12月31日(土)から滞在し、『第17回NHK紅白歌合戦』(NHKテレビ)(午後9時5分~午後11時45分)を見て、新年を迎えた。
18歳の誕生日である1月2日(月)は、『二十歳の原点序章』に記述がない。
☞1967年12月31日「去年の今頃は、塩原の憩の家でやっぱりこれを見ていたのか」「十八歳の誕生日にも、ただ入試合格のみを願っていた」
☞憩の家
1967年1月14日は、日曜日でなく土曜日である。
宇都宮:晴・最低-5.0℃最高8.6℃。
日本史を過去に向って勉強している。教科書・参考書の分量でいうと、明治維新から現代までで全体の5分の2弱にあたる。
『人物往来歴史読本1967年2月号』(人物往来社、1967年)の特集は「立体構成─坂本竜馬」。
☞1966年11月23日「「歴史読本」をかってき」
1967年1月19日は、金曜日でなく木曜日である。
宇都宮:晴・最低-6.7℃最高12.8℃。午後になって西から北にかけての風が強かった。
立命館大学文学部の入試(2月19日)を、ちょうど1か月後に控えての記述である。
2月15日(水)の宇都宮:晴・最低-7.9℃最高5.4℃。夕方から雲が減った。
宇都宮:曇・最低2.8℃最高11.1℃。
願書を国学院大学(現・国学院大学渋谷キャンパス)窓口に直接出したのは、2月18日(土)が国学院大学文学部の出願受付最終日だったためである。
大学・学部・学科 | 配点 | 合格ライン(75%) | ボーダー(50%) |
立命館大学文学部史学科 | 国100社100外100 | ※61.7 | ※55.0 |
立教大学文学部史学科 | 国100社100外150 | 65.0 | 58.3 |
国学院大学文学部史学科 | 国100社100外100 | 55.0 | 50.0 |
明治大学文学部史学地理学科 | 国100社100外100 | 56.7 | 53.3 |
立命館大学と立教大学が〝本命〟受験先であり、明治大学が第2志望、国学院大学は第3志望である。
10:00-10:15 | 10:15-11:35 | 13:00-14:20 | 14:50-16:10 |
説明・問題配布 | 選択科目(日本史) | 英語 |
国語 |
受験場である857教室は58年館の5階にあった。1958年完成の58年館は教室と学部事務室などになっていて、一体となる55年館とともに法政大学を代表する校舎の一つだった。
58年館と55年館は2014年3月からの建て替え工事に伴って解体され、跡地には2019年3月に大内山校舎が完成した。
09:30-10:30 | 11:00-12:30 | 14:00-15:00 |
社会(日本史) | 英語 |
国語 |
2月25日(土)、国学院大学史学科日本史専攻を東京・渋谷区神宮前の国学院高等学校で受験した。
試験時間は国語60分、社会60分、外国語60分。
2月27日(月)、明治大学文学部史学地理学科日本史専攻を東京・杉並区和泉町(現・永福一丁目)の明治大学和泉校舎で受験した。
試験時間は国語60分、社会60分、外国語90分。
大学・学部・学科 | 募集人員 | 志願者数 | 受験者数 | 合格者数 | 競争率 | 合否 |
立命館大学文学部史学科 | 80 | 3,269 | 3,191 | 409 | 7.8 | 合格 |
立教大学文学部二類 | 285 | 2,957 | 2,900 | 386 | 7.5 | 合格 |
国学院大学文学部史学科 | 100 | 1,699 | 1,652 | 231 | 7.2 | 合格 |
明治大学文学部史学地理学科 | 120 | 2,922 | 2,828 | 382 | 7.4 | 合格 |
上京したのは、立命館大学の合格発表を前に立教大学文学部の入学手続に必要なものを念のため姉、ヒロ子に渡しておくためである。
なお受験した4大学で国学院大学だけは合格発表当日に見に行けた。
渋谷パンテオンは、東京・渋谷区渋谷二丁目の東急文化会館1階にあった映画館である。
定員が1,000人を超える超大型の映画館で、数々の洋画の大型話題作を上映した。建物は現存せず、渋谷ヒカリエになっている。
