『二十歳の原点』に登場する記述のうち唐突でわかりにくい一つに1969年2月5日(水)の「きのうは永井さんの所へ行って失敗をした」がある。一体何をどう失敗したのだろうか。
高野悦子が暮した京都・嵐山の原田方の下宿にいた立命館大学生の女性「永井さん」にくわしい話を聞くことができた。
(旧姓)永井さんは高野悦子と同学年(1967年入学)で、1971年に大学を卒業している。
永井:原田さんの下宿では、部屋は大山さんの向かいくらいでした。牧野さんが斜め向かいにいて。私は西側ですからね、西日が強くて…。同じ部屋に2年生と3年生のあわせて2年間いました。
2年生になるのに合わせて(1968年)4月に引っ越して来ましたが、もうその時に高野さんはいたと思います。斜め向かいくらいの部屋でした。
高野さんとの接点は基本的には下宿の中だけでした。同じ立命館大学の文学部でしたけど専攻が違って、彼女は日本史で私は日本文学でしたから。あまり深い付き合いじゃなかったんですよ。
下宿の中で彼女は、うーん…、普通の感じの子でしたからね。そんなに印象って…、本当に普通の素直な子でしたから。当時はあんなことになって、『二十歳の原点』のような本が出るなんて思いもしなかったですし。そんな深刻なふうには見えませんでした。
原田さんは食事付きの下宿だったので、1階の食堂で朝と夕とごはん食べてました。朝食はパンと牛乳1本。食パンだからトーストにしたのかなあ…。でも彼女とあんまり顔を合わせなかったです。一緒に食べた時もきっとあったと思いますけど、あまり記憶がないです。みんな同じ時刻に食べてたわけじゃないですが…、やっぱり時刻がずれてたんでしょうね。通学は阪急電車と市電ですが、一緒になることもなかったですね。
私の場合は、下宿の中で自分と同じ日本文学専攻の友達がいて、そっちの子と親しくて付き合いが多かったこともあります。その子は本には登場してないようですけど。
原田方には1968年4月から1年間、立命館大学の女子学生だけで4人下宿していたことになる。
☞原田方
それでも高野さんと話をした記憶で残っていることがあります。
一つは阪急・松尾駅のホームでした。彼女が電車でどこかに出かける時に出会って、ひと言話したことがありました。
彼女は山へ行くような格好をしていて、登山というよりハイキングか軽いトレッキングみたいな感じでしたね。重装備の大がかりなリュックサックとかじゃなくて軽装でした。
「山へ行くの」って聞いたら、彼女は何か楽しそうに「今からちょっと行ってくる」って。確か「ワンゲルで行く」というようなことを言ってました。
その時に私も“高野さん、ワンゲル部に入ってるんだなあ”と思ったわけです。
京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)・松尾駅は桂方面ホームへ渡る構内踏切があったが、現在は地下通路で結ばれている。ただ名残で両ホーム土台の北側に傾斜が残っている。待合スペースの寄棟造は当時と同じデザインで作られている。駅名は2013年に松尾大社駅に改称した。
☞ワンゲル部
学習会って記憶してないんです。日高六郎…なんて難しい本は全然知らないし、私はむしろ〝ノンポリ〟の方でしたから、たぶんこの学習会に入ってないと思います。高野さんの部屋に行ったこともなかったです。彼女と牧野さんと二人ならわかりますけどね、二人は仲が良かったですから。
牧野さんの部屋は行ったことがありました。すごいいろいろな本が並んでました。“難しい勉強の本をたくさん読んでる”という感じでしたね。自分というものをきちんと持った…、芯を持ってると言いますか…、そういう人でした。
牧野さんには圧倒されましたね。高野さんもそうだったでしょうけど、普通の人だとみんなそういう印象でしょう(笑)。“頭いいわ”“しっかりしてるわ”という感じです。ちょっと小柄で、ショートヘアで眼鏡を掛けてました。
高野さんと牧野さんとは同じ日本史専攻で、同郷と言うか同じ関東の方から来ていて、それで下宿も一緒にしたんじゃなかったのかなあ。
永井さん本人も眼鏡を掛けていた。
☞1969年2月6日「酔いながら牧野さんのところへいく」
☞眼鏡を笑った短大生・大山さん「高野悦子さんと原田さんの下宿」
永井:本を読んだ時に「永井さんの所へ行って失敗をした」という文章が目に入りました。“何のことだったのかなあ”と思い出したら…。高野さんが私の部屋に来たのは一回しかなかったので、“ああ、あの時だわ”って。
昼間だったと思いますが、彼女が突然、一人で私の部屋に遊びに来ました。コンコンってドアを叩いて、「ちょっといい?」とか言って、部屋に入ってきました。来たのは初めてだったんで“珍しいなあ”と思いました。
