防音室から出てきて、「あっ今、弾いてたの高野さん?」「そう」とかいう感じだったのを覚えてます。
 Y:宇女高生でピアノ弾ける人はそんなに珍しくはなかったけど。
 A:珍しくはなかったですけど、ただそんな所で「ダイアナ」を弾いてるんで…。私は憧れてもできなかったので。彼女がうらやましかったですね。
 Y:たしかに歌が好きでしたよね。

 「ダイアナ」はカナダのシンガーソングライター、ポール・アンカ(1941-)が作詞作曲し1957年に発表したヒット曲。日本では山下敬二郎(1939-2011)が1958年に日本語カヴァーを出している。
 音楽室とそれに隣接する練習室は北校舎3階西にあった。

 3年生の1966年11月6日(日)、進学をめざす大学の学部進学で迷いがあると残している。
 確かに歴史を大学で勉強しても、就職には不便だ。教師ぐらいしかそれを生かせる職場はない。

 ─Yさんが印象に残っていることは何ですか。
大場宅下宿前の記念撮影 Y:下宿の階段で、みんなで将来のことを話した時があるんです。高野さんは日本の歴史がもう大好きで、私も歴史は好きで興味があったんですけど、大学に行って何するという話になった時に、私は「日本史をやって史学科を出ても、将来は学校の先生になるくらいしかないよね。私は学校の先生になるのは嫌だから、職業を考えると日本史の方には進まない」って言ったんです。
 高野さんは意見が違って、「その通りだけど、やっぱり日本史が興味あるから勉強したい」「自分も学校の先生はあまり好きじゃないけど、雑誌社とかジャーナリストとか、非常に道は難しいかもしれないけれども、そういうのになれれば…」という話をしていたのをすごく覚えてます。みんなその時に「自分はどうのこうの」って言ったと思います。
 A:忘れちゃった(笑)
 Y:下宿の階段で話したのはくだらないことも多くて、真剣な話とかしたことあんまりないんですが(笑)、あの時に高野さんがそんな話をしたことだけはすごく強烈に覚えてます。

 ─高野さんについて当時思ったことがありますか。
 A:八重歯があって茶目っ気な笑顔、セミロングのおかっぱで小柄でした。とにかく明るくてかわいらしくて気持ちがやさしかった方でしたけど、意外と繊細な感じがしたの。
 Y:ものすごく純粋だったですよね。
 A:やさしくて本当に純粋な感じでいい人だったです。でもその純粋なところがあったから、彼女が亡くなったのを聞いた時に“何か挫折したのかなあ”って思ったんです。
 ちょっと弱いと言ったら変ですけど“もろいところがあったのかなあ”って。あまりにも純粋でいろいろ考えて突き詰めて考える人だったんですよね、きっと。
 Y:その純粋さというのはすごく伝わってきましたよね。
 A:ですよね。何事も本当にまっすぐ一生懸命やる方だったんですよ。
 Y:彼女は受験生だったんだけど本をたくさん読んでましたよね。勉強のためにというより、「ゆうべ、本を読んじゃって勉強できなかったんだ」という話をしてました。
 A:そう、本をすごく読んでるのは聞いたことがあります。それで2年生のクラスで何かやろうという時はすごく一生懸命でしたよね。〝トップ〟にはならないんだけど…。
 Y:「こうした方がいいんじゃない」「ああした方がいいんじゃない」という…。
 A:自分の意見をどんどん出して、自分で動いた人ですね。一生懸命やってた人ですね。

 ─活動的だったようですね。
生徒会応援演説 Y:ただ日記にも書いてるので思うんですが、彼女は“自分の思っていることが相手に伝わらない”というのがありました。“自分の思っていることを相手が理解してくれない”というジレンマがあった気がします。
 言葉でというのがあまり得意じゃなかった気がするんです。たとえばクラスのホームルームとかの時に高野さんは結構活発で「こういう風にした方がいいんじゃないですか」と手を挙げて話をしてるんですが、クラスのみんなに理解してもらえないことがあった気がします。

 ─高野さんは1年生の時に生徒会の応援演説をしました。
 Y:応援演説をしてました、覚えてます。その時もあんまり思いを伝えられなかったというのはあった思うんです。彼女は“もっとこういうことを伝えたいんだ”という思いはいっぱいあるけれど、言葉を上手には伝えられてなかったんではないかと。彼女がそれを悩んでいたというのは端々から感じられました。