立命館大学の合格発表は学部掲示板で行われた。高野悦子は〝本命〟の立命館大学と立教大学の両方に合格したため、どちらに行くか判断が迫られた。
父・高野三郎は「立教大学に入るよう再三再四にわたって説得したのですが、ガンとして「反骨精神、奈良本教授の立命館史学、歴史のみやこ京都、の条件により立命館大学史学科を志望……(六六・九・一六)」の主張を曲げず、とうとう親が折れてしまいました。思えばこれが誤りの第一歩だったのでしょう」(高野三郎「失格者の弁」『二十歳の原点』(新潮社、1971年))と述懐している。ただし立教大学文学部でも1969年に大学紛争が起きている(松浦高嶺・速水敏彦・高橋秀『学生反乱-1969-立教大学文学部』(刀水書房、2005年)参考)。
松原先生は、高野悦子がいた高校3年7組の担任教諭、松原亨である。担当教科は数学。後に宇都宮女子高校の校長も務めた(写真右は1966年ごろ撮影)。生徒からの愛称は「トオルちゃん」。
松原亨は前年度、高野悦子がいた2年5組の担任教諭をしており、2年連続ということになる。
松原亨は高野悦子の日記について「もともと才智と繊細な感覚をもっていましたが、これ程までに、現実と厳しく闘うとは、想像だにできませんでした。私なりに何か、少しでも力になれなかったものかと後悔もしますし、反省もしています。
ただ表面的に明るく快活な人間ほど、内面的には孤独で寂しさを持っているものであることは言いうるような気がいたします。お嬢さんは、暖かく親の加護の中から急に、遠く遊学した事によって、より以上何かに夢中にすがりたかった情熱をどうしようもなく一人で解決したと思われます。
更に、お嬢さんは、余りにも純粋で、余りにも孝行で、余りにも学童的だったと思います。
常に、自己の立場を正当化しようと論理化しようとして学べば学ぶ程、現実とかけ離れて行く姿は、わかるような気がします。
然し、日記のような生活は、一面、私の若い時代と比較して、素晴らしく自由で、思うがままの行動力を知らしてくれます。しかも、その中に、自立と自律がたえず交錯して、インテリとしての心の動きがともなっています。
結果として、弱いという人がいるかも知れませんが、一面、強すぎる生き方だと考えることも出来ましょう(といっても否定せざるを得ないが)。
美しい詩と広い読書影響による文章からくる人生のもだえは、私の心に永久に残るものと思います。
余りにも強烈で(担任だから)読後感もまとまりません。
いまは、ただただお嬢さんの冥福を心から祈るとともに、若者をみたす真の平和が訪れることを念じたい」
「愚作(恥をしのんで) 立命の 嵐に散りし 教え子の 細きうなじに 歴史流れる」(「手紙(高野家宛)─高野悦子さんを囲んで」『那須文学第10号』(那須文学社、1971年))と感想を寄せている。
☞栃木県立宇都宮女子高等学校
先生と相談し直ちに電話で知らせたのは、3月4日(土)が立教大学文学部の入学手続の締切日にあたるためである。
立教大学入学手続の用意をして連絡を待っていた東京の姉・ヒロ子ちゃんに至急知らせる必要があった。
立命館大学(一部)1967年入試の出身校別合格者数は、紫野(京都)98、膳所(滋賀)93、高松(香川)84、桂(京都)75、彦根東(滋賀)71、丸亀(香川)67、堀川(京都)60、日吉ヶ丘(京都)54、四条畷(大阪)53、寝屋川(大阪)48、朱雀(京都)48、津(三重)48などとなっている(いずれも公立高校、丸かっこ内は府県)(「42年度大学合格者出身校別一覧②」『螢雪時代1967年6月号』(旺文社、1967年)参考)。
合格者全員に大学から通知が行われた。
入学手続書類等は宣誓書及び保証書、学籍カードその他、卒業証明書、戸籍抄本、学費である。
当時の京都市内で学生の下宿は、家賃の相場が一畳1,000円だった。4,500円は四畳半である。
ただし畳は地域によって規格が違うため、京間の四畳半だと江戸間に換算すると約5.3畳の広さに相当する。
☞青雲寮
高野悦子『二十歳の原点』(新潮社、1971年)(単行本)に掲載されている有名なギターの写真については、撮影時期が記されていないが、1967年3月に栃木県西那須野町(現・那須塩原市)の自宅で写されたものである。大学入学直前である。
☞高野悦子の実家