その時に、その辺に少年向け漫画雑誌があったんで、「マンガ読む?」って彼女に勧めたんですね。その漫画雑誌は、何かの連載が気に入ってクラブの人から借りて読んでいたものでした。それを勧めただけでした。
そうしたら彼女は「うーん」とか何とか言って、あとはもうだまって、スッと出ていきました。何か言いたかったけれども言えなかったみたいな雰囲気で。それを「失敗をした」と思ったんじゃないのかなあ。
彼女は“もっといろんな人と話そう”とか決意して来て、何か話したかったかもしれないのに、そんな深刻に考えてるとは私は全然思わなくて。それで「マンガ読む?」って世俗的なマンガなんか勧めたものだから、彼女は〝肩透かし〟を受けて、当てが外れたというか、がっかりしたんでしょうね。“この人としゃべってもしょうがないな”と思われたんでしょう(笑)。
その時は気が付きませんでした。ただ部屋に来たことは覚えていたので、後から本を読んだ時に、“まさか、出てきてる”と自分が登場していることがわかりました。ほんの一部でしたけど印象が強くて、“ああ、あの時。もう少し話を聞いておけば良かったなあ。申し訳なかったなあ”と反省しましたね。
☞1969年1月20日「サンデーちゃんを読んでいた―んヨ」
『二十歳の原点』を読んでましたら、「下宿を変えることにしよう。…原田さんのような下宿では迷惑をかけるからである」って書いてあるでしょう。そんなつもりでいたんだと思いました。本人は当然そんなことは口には出さないし。“もっといたかった”ようなねえ…。
私は大学の春休みは必ず帰省していたんで、知らないうちに高野さんは引っ越していたかもしれません。
☞1969年2月6日「原田さんは全く居心地のよい下宿である」
☞川越宅
亡くなる少し前に出会った時のことが印象的でした。大学の広小路キャンパスの広場というか通路というか、研心館脇のわだつみ像があった前あたりでバッタリ会いました。
高野さんは一人でいました。ヘルメットをかぶったりしてたわけじゃなくて普通の格好でした。でも顔にけががあったんです。右のほおだったかなあ、赤い線があって、ひどいすり傷で目立っていました。びっくりして思わず「どうしたの?」って聞きました。
彼女は「デモでちょっとけがをしたんだ」って言ってました。その時初めて、“そういう運動に入ってるんだなあ”と気が付いて、“だいぶそっちの方に入り込んでるんだなあ”と心配してました。高野さんがデモをしている場面そのものを見たことは全くありませんでしたが。
これが彼女と生前に会った最後になりました。
☞1969年5月12日「十時ごろ下宿に帰り朝食をとってから病院にいきました」
☞立命館大学広小路キャンパス
永井:高野さんが亡くなったことは、下宿の中で聞きました。驚きました。ショックでした。
牧野さんとか下宿で高野さんと親しかった子らが「お葬式に行くよ」って話していたので、私も「それなら一緒に行く」って入れてもらいました。私や牧野さんを含め下宿の4人で彼女のお葬式に行くことになりました。
4人で京都から新幹線でひとまず東京まで行って、そのまま東京にある牧野さんの実家に一晩泊めてもらいました。牧野さんの実家は鉄工所のような…大きな作業場を兼ねた自宅でした。
翌朝、お葬式の当日になりますが、4人で上野のデパート・松坂屋でユリの花を買いました。彼女と一番付き合いが深かった牧野さんが「高野さんが好きだったからユリにしようか」と言ったからユリに決めた気がします。真っ白のユリを一抱えの花束にしてもらいました。ユリの花束を持って西那須野まで電車に乗って行きました。
お葬式は寺の施設で行われていました。遺体はなく、祭壇に位牌と遺影がありました。4人でユリの花束を供えて、拝みました。夏のことでした。
松坂屋上野店は東京・台東区上野三丁目にある百貨店。現在はJ.フロントリテイリング傘下の大丸松坂屋百貨店が運営している。当時あった南館は取り壊され、上野フロンティアタワーになっている。
高野悦子の葬儀・告別式は1969年7月1日(火)に宗源寺で行われた。宗源寺には高野悦子の墓がある。
☞高野悦子の墓
下宿で高野さんや八木さんとか3人が京都国際ホテルでアルバイトをしていたことを知りました。それで3人は仲が良かったかもしれません。バイト先で高野さんには、ちょっと好きな人がいたみたいでした。「彼女は好きな人がいたんだって」とは聞きました。片思いみたいだったようですけどね。「失恋したんじゃないか」とも聞きましたんで、私は彼女がその失恋で自殺したんだと思っていました。