宇都宮以外から来て

 ─みなさん当然栃木県の言葉で話されるんですが、栃木県の中でも宇都宮以外の地域から来たから宇都宮ではしゃべりずらいということはありませんでしたか。
 Y:高野さんは全然なまってませんでした。
 A:私たちの方がよっぽどなまってました(笑)。高野さんは〝田舎〟の子というイメージじゃなかったですね、本当に都会の子のようなイメージでした。
 Y:当時の宇女高の学区制で、宇都宮市内からは一つの中学校から30人、40人とか来るわけです。
 A:付属中学校出身の人なんかすごくお友達がたくさんいましたね。
 Y:私たちからすると疎外感を覚えたんですけれど、高野さんはそういう宇都宮の人の所にスッと入って行ってるんですよね。
 A:そうですよね。地元・宇都宮の人はもう中学校時代から一緒の人たちがバァーって入るんですよね、付属中学校からなんかまとまっていて、友達がいっぱいいるわけです。でも私たちはいなかったんですよ。
 Y:学区外は一つの中学校から1人、2人ぐらいずつしか来てませんでしたので。

 ─そうなんですね。
 A:だから宇都宮以外の〝田舎〟から出てきた私たちは最初はなじむのに大変でしたね、〝都会〟というか宇都宮で中学校3年間一緒だった人たちはもうグループがあって、いつも楽しそうに「今度はどこ行く?」とかなんて話してたりしていて。
 Y:「学校の帰りにどこかに寄って食べていこう」みたいな話をしてるんですよね(笑)
 A:そう。最初はうらやましかったです。

 「付属中学校」は栃木県宇都宮市松原一丁目にある国立中学校、宇都宮大学教育学部附属中学校のことである。

校舎玄関
 ─AさんもYさんも高野さんと同じく学区外から宇女高に入学されたので中学校時代は優秀だったと思うんですが。
 Y:当時、宇都宮以外の地域から宇女高に来ていた私たち、中学校時代は学力も上だということで〝優等生のリーダー〟にされてしまうんですよね。
 A:本当は違うのにね。
 Y:だから中学校時代は自分を隠して“自分はそうじゃないのに”ってね。高野さんも自分の本性を隠して頑張ったようなこと書いてありましたけど、みんな私たち中学校時代はそうなんですよ。それで宇女高に行って〝その他大勢〟になったわけですよ。それが楽しくて、〝その他大勢〟で頑張らなくて済むというんで、ホッとしたことを覚えてます。
 A:中学までは目立っちゃってて。
 Y:もう何だか…、それこそ勉強もそうだし運動も生徒会もそうだし、全部させられるわけです。“自分はそうじゃないのに”と思いながらも、頑張ってね、みんなやって来たんですよね。
 A:そうね、しんどかったわね。
 Y:〝その他大勢〟になってホッとしましたの。

 ─高野さんも西那須野中学校では生徒会や文集とか全部でした。すごい背負わなきゃいけなかったんですか。
 A:ありましたね、みんなそうなんですよ。期待されて出さされちゃうんですよ。
 Y:宇都宮以外の地域から来た人はみんなそうやって宇女高に入って来てました。“優等生でいなくちゃいけない”みたいなの。
 A:“頑張んなくちゃ”みたいなの、ハハハ(笑)
 Y:中学校に入って最初のテストが出来ちゃったんですね(笑)。そうしたらもう何でもこう、あれされて…。それがよく理解できなくて、わがまま通そうとしたら、夏休み始まる前に担任の先生から「これからみんなのリーダーになっていかなくちゃダメなのに、そんな自覚でどうする!」ってすごく怒られたんです。
 その時「はっ」とびっくりして、それからもう自分を隠して優等生をさせられる。人前で話すのあまり得意じゃなかったのに「弁論大会に出なさい」とか言われて。

 ─高野さんは中学3年生の時に「幹部訓練」に参加したんですが、Yさんもありましたか。
 Y:そうです。
 A:ハハハ(笑)、そうなの?
 Y:やりました、ハハハ(笑)
 A:私は中学校時代そういうのはありませんでした。卓球部で3年間卓球をやったし、Yさんよりは無理はしなかったかもしれません。

