高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 2月 6日(木)

レッドを借りた隣室・八木さん「あのころ荒れていた彼女」

 高野悦子が大学2年生の時に1年間暮したのは京都・嵐山の原田方の下宿である。
 この下宿で高野悦子の隣の部屋で暮らしていた私立大学生で『二十歳の原点』に登場する女性「八木さん」に話を聞いた。
 (旧姓)八木さんは高野悦子と同学年(1967年入学)で、1971年に大学を卒業している。


「これ、だて眼鏡よ」

部屋の位置 八木:私は京都で大学2年生の1968年に原田さんの下宿に移ったんですが、その時に高野さんと1年くらい一緒にいました。ちょうど部屋が隣だったんです。だから彼女のことを覚えてます。
 階段を上がって入った2階の廊下で、私の部屋は左側の2番目、高野さんは隣の3番目でした。

 高野さんの部屋に一回入ったことがあります。本がずらっと並んでいて、いろんな難しい本があって、“すごい読んでるなあ”って思いました。自分があんまり本を読まないもんで(笑)。その印象が残っています。
 彼女は当時サークルでワンゲルをやってました。そんなふうなスタイルで何か大きな荷物を見たこともありました。

 隣だっただけじゃなくて、下宿は食事付きで原田のお姉さんが食事を作って出していただいてたので、時々高野さん本人がいなかった時は別にして、何人かそろって彼女も一緒にみんなでおしゃべりしながら夕食を取ってました。
 突っ込んだ話をしたことはなかったです。たわいない日常会話でした。彼女はそんなにペラペラ話す子じゃなかったですね。と言って物静かでもなくて、普通の感じでした。

原田さんの下宿

 その夕食に高野悦子が眼鏡をかけて姿を現した。二十歳の原点1969年2月5日(水)に記述している。
 実際私が眼鏡をかけた姿は滑稽である。私は眼鏡をかけたときは、自分の存在の滑稽さを認識させようとしている。

 その高野さんがちょっと変わってたかなあということがありました。眼鏡をかけてなかったのに、眼鏡をかけてきたことがあったんです。“目が悪くないのに、なんでそんなことをするのかなあ”と思って。
 夕食で話してた時に「高野さん、眼鏡かけるの?」って聞いたら、「うん。これはだて眼鏡よ」って。なんか、そうやって何か見るとか…そんなようなことを話していました。
 “眼鏡を通して何かみたいのかなあ”と思った記憶があります。あのころ、だて眼鏡なんてする人はあまりいませんでしたし。

追い出しコンパ記念写真(眼鏡の写真)
眼鏡を笑った短大生・大山さん「高野悦子さんと原田さんの下宿」

 高野さんは髪がロングの時とショートの時の両方ありました。
 あと、いつごろか忘れましたが、ささいなことですけど、ハイヒールにストッキングじゃなくて普通の靴下を履いてたりするんで、“おかしな格好をするなあ”と思ったこともありました。

☞1969年2月2日「明日パーマ屋にいきカットしてこよう」
☞1969年3月29日「パーマ屋に行ってさらにPrettyになり」

レッドを貸した彼女“荒れてるなあ”
 高野悦子は1969年2月6日(木)に、自己の厳しい精神状態を克明に分析しながら、八木さんからウイスキーを借りた時を次のように記述している。
 葡萄酒を二杯のみ酔えそうにもないので、八木さんからレッドの角びんを借り一杯半のんだ。酔いながら牧野さんのところへ行く。

 八木:高野さんは当時、お酒を飲んでいました。隣の私もお酒を飲みましたので貸してあげたことがありました(笑)。「お酒がなくなった」とか言ってきたんで、私が「あるよ」って渡したんでしょう。
 当時はお金がなくて、安かったレッドを飲んでいたんです。四角い瓶でした。氷もないし、コーラで割ったりしたことがあったような…。
 一緒に飲んだことはありません。彼女は自分の部屋か、牧野さんと二人で飲んでたように思います。

 サントリーレッドは、サントリー(現・サントリーホールディングス)が1964年に発売したウイスキー。ウイスキー2級(当時)で大衆向けの低価格商品に位置付けられた。当時は普通瓶500円。

 私から見て高野さんの向こう側の隣が牧野さんの部屋でした。彼女と牧野さんは同じ立命館大学で仲よくしていて、部屋を行き来していました。
 同じ下宿でしたから、私も牧野さんのことを覚えていますが、食事の時の雑談くらいしか付き合いがなかったです。
 見た感じでは、高野さんと似たようなタイプでしたね。文学少女じゃないけど、二人とも本をよく読んでいました。
 それと牧野さんと高野さんの二人はたばこを吸ってました。下宿の食堂ではたばこは吸えなかったはずなので、どこか定かではないんですが、“あっ吸ってる、私もまねして吸おうかな”と思ったことがありました。

