高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 2月 8日(土)
 晴

 京都:晴・最低0.9℃最高10.9℃。

 喫茶店「さつき」にて

皐月(さつき)

荒神口周辺図さつき跡
さつきのマッチ 喫茶店「さつき」は、京都市上京区荒神口通河原町東入ル亀屋町にあった喫茶・グリル店、皐月(さつき)のことである。店は2階にあった。
 当時のモーニングサービスでコーヒー+トーストが70円、カレー+コーヒーが150円など。夜は洋酒も出し、深夜2時まで営業していた。建物は現存しない。

 この日の高野悦子の動きは、下宿→広小路キャンパス(学生大会)→皐月→鶴清(コンパ)→下宿。
 寒いなあ

 「5・00PM」=午後5時の気温は7℃前後とみられる。

 散まん!やめろよ

 「散漫だなあ、この手紙、もうやめた」(奥浩平「中原素子への手紙 一九六三年六月一日」『青春の墓標』(文藝春秋新社、1965年))。
青春の墓標

 電車に乗ってもふるえがとまらなかった。窓に映る景色は見知らぬ町のようだった。

 荒神口停留場-(京都市電河原町線)-四条河原町新京極停留場。通学ルートの一部である。当時、荒神口にはバスの停留所はなく、市電の停留場しかなかった。
 窓に映る景色は、河原町通。
荒神口停留場四条河原町停留場まで

 四条でおり五条までかけていった。

 駆けていったのは、河原町通と木屋町通である。

 酒は絶対飲むまいと思っていたが三杯のんでしまった。
 今日の追コンは、四回生の追出しコンパだったのに、
 眼鏡がダテであることを言っちゃダメだな、演技者失格。
鶴清

 コンパが開かれたのは、京都市下京区木屋町通五条上ル下材木町の料理旅館、鶴清(つるせ)である。会場は3階大広間で、ワンゲル部員約100人が参加した。
四条から五条の地図鶴清
 鴨川沿いにある老舗で大小の宴会場を有する。割安なプランがあったこともあり、学生のコンパでも利用された。昭和初期に建てられた木造3階建ての建物は現存する。また大広間(200畳)も当時とほぼ同じ内装で残っていて、宴会場などとして使われている。大広間から見える鴨川の対岸にあった京阪・五条駅は1987年に地下駅化され、現在は川端通が通っている。
鶴清入り口鶴清鴨川側外観
 「追い出しコンパ」または「追いコン」は学生用語で、大学の部やサークルで4年生のメンバーを下級生が送るコンパ(パーティー)のことであり、実態は送別会である。
 単なる飲み会ではなく、通常は送られる4年生がそれぞれ思い出を話したり、記念品を受け取ったりする。部やサークルである程度活動した学生にとっては、大学のオフィシャルな卒業式等より感慨が深くなる場合が多い。
盲腸手術・木村さん「追いコンで難しい話を」

追い出しコンパ記念写真(眼鏡の写真)

 追い出しコンパでは畳敷きの大広間で舞台をバックにして記念の集合写真が撮影された。
コンパ会場となった鶴清の大広間大広間の舞台
 その「立命館大学ワンダーフォーゲル会卒業生歓送会1969.2.8.」記念写真に高野悦子も写っている。
ワンゲル部卒業生歓送会の記念写真眼鏡をした高野悦子
 眼鏡をした高野悦子は後方で舞台のステージ上に立って顔をのぞかせている。顔の向って左には後方の男子学生の手が出ている。向って右には梅沢さん、木村さんが並んでいる。
以前の鶴清の大広間
 眼鏡については、これまで「特集附録─高野悦子さんの手記」『那須文学第9号』55頁(那須文学社、1970年)で扉にそれらしいスケッチが描かれていただけで、写真で明らかになるのは初めてである。スケッチと写真は、ほぼ同じタイプの眼鏡フレームに見える。
 撮影日が1969年と確認できる高野悦子の写真が明らかになるのも初めてとなる。

『那須文学』「高野悦子さんの手記」
眼鏡を笑った短大生・大山さん「高野悦子さんと原田さんの下宿」

 帰りの電車で太宰を読みながら帰ってきたーんヨ!

 帰りの電車は、河原町駅(現・京都河原町駅)-(阪急京都本線)-桂-(阪急嵐山線)-松尾駅(現・松尾大社駅)。
 通学ルートの一部である。
河原町駅から松尾駅
☞1969年1月30日「太宰治の全集」

 文自の学大に出席。

 文自は、文学部自治会執行部(民青系)のことである。2月8日(土)に文学部自治会執行部による学生大会が開かれた。
 執行部の提案に加えて、入学試験実施の決議を行った(『'69学園通信』(立命館大学教学部、1969年10月)参考)とされる。

 文闘委が学大を性急にデッチあげたと言うならば、

 文闘委は、立命館大学全学共闘会議(全共闘)の文学部闘争委員会(反代々木系)のことである。
 一部文学部では執行部が432人の学生大会要求を無視して学生大会を開かないとして、1月31日(金)に文闘委が学生大会を開催し、期末試験の延期・執行部リコール・清心館(文学部棟)の封鎖等を決議した。
 さらに2月6日(木)、「文闘委主催の学生大会が約400人が参加して開かれ、ストライキ実行委員会の設置などが、可決された」(「文学部闘争委員会、スト体制かためる」『立命館学園新聞昭和44年2月10日』(立命館大学新聞社、1969年))
 これらについて文学部自治会執行部側は、自治会規約によらない開催だと批判した。

