全共闘準備会の動きに対して、大学側と一部学友会・二部学友会(民青系)は各クラスのクラス討議を進めた。
大学側は1月「16日、今年に入ってから積極的に押し進めている「クラス討議」の中で、「総長選挙規程改正案討議資料」などのパンフを各クラスに配布した。
このパンフは、1、大学自治について 2、総長選挙規程改正案要綱の提起にあたって 3、総長選挙規程改正案要綱の3章からなっており、本学の「大学自治」の基本的な把握、総長選挙の歴史的な総括と今回の改正の基本的な視点などが述べられている。
またこの「クラス討議」の中で文、法、産社学部では、16日の全共闘(準)主催の大衆団交を拒否した各教授会の基本的な見解を口頭で案に示した。これによると「全共闘(準)は非合法組織であり、大衆団交は、立命館の民主的諸制度を否定する考えの上に立っている」という骨子のものである」(「大学側、パンフを配る─総長選挙問題」『立命館学園新聞昭和44年1月20日』(立命館大学新聞社、1969年))。
そして封鎖解除の「クラス決議」をしたクラスもあった。
1月22日(水)午後11時15分ごろ、一部学友会・二部学友会(ともに民青系)が、500人強の勢力で、実力によって全共闘準備会の封鎖を解除しようとした。
しかし、反発する一般学生や体育会所属の学生によって防がれる形となった。
「反日共系学生が封鎖する中川会館と日共系学生が本拠を構える研心館の狭い広場は、午後10時半すぎから緊張したふん囲気に包まれていた。
日共系学生の〝実力封鎖解除〟を察知した一般学生400人は広場の中央に4列のスクラムを組んだ。西側の2列は研心館に向かい「民青帰れ」をシュプレヒコール、東側2列は中川会館の封鎖学生に〝暴力反対〟を絶叫した」(「日共系が実力行使、〝阻止〟の学生を中に乱闘」『京都新聞昭和44年1月23日』(京都新聞社、1969年))。
「大学当局から黄色ヘルメット500個が配給され」「ゲバ棒部隊約200人が封鎖された中川会館に突撃した。
すじ向かいから中川会館を見下す存心館屋上には、援護射撃のため数百人の投石部隊が配置され、京大と同様、放水もおこなわれた。しかし、中川会館は陥落しなかった」(鈴木沙雄「特集・新局面を迎えた大学問題─関西にみる東大紛争の衝撃」『朝日ジャーナル1969年2月9日号』(朝日新聞社、1969年))。
「日共系が中川会館のバリケードをとりこわしにかかっているとき、いつの間にか数をふやしたノンセクト集団が日共系学生の背後を襲い、実力排除を阻止するとともにゲバ棒やヘルメットを取り上げてしまった」(「ニュースの裏話─険しい〝新しい大学〟への道」『夕刊京都昭和44年1月27日』(夕刊京都新聞社、1969年))。
「黄色いヘルメット姿に角材を持った学友会の〝行動隊〟約300人が突然、研心館から中川会館に向って出発、同夜の実力解除の動きを心配していたノンセクトの学生約1000人が「われわれは封鎖には反対するが、あくまで話合いで解決すべきであり、実力解除には反対だ」と叫びながらスクラムを組んでこれを阻止しようとした。
これに対し〝行動隊〟の数十人は角材でノンセクトの学生になぐりかかり、中川会館バリケードの近くまで接近した。ノンセクトの学生たちは「暴力はやめろ」と叫びながら〝行動隊〟を存心館わきに追いつめた。しかし〝行動隊〟はなおもノンセクトの学生になぐりかかったため、ノンセクトの学生たちは素手で〝行動隊〟の角材を奪い、次々に校庭の外へ投げ捨て〝行動隊〟の学生2、30人を学外へ押出した。23日午前1時現在、残りの〝行動隊〟の学生たちは存心館の中に追込まれ、ノンセクト学生とにらみあっている」(「封鎖解除派の実力行使、一般学生が押出す─立命館大」『朝日新聞(大阪本社)1969年1月23日』(朝日新聞社、1969年))。
「衝突は、23日午前2時すぎ、双方で数十人のけが人を出し、日共系学生が引き揚げておさまった。一般学生はその後、校庭で集会を開き、これらの暴力を激しく非難、また早期解決を図りながら具体的な対策を示さなかった大学側に怒りの声をぶっつけた。これに対し学友会(首脳部は日共系)はマイクで「不当な会館封鎖をする暴力学生のため、いつ機動隊が導入されるかも知れぬ。こんどの実力行使は導入を未然に防ぐための断固たる行動だ」と応しゅうした」(「立命大、大衆団交再開へ」『京都新聞昭和44年1月23日(夕刊)』(京都新聞社、1969年))。
大学新聞社は「22日から23日の深夜、学友会一派約500人は、全員がヘルメットと角材という〝武装〟で大挙して押し寄せ中川会館封鎖実力解除を強行しようとした。しかし寮連合の学生はもちろん、この日も衝突回避を訴えて校庭に結集していた体育会などの学生500人の前にこの深夜の組織的暴挙は、完全に粉砕された。