西那須野町立西那須野中学校

 ─高野さんは中学校で「女子で2番の成績だった」と元同級生の方々は話してましたが、AさんもYさんも中学校時代は女子で1番とか2番ですか。
 A:女子じゃなくて全体で。1番と2番を行ったり来たりしていました。
 Y:全体でです。私は宇女高に2人して来ましたんで、もう一人女子がいましたんで。

 ─どうして宇女高に入学しようと考えたんですか。
 Y:まあーだって、憧れですもんね。
 A:ハハハ(笑)
 Y:入れるもんなら、みんな入りたいと思ってるわけですよね。

 ─それで宇女高に来て〝その他大勢〟になったということですね。
 A:そういう人ばっかりの集まりでしたから(笑)
 Y:宇女高に来たら、まゆみさんのような元気な人がリーダーになってくれますから。すごい楽でした。
 A:ホッとしましたよね、そういう方がいてくれて。

幹部訓練
宇女高元生徒会長・まゆみさん「尾瀬キャンプとカッコの思い出」

楽しかった高校時代

 ─本当に真面目な高校生活だったんですね。
 A:宇女高生って勉強一筋って思われてたんですけど、そうでもなかったですよ結構。みんな教科書を立てて漫画の本を読んでたりして、ハハハ(笑)。やらなかった?
 Y:私はやらなかったです。
 A:私たちのクラスはやってましたよ。面白くない授業だと、教科書を立てて漫画を読んでました。
 Y:本を読んでた人はいましたね。「内職」とか言って(笑)。3年生になると文系・理系って分けてて、私がいたのは理系のクラスだったんですね。でも理系だけでは1クラスできないんで、本当は理系じゃないけど、たとえばお茶の水女子大とかをめざす人は理系のクラスに入れられてた人もいたんです。
 そうすると受験に関係ない科目もあるわけで、教科書を立てて違う勉強をしてても、先生がある程度見て見ぬふりというのはありました。
 A:3年生の時は漫画読んでなかったけど、1年生の時なんかみんなやってました。それから休み時間に「早弁」したりしてる人もいたし。遠くから来る人はもう2時間目あたりで食べちゃって、お昼はまた買って食べてました(笑)

─高校ではよくあることですね。
宇女高90周年記念大運動会で仮装する高野悦子 A:面白かったのは、英語の先生を締め出しちゃいました。
 Y:締め出しました、やりました。
 A:やりましたよね、ハハハ(笑)。笑っちゃうんですあれ、教室の鍵を外から閉めたのよね。
 Y:教室の前と後ろで、前は内側から、後ろは外側からの鍵だったんです。それでどっちも鍵を閉めちゃったんですよ。冷静に考えれば、後ろは外側から鍵を開ければ入れるのに、先生が気が付かないでしばらくかかって…。
 A:先生が行ったり来たりして(笑)。あれ忘れられません、色白の先生がすごく怒っちゃいました。
 Y:真っ赤な顔をして。
 A:2年生の時ですよね。
 Y:私たち一緒だったんだから、そうですよね。
 A:高野さんも一緒でしたよ。クラスにIさんという元気のいい人がいて、その人が中心になって、英語のF先生って成り立ての若い先生を締め出そうということになって。F先生が「入れない」って。いくら鍵かけてても入れたのに。
 Y:それで教室の下の方が曇りガラスだったんですよね。先生がやってることがわかってたんですけど、みんな知らん顔してて(笑)。先生が「あーッ」てやってても…。たぶん単に若くて面白いから、からかってて。
 A:成り立ての先生で純粋というか、そういう感じの先生で世間を知らないみたいな(笑)。だからもう、からかっていたずらをやりました。
 Y:やりましたね。最後には気が付いて外から鍵を開けて入って来たんですけど。
 A:〝首謀者〟のIさんって今どうしてるかなあ。でも、それでまとまっちゃうんですからね。面白かったですね、あのクラス全体がね、「やろう!」みたいな、フフフ(笑)
 Y:まあ受験勉強は大変でしたけど、高校時代は楽しかったですよ。
 A:楽しかったですね。
 Y:今思うと…その当時はいろいろ悩んだのかもしれないですけど。覚えてませんから(笑)
 A:あのころグループサウンズにすごい憧れちゃって。勉強しないで、ブラザース・フォアとかカーペンターズといった音楽をいつもラジオで聞いてました。モンキーズはにぎやかだったんですけど、静かないい曲もあったんですよね。