 彼ら(民青執行部)は策略的に時期をおくらして自治会権力を使って「デッチあげた」といえるのじゃないか。

 民青執行部とは、民青(代々木系)の影響下にある学友会・各学部自治会執行部のこと。
 学友会・各学部自治会執行部は当初(1月27日付)で、1月29日(水)に学生大会を召集していた。
 ところが大学側が1月28日(火)から寮連合(反代々木系)との交渉再開に踏み切ったことから時間が重なってしまい、学友会は29日の学生大会を急きょ中止・延期にした(学友会声明「大学と寮連合の団交への参加を」(一部学友会執行委員会、1969年1月29日)参考)

 「一部暴力集団」「反動と一体となっている日共民青」どうもわからないね。

 それぞれ文学部闘争委員会(反代々木系)に対する批判、文学部自治会執行部(代々木系)に対する批判。

 何のために大学へきたのか。エヘッ文闘委と執行部の泥仕合をみに?

 那須文学社版の記述では「何のために学大へきたのか」。泥仕合は、上記の経過分析と批判を学生大会で行っている状況を指す。

 明日、北山先生と岩井先生にテレして試験がどうなるのかきいてみよう。

☞二十歳の原点序章1968年5月6日「明日は北山先生の史学史の講義がある」
☞二十歳の原点序章1968年11月28日「岩井先生がこう言ったナァー」

 教授が辞職しているのに試験がやれるなんて─

☞1969年2月1日「教授のいない大学に」

 「If you go away 行かないで」という歌は大好きだ。

 「行かないで」(邦題)は、女性歌手のダスティ・スプリングフィールド(英、1939-1999)が歌う曲である。曲冒頭および反復で「If you go away」のフレーズが出てくる。
 国内では日本ビクター(当時)が1969年1月15日にシングル発売、オリコン最高76位だった。

 すぐに返事をよこしたところをみると、東大紛争にはかなりの関心(ブル新聞を通じて得た情報)をもっていた。

 ブル新聞は、「ブルジョワ新聞」の略語。
☞1969年2月7日「ブルジョア新聞を読んで」

1969年 2月11日(火)
 九日の日は朝早くから井上がテレをしてきて、

 井上はワンゲル部員の男子学生(1968年入学)。
テレをしてきて待ち合せた・井上君「なぜそこまで頑張るの」

 二時間ぐらい「裏窓」で勝手気ままに話して、

裏窓

裏窓地図裏窓跡

 裏窓は、京都市中京区河原町通三条下ル大黒町にあった喫茶店。純喫茶(酒類を扱わない喫茶店)である。
当時の裏窓のマッチ
 建物は現存せず、現在は物販店になっている。

 大衆団交を見学しました。

 全共闘準備会(反代々木系)が全共闘としての結成宣言(「全学共闘会議結成宣言─我々の立場と任務」(立命館大学全学共闘会議、1969年2月6日))を出すとともに、理事会との大衆団交を求めていた(「大衆団交要請書」(全学共闘会議々長、1969年2月7日))が、一方で寮連合と理事会との公開交渉も8日(土)午後から続いていた。
 全共闘は9日(日)午後0時半から中川会館前で約200人が参加した全学共闘会議結成大会を開いたうえで、「立命館民主主義体制を粉砕するとともに、全国学園闘争のとりでとする」などの闘争目標を採択、総長、理事退陣など10項目要求をもとに理事会との大衆団交開催を要求することを決めた。そして寮連合と理事会との公開交渉に加わり、全共闘が求める大衆団交のための折衝を行う形になった。
 そして全共闘主催の大衆団交は9日午後、清心館4階10号大教室で開かれた。高野悦子が日記に書いたのは午後4時すぎとみられる。
清心館

 理事会との間に、自衛という名目で認めた京大方式をとらないという確約を取るというのが闘いであるのか。

 京大方式とは、京都大学学生部を封鎖・占拠していた同大学寮闘争委など反日共系学生に対し、1月22日夜から23日にかけて、同大学五者連絡会議など民青系を中心とした封鎖解除派学生が実力排除したことをいう。
 大学側は、投石よけとの自己防衛策して約2,000個のヘルメットを教職員や学生に支給、他大学からの封鎖応援組を防ぐため、京大本部キャンパスの各門や周囲をバリケードし、構内に入るには身分証明書の提示を求めた(『朝日新聞(大阪本社)1969年1月23日』(朝日新聞社、1969年)参考)
 当時は、東大紛争のような機動隊による学生排除を避けるための大学の自衛と評価する向きもあった。

 山小舎に行くことや、金沢のジェット機墜落現場を見にいくことや、

 2月「8日正午ごろ、金沢市泉二丁目、会社員越野清さん方付近に航空自衛隊小松基地のF104Jジェット戦闘機=経三輝(たて・みてる)二空尉操縦=が墜落し、爆発した。吹出した火は越野さん方付近から近くの民家約15戸へ燃え広がり、家の中にいた人や通行人に死傷者がかなり出た。午後2時までに負傷者11人が収容された。経三輝二空尉はパラシュートで脱出した(「自衛隊機、密集地へ墜落─金沢」『朝日新聞1969年2月8日(夕刊)』(朝日新聞社、1969年))
山小屋

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