☞1969年2月6日「酔いながら牧野さんのところへいく」
☞1969年2月1日「この頃はよく煙草を喫う」

 高野悦子は 酒に酔ってしまったことを同じ日に書き残している。
 その後、はき気を催して、お手洗いにいった。気儘にはき散らして、そこに坐りこんだ。

 高野さんは時たま無理してお酒を飲み過ぎてやられてました。よく飲んで吐いたりしました。
 2階の奥の洗面所へ行って吐くんです。私がトイレに行く時とか、洗面所のそばで彼女がうつむいてゲーゲー、ゲーゲーやっているのを見たことがあります。「あー、飲みすぎたの」とか声をかけたと思います。
 当時〝レッドは飲み過ぎると悪酔いする〟と言われてたことがあったんで、“私があんなレッドなんかあげたから酔い潰れちゃったのかなあ”と考えたこともありました。

 高野さんが酔っ払っている姿は、あのころ何回も目撃しました。原田さんの下宿で他にそんな状態の人はいません。
 “彼女飲んでるなあ。荒れてるなあ”という記憶があります。なんで荒れてるのか話を聞くことはなかったですが。
 頻繁に酔い潰れていて、洗面所だけじゃなく廊下ですれ違った時に彼女が「飲んじゃって」と言うこともありましたから、かなり飲んでたと思います。
 私もよく飲む方でしたが自分よりすごい人がいる感じで、“何かあって、飲んでるのかなあ”というのはありました。

紹介したアルバイト

 八木:高野さんとは、京都国際ホテルで同じウエイトレスのアルバイトをしました。
 原田さんの下宿で国際ホテルに行ったのは私が最初で。それで「いいよ」って彼女にアルバイトの仕事を紹介したと思います。
 私は一番下の階のレストランで働いていましたが、彼女は2階のメイン・ダイニングになりました。メイン・ダイニングは外国のお客様もいっぱいいらっしゃるし、「大変だねー」という話をしたりしました。

☞巻末略歴「下宿の友人の紹介で京都国際観光ホテルにウェイトレスとして働く」
京都国際ホテル

 アルバイト先が一緒で、私はずっと原田さんの下宿から国際ホテルまで通ってましたが、そのうち高野さんは下宿を引っ越して行きました。でも引っ越した記憶がないんです。ただ彼女がホテルまで自転車を使ってたような覚えは少し…。
 そんな彼女がデモに出てるのは知ってました。けがをしてたりしたこともありました。

 高野悦子が原田さんの下宿から引っ越した記憶がないのは、引っ越した時に八木さんは大学が休みで部屋にいなかったためと考えられる。
☞1969年3月8日「下宿の人たちも帰省して数少なくなってまいりました」

 屋上ビヤガーデンがオープンして、私も高野さんもビヤガーデンになりました。アルバイトは男子学生も合わせてかなりいました。
屋上ビヤガーデンの写真 ビヤガーデンで私がウエイトレスをしていた時です。彼女は亡くなりました。
 それはもうびっくりしました。話を聞いたのは亡くなってすぐでした。本当にすぐだったと思います。誰からどういう形の話だったかまでは覚えてませんが、直後と言うか、日を置かずに聞きました。
 “どうしたのかなあ”と。“何か事情があったのかなあ”と思いました。
 高野さんが亡くなったあと、ビヤガーデンの中では、「彼女には誰か付き合っている人がいて、振られたんじゃない」「何かあったんじゃない」といううわさもありました。あくまでうわさ程度の話でしたが。

 八木さんは屋上ビヤガーデンで高野悦子と一緒に働いた記憶が出てこなかった。屋上ビヤガーデンのオープンは1969年6月7日(土)であり、二人の勤務が重なったとしても、ごく限られていたためとみられる。
屋上ビヤガーデン
中村

 前触れのようなものはなかったですが、高野さんが亡くなった時に私は“彼女は深く考える人だったから、いろいろ考えることがあったのかなあ”と。“ああ、こういうことは彼女ならありうる”と思いました。後になってみればというになるんでしょうが、“ちょっと違うんだなあ”と。
 そして『二十歳の原点』(単行本)が出て読んだ時、改めて“やっぱり、考えるところが多かったんだなあ”、“難しいことを考えてたんだ”と思ったんです。

 玄関前に現れた八木さんは「取材を受けるのは初めて」と驚きながら、快く応じてくださった。そして遠くを見つめながら当時のことを一つずつ真摯に思い起してくださる姿が印象的だった。
 ※注は本ホームページの文責で付した。

 インタビューは2014年10月19日に行った。

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