☞レッドを借りた隣室・八木さん「あのころ荒れていた彼女」
高野さんのお母さんが『那須文学』ができた時にお手紙と一緒に私の方に送ってくださいました。お葬式に行ったからだと思います。『二十歳の原点』の単行本が出た時も買いました。1971年に大学を卒業して仕事に就いた1年目の夏、別の資格を取るために受けた大学通信教育のスクーリングが京都の寺で2週間ありましたが、その時に単行本を持って行って読みました。『那須文学』と違って、かなり深く書いてあった気がしました。
最近また『二十歳の原点』の新しい本が出たというのを聞いたような…、チラッと本屋さんで見たことがあります。今でも本の名前を見るとドキッと言いますか、やっぱり胸がズキッとします。
原田さんの下宿周辺は当時のんびりした所でした。まだ向かいの方に畑もあったし、その畑の背景に山が見えました。桂川の河川敷が広々とのんびりした雰囲気で、散歩に行ったこともあります。あの周辺も当時とは変わってしまいました。本当にはるか昔のことですものね。
大学卒業後も時々下宿に行って、お姉さんにあいさつしました。今でも京都へ行ったらできるだけ立ち寄ることにしています。青春の思い出の地です。広小路は全然行ったことないですけど、下宿には行くんですよ。
☞松尾公園
西那須野にユリの花束を持って行ったことは忘れられませんね。
6月24日が命日でしょう。だいぶ経ってからも、命日のあと“ユリをちょこっと買ってお供えしようかなあ”と思う時がありました。心の中で“あの時、ユリを買ったなあ”って。今でも6月24日が近づくと、“ああ高野さんの命日にユリの花を持って行ったなあ”って思い出して。
年月が経ちましたけど、いくつになっても6月の24日が来ると、“ああ、あの子も生きてれば、今ごろは…。子どもや孫もできてあれだろうなあ…”とか、“もうちょっと強く生きてくれていれば良かったのになあ”っていろいろ思いますね。もう還暦も過ぎましたのにね。
松尾は、京都市右京区(現・西京区)嵐山宮ノ前町にあったそば店。店名表記は後に「松尾そば」になった。
永井さんは「おでん定食だったかなあ、下宿で食事が付いてない時に行ったことがあります」という。当時原田方で下宿していた他の女子学生も、この店で麺類の食事をしたことを記憶している。
松尾そばは1968年創業で、元は棟続きの建物の西端部分にあった。店内の様子は当時とほとんど変わっていない。店の人の話によると、原田方の下宿の女子学生が連れ立ってよく食べに来ていたという。当時は天ぷらそばが180円、きつねうどんが80円で、麺類におでんをセットすることもあったという。
店の主人は立命館大学法学部出身で、高野悦子の1学年下(1968年入学)にあたる。主人は「自分もシアンクレールなどに入ったことがある。『二十歳の原点』に登場する店は当時の学生がよく行っていた所が多く、高野悦子さんも普通の学生だったんじゃないかな」と話している。
松尾そばは2016年に閉店した。
サンシャインは、京都市右京区(現・西京区)嵐山朝月町にあった喫茶店。
永井さんは「コーヒーを飲みに行きました。普通の…、昔からあるタイプの喫茶店でした」と語る。建物は現存せず、現在はマンションになっている。
渡月湯は、京都市右京区(現・西京区)嵐山中尾下町にあった銭湯。阪急・嵐山駅から近い。
原田方の下宿では一時、下宿の女子が浴室で髪を洗ってはいけないというルールがあった。永井さんは「女の子の髪の毛がたくさん残るからダメって言われてました。それで髪を洗う時だけ、松尾から嵐山まで電車に乗って、嵐山駅近くの銭湯へ行って髪を洗ってました。だけどそれだけのために行くのは面倒ですものねえ。芯まで冷えるし、大変でした」。「浴室の排水口の所にタワシのようなものを置いて髪の毛が引っ掛かるようにして、自分たちで取るようにするからということで交渉してもらって、解決したんじゃなかったかなと思います」と語っている。
銭湯の建物は現存せず、現在は住宅などになっている。
「はるか昔のことなんで、わかることだけですが」と切り出された永井さんだが、それぞれの場面をくっきり思い出して、詳しく教えていただいた。またインタビューにあたり永井さんの娘さんにもご配慮いただいた。娘さんは今回をきっかけに高野悦子や「二十歳の原点」の存在を知ったそうで、「才能あふれる高野さんの軌跡を伝えるためにもぜひ取材を続けてください」と励ましをいただいた。
※注は本ホームページの文責で付した。
インタビューは2017年1月29日に行った。
本ホームページへのご意見・ご感想をお寄せください☞ご意見・ご感想・お問合せ