京都:晴・最低12.0℃最高27.3℃。午前中は雲が少なく晴れたが、午後11時ごろから小雨になった。
NHK-FM5月5日午後0時15分~:ジャズ
高野悦子のために父・高野三郎が前年に買ったものである。
☞二十歳の原点序章1968年2月21日「おとうさんが、かっこにはWebsterの辞書と英語の地図をかってくれ」
『資料戦後学生運動』が第1巻が3,000円のため、このような記述になる。
京極通りは、休日の観光客でにぎわっていた新京極通と解される。実際に自転車で本を売りに行ったのは、一本西側を通る寺町通である。
「そのむかしの四条河原のにぎわいは、屏風画にとどめるくらいで、明治以降は新京極に移った。東京極が寺町となり、その寺町の東にそってつくられた新京極は、もとは三条よりの誓願寺前に立並んだ縁日にはじまったものらしい」「新京極が京都の大衆たちの娯楽センターとなったのも、当然であろう」(林屋辰三郎「河原の生活」『京都』岩波新書(岩波書店、1962年))。
☞二十歳の原点序章1968年4月17日「立命から四条まで寺町通りを下って古本屋あさりをした」
京都御苑は、京都市上京区丸太町通烏丸東入ルにある、当時は厚生省(現・厚生労働省)が管理していた公園である。
現在は環境省が管理している。
午前中は青空だったが、午後3時ごろは雲が広がり、南西の風6.2m。
京都:晴・最低5.8℃最高26.2℃。午前中は雲が多い時間帯があったが、午後は快晴になった。
☞1969年5月8日「どこかにsomeoneがいつでもいるってね」
買ったのは、石原吉郎『石原吉郎詩集』(思潮社、1967年)。当時1,000円。「サンチョ・パンサの帰郷」、「いちまいの上衣のうた」、「棒をのんだ話」を所収。「シベリヤの強制収容所体験をもちつづけ、孤独な心で不可思議な魅力あふれるうたを織りなす詩人の全詩集を収めた」と紹介された。
「私の意識に常にあったものは、詩における「うた」の復権ということであった」(石原吉郎「あとがき」『石原吉郎詩集』(思潮社、1967年))。
☞1969年3月15日「石原吉郎の詩集を早く手にとりたい」
アルバイトの給料は前日の5月6日(火)に受け取っている。
☞1969年4月24日「あと五〇〇円余円で十日間を暮さねばならぬ」
マルクス著『賃金、価格、利潤』(文庫版)。
京都国際ホテルは客室700人収容だったので、京都の春の観光シーズン中にしては、7日(水)は3連休(5月3日(土)・4日(日)・5日(祝))が終ったあとの平日で、500人だと混んではいなかったという認識になる。
NHK-FM5月8日午前9時00分~:家庭音楽鑑賞「モーツァルト『田園舞曲集』」。
京都:晴・最低12.1℃最高29.1℃。終日、快晴だった。
文学部掲示板は、清心館1階に、生協の食堂は地階にあった。文学部(一部)は5月6日(火)から新年度を開講していた。
☞清心館
恒心館のバリケードは続いている。
☞恒心館
☞1969年5月7日「スキー道具一式を売って「資本論」を買うか」
京都国際ホテルの屋上である。5月8日は夜遅くも晴れていた。
☞京都国際ホテル
☞1969年5月7日「この広い宇宙のどこかに私をみつめているsomeoneがいるにちがいない」
立命館大学全共闘の各学部の闘争委は、恒心館にあった。
決意したものの、高野悦子は結局、スキー道具一式を売却しなかった。
スキー道具は下宿の部屋に残っていた。関係者が保管していた。貴重な遺品であり、謹んで紹介する。
スキー板は小賀坂スキー製作所(本社・長野市)の当時主力商品だった「OHP・オガサカニューライン」である。
小賀坂スキー製作所は国内初のスキーメーカーとして創業し、戦前に宮内庁へスキーを献上。1958年に株式会社となり、スキー選手だった小賀坂広治が初代社長になった。
元々競技用スキーを手掛けていた同社は、“技術屋”出身である小賀坂広治の経営方針の下、1960年代には主に一般向けスキーを生産。その製品はインストラクターや上級者向けとして位置付けられていた。
「HICKORY OHP」の表示は両面ヒッコリーの合板を意味する。ヒッコリーは弾力性があるためスキー板の材質として優れていた。国産の手作りで表面はプラスチックの青色、滑走面はポリエチレンでインターロックエッジになっている。
1968-69年シーズンにおける参考小売価格は10,800円。小賀坂のウッドスキーのラインナップでは最高級に位置し、国産のウッドスキー全体の中でみても最上位の一つだった。ただこのころには比較的高価なメタルスキーやグラスファイバースキーがすでに存在し、輸入スキーはもっと高額だった。
形は先端が鋭角で幅が狭いいわゆるノーマルスキーで、全長は180センチある。当時のスキー板の長さの基準は身長プラス30センチを標準的な目安としており、180センチは成人女子用では短い。
スキー板は日本では1990年代末になって現在のカービングスキーが主流に取って代わり、長さの基準も身長マイナス10センチ程度に変わっている。
スキー板にブーツを着脱する金具であるビンディングは、日本のホープ社が輸入元で西ドイツ(現・ドイツ)・マーカー社製の「ホープマーカーLDRスーパー」が装着されている。1968-69年シーズンの参考小売価格は3,500円。
ホープマーカーはかかと側でワンタッチで着脱できるしくみで、当時最もポピュラーなビンディングだった。一定の力がかかると靴からスキー板が外れるセーフティ・ビンディングのため、スキー板が流れていかないように赤色の革のリーシュコード(流れ止め)がセットになっている(「'69新製品と主力製品・誌上展示会」『スキーフレンド9号』(大河出版、1968年)参考)。
スキー板は朱と緑のツートンカラーのケースに入れて保管していた。
☞1969年1月2日「家族五人で正月を温泉とスキーで過そうという訳である」
☞高野悦子の通学定期券(遺品)
☞1969年5月7日「定価一〇〇〇円也の彼の詩集を」「賃金、価格、利潤」
那須文学社版の記述。昼すぎである。以下、「九日、中村氏は仕事の始まる前パントリーにいた」に続く。
メイン・ダイニングのウエイトレスは、地下1階から従業員階段・従業員エレベーターで2階に上がって、厨房とパントリー(厨房の一部)の間を通って、ウエイトレス控え場所付近に向かう動線になっていた。
女の子は京都国際ホテル1階グリル入り口北側の売店で勤務していた女性とされる。当時のホテル関係者も、二人連れの様子を何回か見かけたことがあるという。
文学部闘争委員会のあった恒心館での出来事である。当時バリケードにいた学生も恒心館にネコがいたと話している。
☞1969年4月29日「文闘委の部屋のペットちゃんのニャロメ(猫)」