22日午後11時、学友会一派は、突如として大学院屋上から投石、放水でもって中川会館を急襲、そして存心館と連絡する地下道から一斉に殺虫剤を投げ入れた。同時に黄色のヘルメットで完全武装した行動隊が現われ、バリケードに接近した。
これに対し、有志学生約500人は急拠阻止線を張り、衝突回避に立ち上った。しかし学友会一派は、これを無視し強行突破、さらにはこれらの学生に対しても、放水し、角材をふるうなどの暴挙に出たが結局、多数の学生の怒りの前に圧倒され「民青帰れ」のシュプレヒコールの中を存心館に引き下った」
「学友会一派のこの実力行使は20日の全学集会での一方的な最後通告(20日正午までに教職員の身柄と封鎖解除を行え)を盾にし〝正当防衛権〟なるもとに強行した、きわめて政治的な暴挙である」(「大学側暴挙に〝加担〟─学友会、放水・投石で中川会館襲撃」『立命館学園新聞昭和44年1月25日』(立命館大学新聞社、1969年))と反発した。
これをきっかけに理事会など大学側内部でも一部学友会・二部学友会に対する批判の声が出ることになる。
当時、立命館大学における共産党(立命館大学ブロック委員会)のトップだった学友会幹部は、学友会の実力行使が「失敗するや否や、『実力行使が間違いであった』との意見が学園内に一気に噴き出した。学内のあらゆる場所で『実力行使をしたことの是非』が大激論になった。そして広小路キャンパスでは誰が持ち込んだかわからないが、いくつものドラム缶や石油缶に薪を入れ火を焚き、その周りで幾重にも学生が集まり深夜まで『封鎖』を巡って激論が交わされた。そしてその間をヘルメット、ゲバ棒姿の全共闘がデモをするという異様な光景が毎日見られた」(鈴木元「立命館の大学紛争とは-経過と時代-」『立命館・大学紛争の五ヵ月・1969』(文理閣、2013年))と述懐している。
☞民青
師岡問題とは、大要以下の通りである。
「文学部日本史の師岡佑行非常勤講師が、教壇で「民青は非暴力主義を唱えながら、隠微な暴力をふるってサークル活動を圧殺する。学生諸君はすべからくヘルメットとゲバ棒でやれ」と講義したのをとらえて、代々木系の文学部二部学友会が、教授会に、師岡講師の言動は立命館の「平和と民主主義」という教学理念に反するという公開質問状を出した。
教授会では師岡講師に説明を求め、師岡講師は事情説明の文書を教授会に提出したが、教授会で代々木系であるとされる岩井忠熊教授が、「暴力肯定である」と発言、師岡講師は1968年度限りで講義を委嘱されないことになる」
「非代々木系の突き上げの中で、調査に同意した北山茂夫教授(非代々木系)」「が辞任」(鈴木沙雄「特集・新局面を迎えた大学問題─関西にみる東大紛争の衝撃」『朝日ジャーナル1969年2月9日号』(朝日新聞社、1969年))した。
この記事に対して教授の岩井忠熊が抗議し、朝日ジャーナルは「岩井忠熊教授の発言以下を「思想、研究の自由の立場から、事件が師岡講師の進退問題に及ぶことに反対したが、大学紛争の混乱から毎年一月に決められていた講師委嘱が決定されなかった」と改めます」(「編集部から」『朝日ジャーナル1969年3月2日号』(朝日新聞社、1969年))と訂正している。
ただ発言の内容以前に、二部学友会の質問状に(師岡発言は)「暴力肯定」とあり、この質問状は二部学友会から二部協議会を通じる形で文学部教授会に出されている。その二部協議会に文学部から選出されていたのが岩井だったことから、岩井が本問題と無関係だったとは考えにくい。
☞1969年2月25日「試験延期」
☞二十歳の原点序章1968年4月12日「北山先生の史学史をムリしてとることにした」
広小路キャンパスで校舎が完成したのは、存心館が1928年(1954年増築)、中川会館が1936年、大学院棟が1950年である。研心館は1953年、清心館は1957年に完成した。
☞立命館大学広小路キャンパス
産業社会学部は、広小路キャンパスの敷地内ではなく、河原町通りをはさんで南東にあたる恒心館を校舎として主に利用していた。
☞恒心館
当時の立命館大学には学生参加の協議機関が上から3段階あった。
・全学協議会…理事会、教授会、学友会、教職員組合
・学園振興懇談会…各学部長(理事)、学友会(自治会)、大学院生協議会、教職員組合
・学部五者会談…学部長、教学主事(教務担当教員)、補導主事(学生担当教員)、事務長、学部自治会代表
また文学部では独自に各専攻別に研究室会議があった。
・研究室会議…教授以下教員、大学院生、学部学生
一方、補導会議は総長・学部長がメンバーである学生補導関係の大学側の機関である。
☞二十歳の原点序章1967年9月15日「きのうの学振懇は」