これはグループデートだった。
☞大学1年で一緒・長沼さん「日記に命を懸けてたエッチャン」
大徳寺は、京都市北区紫野大徳寺町にある禅宗の寺で、臨済宗大徳寺派大本山である。敷地内には多くの寺院が立ち並んでいる。京阪・三条駅からだと京都市電5号系統で乗り換えなしのルートで、河原町三条停留場-(京都市電河原町線)-(京都市電北大路線)-大徳寺前停留場になる。
大徳寺は「夢窓と並んで禅林の双璧とされた大燈国師により創立され天下無双の禅苑といわれた」
「京都において臨済禅が圧倒的であったという理由は、曹洞禅の方が祈禱などを伴って宗教性がつよかったのに比して、臨済禅には教養的な文化性がつよく、そのことが京都にうけいれられたからであろう」「禅寺はそれほど親しみぶかいものではない。しかしそのなかにながれる文化性は、こんにちでも一つの魅力になっているようだ。その文化性の一つの現われが茶であった」(林屋辰三郎「浄土と禅」『京都』岩波新書(岩波書店、1962年))。
黄梅院は、大徳寺の敷地内にある寺院である。禅宗の僧、弘忍のゆかりの地である中国・黄梅県破頭山東禅寺に由来して名付けられた。
当時は大徳寺で拝観できる寺院の一つだったが、現在は通常、一般公開されていない。
1562年に織田信長が父信秀の追善に建立した黄梅庵に始まり、1586年に豊臣秀吉が本堂を改修した。本堂前庭の破頭庭(はとうてい)は天正年間の作と伝えられている。
庭石のある直中庭(じきちゅうてい)は千利休66歳の時に作られた枯山水庭園である。当時は書院庭園と呼んでいた。豊臣秀吉の軍旗ひょうたんをかたどった池を手前にし、不動三尊石を正面に、加藤清正伝承の朝鮮灯籠を左に配置している。
日本最古の茶室である昨夢軒は、千利休の茶道の師である武野紹鷗作である。2011年に修理が施された。
大仙院は、大徳寺の敷地内にある寺院で、大徳寺内の寺院では最も有名である。当時の拝観料は70円。
国宝に指定されている本堂は創建当時(1513年)の建物で、内部の玄関と床の間は日本最古とされている。1960年ごろに銅板ぶきになった屋根は、2008年に修復され、創建当時の姿である檜皮(ひかわ)ぶきになっている。
また国の特別名勝に指定されている庭園は枯山水の代表的な庭園の一つで、峡谷を発した水が、大河となって流れていく全景を象徴的に示したものといわれ、室町時代・東山文化を代表する名園として高校日本史の教科書にも登場する。
高野悦子が会った大仙院の住職は、尾関宗園である。
尾関宗園(1932-)は1965年から大仙院の住職となった。後に讀賣テレビ放送(日本テレビ系列)のワイドショー「2時のワイドショー」の人生相談に出演していたことで有名。「今ここで頑張らずにいつ頑張る」の言葉でも知られる。
2007年に住職を退いたが、今も寺院内に姿を現わして、記念品へのサイン入れを行ったりしている。写真撮影をすると「坊主がポーズ、マヨネーズ」などと口ずさんだりする。
現在の住職の大和良章に、『二十歳の原点序章』の記述についてうかがったところ、「ここに登場する住職は尾関宗園に間違いない。それにしても抹茶代が50円というのは古いなあ」と言う。
山川さんは坊主頭だったために尾関宗園に気に入られた。
地域は、西大路三条の隣保館での活動である。
☞京都市立壬生隣保館
☞年上の大学同級生男性「学友の死に寄せて」
京都:晴・最低13.9℃最高31.1℃。日中は雲が多かった。
☞二十歳の原点1969年5月5日「雲が風に流れる」
ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)は、ドイツの作家・詩人である。代表作は小説「車輪の下」、「デミアン」で、1946年ノーベル文学賞受賞。ここでの詩は以下の「白い雲」である(高橋健二訳『ヘッセ詩集』新潮文庫(新潮社、1950年)ほか)。
白い雲
おお見よ、白い雲はまた
忘れられた美しい歌の
かすかなメロディーのように
青い空をかなたへ漂って行く!
長い旅路にあって
さすらいの悲しみと喜びを
味わいつくしたものでなければ
あの雲の心はわからない。
私は、太陽や海や風のように
白いもの、定めのないものが好きだ。
それは、ふるさとを離れたさすらい人の
姉妹であり天使であるのだから。
☞1968年9月15日「長い旅路にあって」
☞二十歳の原点1969年3月29日「ヘッセときいて「雲」を思いうかべ」
京都:曇・最低18.3℃最高30.7℃。午前4時ごろにごく弱い雨が降っている。
☞二十歳の原点ノート1966年9月16日「このところ二十、二十一、二十二日の体育大会のソフトの練習で」
マスプロ教育については様々な定義があるが、大学の場合、講堂や大教室での講義中心のカリキュラムを意味する。マスプロはマスプロダクション=大量生産の略である。聴講者(または登録者)が500人を超えるなど教員と学生との間に距離感があることから、講義内容の質が伴わないと、学生の学問的関心を失うきっかけになりやすいとされる。
1960年代末からの大学の大衆化の流れの中で、とくに私立大学が大量の学生の受け皿になり、効率化を進めるうえで生じたマスプロ教育の問題点が指摘されるようになった。
立命館大学文学部をみると、専任教員一人当たり学生数は68人(1967年度)で、明治大学の70人よりは少ないものの、早稲田大学の37人や同志社大学の40人などに比べると多かった。
「大学には〝五月危機〟という言葉がある。これは本学に限らず全国の大学にある言葉である(特に私立大学)。この言葉は様々な期待と意気を持って入学した新入生が5月ごろになると〝大学〟というものをある程度知り、マスプロ講義などにもふれ、それらに失望して〝大学〟から遠ざかる傾向を言い表したものである」(「本学の教学を探る」『立命館学園新聞昭和42年5月11日』(立命館大学新聞社、1967年))。
☞1967年8月20日「『大学でいかに学ぶか』第一章を読んで」
☞部落研
手前の山の岩は、京都市東山区山科上野池ノ下(現・山科区御陵安祥寺町)の岩である。
山道の入り口は安祥寺境内の本堂(観音堂)左手にある。この山道を進み、青龍社と呼ばれる社を左に見ながら進む。青龍社には古くは蟠竜石柱が本尊として祭られていた。蟠竜石柱は現在、京都国立博物館に展示されている。
山道は沢沿いに進んでいき、最初はなだらかだが、途中から傾斜がきつくなってくる。この山道は現在、手入れがされていないので、倒木や枯れ葉などで相当荒れている。
☞登った山(山科)
☞安祥寺
上り道をしばらく進んだ左手の木々の間の上の方に岩が見える。
かなり上の方なので、意識せずに目の前だけ見て歩いていると気が付かない。ただ、この山道の青龍社より先でランドマーク的なものは、この岩だけである。
近づくと、全体は岩と言うより〝岩壁〟と言えるくらいの大きさがあることがわかる。
岩の上まで実際に行ってみた。その先端に立つと住宅地まで眺めがよく、緊張して足元がビクつく。
もっとも岩の直下に高い樹木がうっそうと茂る現在においては絶壁の上にいるという感じはそれほどしない。当時は別の見え方だったのかもしれない。
現在、奥にある山の頂上付近は林になっているため、景色はほとんど見えないし、手前の山の岩も確認できない。