京都:曇・最低1.3℃最高10.1℃。日中は雲が多く、夕方から小雨となった。
電車は、京都市右京区(現・西京区)の京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)・松尾駅(現・松尾大社駅)─阪急嵐山線─桂─阪急京都本線─河原町駅(現・京都河原町駅)。通学ルートの一部である。
繁華街は四条河原町、デパートは高島屋京都店とみられる。
なんとかいう犬は、シェットランド・シープドッグの可能性がある。
☞高島屋京都店
「作文集・B52と嘉手納の子供たち」『世界1969年2月号』(岩波書店、1969年)のことである。『世界』は、岩波書店発行の月刊誌、当時170円。
「1968年11月19日払暁、嘉手納米軍基地でB52戦略爆撃機が離陸に失敗し、爆発した。事件の衝撃をもっとも強くうけたのは同基地周辺の児童、生徒だった。嘉手納村の2小学校、1中学校、1幼稚園では、その恐怖の記録が図画や作文で残された」(「作文集・B52と嘉手納の子供たち」『世界1969年2月号』(岩波書店、1969年))。
立命館「大学ではさる1日からの後期試験を強行実施しようとしたが封鎖派学生の妨害で不能となったため、2日午後に各学部教授会を開き、法、経、経営、産社、理工の5学部は入試後の17日以降に延期、残りの文学部については、4日に最終態度をきめる。
現在、立命大では入試願書の受け付けを行なっているが、正門前に林屋、奈良本両教授など看板教授の辞任ビラが、また文学部日本史学科などでは、一般学生名で受験生に入試を思いとどまるよう呼びかけるビラも張られ、紛争の深刻さをのぞかせている」(「期末試験は延期─立命大でも5学部」『夕刊京都昭和44年2月3日』(夕刊京都新聞社、1969年))。
松尾公園は、京都市右京区(現・西京区)嵐山朝月町の桂川右岸河川敷にある京都府の公園、嵐山東公園の南側部分の通称である。
自転車道が整備されたことや土手西側の建物が増えたほかは、当時とあまり変わっていない。
「部屋にいないと思うと松尾公園の芝生に寝ころんでいました。ブランコにゆられているのがとても似合う人でした。下宿の大きなコリー犬「ジョン」をつれて歩いたり、走リッコをしてジョンがじゃれて洋服を泥だらけにされても平気でした」(「手紙(高野家宛)─高野悦子さんを囲んで」『那須文学第10号』(那須文学社、1971年))。
京都は2月3日(月)朝に雪が降った。
「京都市内は今シーズン二度目の雪に見舞われ、都大路もほんのり薄化粧」「この朝、京都の積雪は5~2センチだったが、最低気温は0度と平年(氷点下0.7度)より高めで午前10時ごろにはとけ出した」(「鬼もブルッ!─雪の節分」『京都新聞昭和44年2月3日(夕刊)』(京都新聞社、1969年))。
「〝大寒〟の1月20日以来ずっと続いていた暖冬も吹っ飛び、市民をふるえ上がらせた。例年〝寒明け〟の節分ごろは寒さが強まるが、ことしもその通りになったようだ」「市内に雪がつもったのは、京都地方気象台の調べでは先月13日についで二度目。しかし、前回は一瞬にして消え去ったので、今回がはじめてともいえそう」(「市内はうっすら雪化粧」『夕刊京都昭和44年2月3日』(夕刊京都新聞社、1969年))。
河原町通のパチンコ店は当時、確認できただけで、四条河原町から河原町御池までの間でも右図のように多数あったため、特定は困難である。ただし入った店は、上地図のいずれかの店の可能性が高い。各パチンコ店の住所は南から以下の通り。
ニューヨーク…京都市中京区河原町通四条上ル下大阪町
キング…京都市中京区河原町通蛸薬師下ル塩屋町
ニューキョート…京都市中京区河原町通蛸薬師上ル奈良屋町
ニューシカゴ…京都市中京区河原町通六角下ル大黒町
ミカド…京都市中京区河原町通六角下ル山崎町
ホンコンセンター…京都市中京区河原町通六角上ル大黒町
花洛…京都市中京区河原町通三条上ル恵比須町
ラッキー…京都市中京区河原町通姉小路角下丸屋町
仮に四条河原町交差点から河原町通西側を北に向かったとすると、2軒目は「ニューキョート」ということになる。河原町御池交差点から河原町通西側を南に向かったとすると、2軒目は「花洛」ということになる。
なお当時のパチンコ台の仕掛けはせいぜいチューリップが開閉する程度の機械式であり、現在とは大きく異なることに注意する必要がある。
下宿の原田方は賄い付きである。
☞眼鏡を笑った短大生・大山さん「高野悦子さんと原田さんの下宿」
北京放送は、中国国営の日本語放送。なお当時はまだ日中国交正常化前である。
高野悦子のラジオは短波放送を受信できた。
インターナショナルは、フランスから広まった社会主義運動の歌。
☞1969年4月29日「起て うえたるものよ」
立命館大学の昭和44年度入試の願書受付は2月6日午後6時に締め切られた。志願者総数は75,635人(前年比1,397人増)で過去最高、競争率は平均28.3倍だった。日本史学科は志望者が1,926人で、看板教授が抜けたにもかかわらず前年より82人増えた。
社学同は、社会主義学生同盟の通称で、全共闘準備会の一派である。
中川会館封鎖の局面で、シンパを除くコアメンバーで最も人数がいたセクトは社学同で、80~100人程度と言われている。
社学同は2月6日(木)、入学試験「実力阻止」(中川会館前立て看板および社学同立命支部1969年2月6日付ビラ)を打ち出した。
入試阻止の理由として「学園のワクを超えた、全人民的な政治闘争」に発展させるためなどとした。「同派の学生の話では、中核派もこの動きに同調しているという。封鎖中の中川会館前には実力阻止を訴える立て看板が出され、このなかで社学同側は、これまで三派の主流を占めてきたとみられるフロント派に対し「闘争を反日共系、反当局の自己批判だけにとどめ、改良主義におち入っている」と攻撃を加えており、封鎖派内部の対立を表面化させたものとして、一般学生らの関心を集めた」(「立命大入試に暗影─反日共系、実力阻止の方針」『京都新聞昭和44年2月7日』(京都新聞社、1969年))。
一方で寮連合が大学当局に対して、2月8日(土)に理事会との公開交渉を開くよう要求していた。
レッドは、ウイスキー2級のサントリーレッドのこと。普通瓶500円、ダブルサイズ900円。アルコール度39度。当時の酒税法で2級は原酒(モルトウイスキー)混和率7%以上13%未満になっていた。1989年に酒税法の等級制度は廃止された。
☞レッドを借りた隣室・八木さん「あのころ荒れていた彼女」
橋本君および酒井君は、日本史学専攻の同級生男子(仮名)。
マラソンは、ジョギングのこと。ジョギングという言葉はまだ一般的でなかった。
前日の2月6日京都:雪・最低-3.3℃最高3.1℃。夜になって晴れた。
ブルジョワ新聞は、商業主義的な新聞つまり一般紙(朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、日本経済新聞、各地方新聞等)を意味する当時の俗語のことである。