高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 2月 2日(日)
 曇のち時々雨

 京都:曇・最低1.3℃最高10.1℃。日中は雲が多く、夕方から小雨となった。

 電車の中で、繁華街で、デパートの中で、センスのない安ものの洋服を着た不格好な弱々しい姿をしているのに耐えられなくなる。

当時の阪急松尾駅阪急松尾駅から河原町駅
 電車は、京都市右京区(現・西京区)の京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)・松尾駅(現・松尾大社駅)─阪急嵐山線─桂─阪急京都本線─河原町駅(現・京都河原町駅)。通学ルートの一部である。
 繁華街は四条河原町、デパートは高島屋京都店とみられる。
四条河原町拡大図阪急河原町駅

 五十センチ四方のおりのなかに、四五〇〇円なりのなんとかいう犬がいた。この前、いっしょに戯れていて係員に注意された犬だ。原産はスコットランドの北部の島。牧羊犬でおとなしく、機敏で、荒い自然に耐える力があるそうだ。

 なんとかいう犬は、シェットランド・シープドッグの可能性がある。
高島屋京都店

 やっとの思いで新聞を読む。
 沖縄問題が論議を呼んでいるが、佐藤首相は何やら二刀流で世論工作をもくろんでいる。「安保は日本の安全のために必要であり、米国のもつ核抑止力が安全平和を保っている」という。
衆議院予算委員会記事 「佐藤首相は、衆院本会議での成田社会党委員長の質問に対し「わが国が非核三原則を貫けるのも戦争抑止力として沖縄に核基地があるからだ」という趣旨の答弁をした。つまり、沖縄にも非核三原則をあてはめることは、わが国を含めてアジアの平和に重大な影響があるというのである。
 これは、沖縄返還をめぐる国内の論議を「当面、何はともあれ早期返還が先決」という意見と「返還が遅れても核兵器は認めない」という意見の二つに大別して示した答弁とあわせて、首相が明らかに「核つき早期返還」をめざし、その方向に世論の誘導をはかっているように聞える」(「今週の焦点─野党、首相の真意追及」『朝日新聞(大阪本社)1969年2月2日』(朝日新聞社、1969年))

 「世界」二月号の作文を首相につきつけたい。

 「作文集・B52と嘉手納の子供たち」『世界1969年2月号』(岩波書店、1969年)のことである。『世界』は、岩波書店発行の月刊誌、当時170円。
世界2月号広告沖縄の子供たちの作文
 「1968年11月19日払暁、嘉手納米軍基地でB52戦略爆撃機が離陸に失敗し、爆発した。事件の衝撃をもっとも強くうけたのは同基地周辺の児童、生徒だった。嘉手納村の2小学校、1中学校、1幼稚園では、その恐怖の記録が図画や作文で残された」(「作文集・B52と嘉手納の子供たち」『世界1969年2月号』(岩波書店、1969年))

1969年 2月 4日(火)
 こちらは紛争中で試験が延期になっているだけの程度に話す。

 立命館「大学ではさる1日からの後期試験を強行実施しようとしたが封鎖派学生の妨害で不能となったため、2日午後に各学部教授会を開き、法、経、経営、産社、理工の5学部は入試後の17日以降に延期、残りの文学部については、4日に最終態度をきめる。
 現在、立命大では入試願書の受け付けを行なっているが、正門前に林屋、奈良本両教授など看板教授の辞任ビラが、また文学部日本史学科などでは、一般学生名で受験生に入試を思いとどまるよう呼びかけるビラも張られ、紛争の深刻さをのぞかせている」(「期末試験は延期─立命大でも5学部」『夕刊京都昭和44年2月3日』(夕刊京都新聞社、1969年))

 松尾公園に散歩にいった

松尾公園

 松尾公園は、京都市右京区(現・西京区)嵐山朝月町の桂川右岸河川敷にある京都府の公園、嵐山東公園の南側部分の通称である。
松尾駅周辺図公園空撮
 自転車道が整備されたことや土手西側の建物が増えたほかは、当時とあまり変わっていない。
松尾公園公園のブランコ
 「部屋にいないと思うと松尾公園の芝生に寝ころんでいました。ブランコにゆられているのがとても似合う人でした。下宿の大きなコリー犬「ジョン」をつれて歩いたり、走リッコをしてジョンがじゃれて洋服を泥だらけにされても平気でした」(「手紙(高野家宛)─高野悦子さんを囲んで」『那須文学第10号』(那須文学社、1971年))

 きのう雪が降った

 京都は2月3日(月)朝に雪が降った。
 「京都市内は今シーズン二度目の雪に見舞われ、都大路もほんのり薄化粧」「この朝、京都の積雪は5~2センチだったが、最低気温は0度と平年(氷点下0.7度)より高めで午前10時ごろにはとけ出した」(「鬼もブルッ!─雪の節分」『京都新聞昭和44年2月3日(夕刊)』(京都新聞社、1969年))
 「〝大寒〟の1月20日以来ずっと続いていた暖冬も吹っ飛び、市民をふるえ上がらせた。例年〝寒明け〟の節分ごろは寒さが強まるが、ことしもその通りになったようだ」「市内に雪がつもったのは、京都地方気象台の調べでは先月13日についで二度目。しかし、前回は一瞬にして消え去ったので、今回がはじめてともいえそう」(「市内はうっすら雪化粧」『夕刊京都昭和44年2月3日』(夕刊京都新聞社、1969年))