 いずれもアメリカで、厳密にはブラザース・フォアはフォークソング、カーペンターズはポップス、ザ・モンキーズはアイドルグループになる。

 ─あまり男子高校生とか関心は行かずに…。
 Y:私たち全然接点がないですもんね。
 A:私の中学校から宇高に行った人が前後にもいないし、本当に接点がありませんでしたね。
 Y:本当に接点がなかったんですよね。実家から通ってる時もバスで来て、歩いて学校に行って、そのままバスで帰ってですし。下宿したら周りだけしか歩いてないんだから、接点ないんですよ。
 A:私あれなの…、大場さんの下宿から学校まで行くところに家があって、そこの人が宇高に行ってました。げたを履いてたから宇高ですよね。学生服で詰襟でした。私が歩いていくと自転車で出てきて、毎朝のように同じ時間に行くと自転車で来たんですよね。

 ─それって〝いい感じ〟じゃないですか。
 A:エヘッ(笑)。恥ずかしい…。もう毎朝のように行き会ってましたの。1年生のころだったのかなあ?あの人どうしてるんだろう。宇高の人はそれだけですね。でもお付き合いも何もしないですよ、「おはようございます」ぐらい言ったかもしれませんけど。
 それだけが印象に残ってますね、あいさつだけで終わりましたね、フフフ(笑)。懐かしいですね。

 「宇高」(うたか)は栃木県立宇都宮高等学校の略称。栃木県で最古の高等学校であり、男子校で県内ナンバーワンの進学校である。「宇高」の男子と「宇女」(宇都宮女子高校)の女子が交際すると、地元では〝お似合い〟と位置づけて見られる傾向にある。

驚いた訃報

 ─高野さんが亡くなったことは、いつ知りましたか。
 A:卒業して何年か経ってから下宿のおばさんの所にお邪魔したら、「高野さんが自殺したんだよ」って初めて聞きました。亡くなってから1年くらい経ってからでしょうか。「えっ」てびっくりしたんです。「あの人が」って驚いたのは覚えています。下宿のおばさんといろいろ思い出話をしました。
 だけど高野さんはすごい純粋なところがあったから、彼女が何か挫折したのかなあって思ったんですよ。すごいショックでした、私もまだ若かったですし。
 『二十歳の原点』も買って読みました。黒い表紙にカーネーションのような花のイラストが入ってました。
 Y:私は父が高野さんのご実家の知り合いでしたんで、1969年の夏休みに帰って来てすぐ父に聞いたんです。「えっ」て思いましたものね。その年の初盆の時に父に連れられて西那須野の高野さんの実家にお線香を上げに行きました。
 高野さんのお父さんお母さん、それにお姉さんのヒロ子さんもいらっしゃって。「びっくりしました」という話をして、父と一緒にお線香を上げさせていただいて、ちょっとお話ししました。
 『二十歳の原点』は高野さんのお父さんの三郎さんから送っていただきました。お手紙と一緒に実家の方に届いてました。

大場宅下宿跡 ─大場さんの下宿跡もかなり変わりました。
 A:下宿の跡に当時の建物はなくて立て替えられて…面影が全然ないですね。お庭も春先になると黄色いスイセンの花がすごい咲き乱れてたんですが…。
 Y:あの塀だけがそのままです。大谷石の塀が周りにあって。
 A:宇女高にも久しぶりに行ったら講堂とか新しくなってて、何ですかねえ。50年も前ですからね。残ってるのは本当に校舎ぐらいですよね。当時はピンクっぽい色だったんですけど…。
 Y:あの校舎は私たちの在校中に新しくなったんでしたよね。

 下宿跡には現在も大場さん家族の住宅があるが、当時の事情を知る関係者は全て亡くなっている。
高野悦子の実家
 ※注は本ホームページの文責で付した。

 高校時代の下宿仲間にたどりつけたうえに、「あの頃のことを話すのは久しぶり」というお二人に当時の下宿や宇都宮女子高校での生活のありのままを率直に明らかにしていただいた。それは〝団塊の世代〟女子が過ごした青春そのものであり、高野悦子の人間形成を知る大きな参考になるものだった。お二人の聡明さと真摯さに宇女高卒業生の魅力を感じた。

 インタビューは2016年3月28日に行った。

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