1969年 2月 5日(水)
 河原町通りを歩いて、ふとパチンコ屋に入ろうかと思い、一軒目は素通りし二軒目に入った。

河原町通のパチンコ店 河原町通のパチンコ店は当時、確認できただけで、四条河原町から河原町御池までの間でも右図のように多数あったため、特定は困難である。ただし入った店は、上地図のいずれかの店の可能性が高い。各パチンコ店の住所は南から以下の通り。
 ニューヨーク…京都市中京区河原町通四条上ル下大阪町
 キング…京都市中京区河原町通蛸薬師下ル塩屋町
 ニューキョート…京都市中京区河原町通蛸薬師上ル奈良屋町
 ニューシカゴ…京都市中京区河原町通六角下ル大黒町
 ミカド…京都市中京区河原町通六角下ル山崎町
 ホンコンセンター…京都市中京区河原町通六角上ル大黒町
 花洛…京都市中京区河原町通三条上ル恵比須町
 ラッキー…京都市中京区河原町通姉小路角下丸屋町
 仮に四条河原町交差点から河原町通西側を北に向かったとすると、2軒目は「ニューキョート」ということになる。河原町御池交差点から河原町通西側を南に向かったとすると、2軒目は「花洛」ということになる。
 なお当時のパチンコ台の仕掛けはせいぜいチューリップが開閉する程度の機械式であり、現在とは大きく異なることに注意する必要がある。

 夕食時、大山さんがニヤニヤしながら私をみている。

 下宿の原田方は賄い付きである。
眼鏡を笑った短大生・大山さん「高野悦子さんと原田さんの下宿」

1969年 2月 6日(木)
 北京放送をきき、

 北京放送は、中国国営の日本語放送。なお当時はまだ日中国交正常化前である。
 高野悦子のラジオは短波放送を受信できた。

 インターナショナルを歌う。

 インターナショナルは、フランスから広まった社会主義運動の歌。
☞1969年4月29日「起て うえたるものよ」

 社学同が入試阻止をもちだす、機動隊が導入される、八日がやまだという。

封鎖が続く中川会館 立命館大学の昭和44年度入試の願書受付は2月6日午後6時に締め切られた。志願者総数は75,635人(前年比1,397人増)で過去最高、競争率は平均28.3倍だった。日本史学科は志望者が1,926人で、看板教授が抜けたにもかかわらず前年より82人増えた。

 社学同は、社会主義学生同盟の通称で、全共闘準備会の一派である。
 中川会館封鎖の局面で、シンパを除くコアメンバーで最も人数がいたセクトは社学同で、80~100人程度と言われている。
 社学同は2月6日(木)、入学試験「実力阻止」(中川会館前立て看板および社学同立命支部1969年2月6日付ビラ)を打ち出した。
 入試阻止の理由として「学園のワクを超えた、全人民的な政治闘争」に発展させるためなどとした。「同派の学生の話では、中核派もこの動きに同調しているという。封鎖中の中川会館前には実力阻止を訴える立て看板が出され、このなかで社学同側は、これまで三派の主流を占めてきたとみられるフロント派に対し「闘争を反日共系、反当局の自己批判だけにとどめ、改良主義におち入っている」と攻撃を加えており、封鎖派内部の対立を表面化させたものとして、一般学生らの関心を集めた」(「立命大入試に暗影─反日共系、実力阻止の方針」『京都新聞昭和44年2月7日』(京都新聞社、1969年))
 一方で寮連合が大学当局に対して、2月8日(土)に理事会との公開交渉を開くよう要求していた。

 八木さんからレッドの角びんを借り一杯半のんだ。

 レッドは、ウイスキー2級のサントリーレッドのこと。普通瓶500円、ダブルサイズ900円。アルコール度39度。当時の酒税法で2級は原酒(モルトウイスキー)混和率7%以上13%未満になっていた。1989年に酒税法の等級制度は廃止された。
サントリーレッド
レッドを借りた隣室・八木さん「あのころ荒れていた彼女」

 酔いながら牧野さんのところへいく。
 牧野さんは立命館大学文学部史学科日本史学専攻の同級生(1967年入学)である。この点について「二十歳の原点」に明確な記述は登場しない。
 高野悦子の日本史学専攻の同級生(1967年入学)だった男性は当時を振り返り、「高野と牧野は1回生の時に同じクラスで自然に仲が良くなったんじゃないか。二人は一番親しかったと思う。特に2回生の頃は高野はほとんど牧野と一緒にいた印象がある。一緒に歩いていた。それで高野だけが学生運動の方にぐっと行っちゃったような気がする。牧野は運動とかにはほとんど参加してない」と語る。
☞二十歳の原点序章1968年2月7日「彼女のプロフィール」
☞二十歳の原点序章1968年2月19日「田端の牧野さんの家に泊る」
 牧野さんのところは、同じ下宿(原田方)の隣の部屋である。
原田方

 橋本君? 酒井君?

 橋本君および酒井君は、日本史学専攻の同級生男子(仮名)。

1969年 2月 7日(金)
 嵐山にでもマラソンに行けばよかったんだ。走り疲れたら、桂川べりで水の流れる音をきき、夜空の星に歌う。

 マラソンは、ジョギングのこと。ジョギングという言葉はまだ一般的でなかった。
 前日の2月6日京都:雪・最低-3.3℃最高3.1℃。夜になって晴れた。

 ブルジョア新聞を読んで、あせりを感じるようでは、そんな怪物に太刀打ちできない。

 ブルジョワ新聞は、商業主義的な新聞つまり一般紙(朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、日本経済新聞、各地方新聞等)を意味する当時の俗語のことである。

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