高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 1月17日(金)②

立命全共闘副議長 大久保哲夫氏「当時の状況と彼女について」

 高野悦子は『二十歳の原点』1969年1月17日(金)に以下の記述をしている。
 立命全共闘が中川会館を封鎖した。

 ここに登場する立命全共闘=立命館大学全学共闘会議の副議長、大久保哲夫氏と会った。大久保氏は当時、立命館大学文学部哲学科哲学専攻の3年生(1966年入学)だった。立命館大学全共闘の当時の状況と高野悦子との接点を中心に話をうかがった。


徹夜で書き上げた結成宣言

 大久保:新聞社事件が起きて、急きょ集まったメンバーが全共闘準備会だった。でもそこからすぐに本格的な反攻ができなくて、党派間の調整などもあって1か月を要した。年を越してみんなで相談して、〝じゃあ、これで行こう〟というふうになった。
中川会館封鎖 東大全共闘なんかのスタイルの影響もあり議長は大学院生からという感じで決まった。ただ議長には象徴的な性格もあったから、実際には副議長である私が事実上の議長代行として党派からの代表らと相談しながら実務を進めたと言える。
 「全学共闘会議結成宣言」(立命館大学全学共闘会議、1969年2月6日)は、徹夜で書き上げた記憶がある。校正がなくて、明らかに中核派の用語が残ってしまったけど(笑)

 議長の大学院生が社学同系で、副議長がマル学同中核派系からの割り振りになった形にもなっている。大久保氏は活動の一線を引いている。
新聞社事件

 立命全共闘を党派で言えば、私がいたマル学同中核派をはじめ、社学同、フロントが中心で、プロレタリア軍団、学生解放戦線などが加わった。比較的多かったのは社学同と中核派。全共闘の中に予備校生は入ってたりしたけど、他大学は基本的にいなかった。みんな各自の大学の運動で忙しかった。
 一方で闘争の中で全共闘の一団に党派とは別の枠組みでノンセクトラジカルを中心とする文闘委や法闘委ができて、力もあった。とりわけ日本史はノンセクトが主流で党派には批判的だった。党派の批判はわかりやすいこともあるし(笑)

 日本史学専攻だった高野悦子もノンセクトラジカルにあたる。
 法学部闘争委員会については『コンテスタシオン昭和44年6月28日』(立命館大学全学共闘会議法学部闘争委員会、1969年)(『全共闘機関紙合同縮刷版』(全共社、1970年)所収)、『水平線の向こうに─ルポルタージュ檜森孝雄』(「水平線の向こうに」刊行委員会、2005年)参考。
☞1969年2月6日「社学同が入試阻止をもちだす」
☞1969年2月17日「全共闘からフロントが脱退した」

高野悦子との接点

大久保氏が手がけたビラ 大久保:全共闘の作戦会議は、いつも党派と学部闘争委員会の連中が集まってワイワイガヤガヤやったものだった。党派どうしだけでなく、文闘委が「清心館、清心館」って言って全共闘全体では「そんなに必要はないんじゃないか」とかあったりね。結構、内部は議論が激しかった。
 今振り返れば運動が高揚に向ったのは中川会館のバリケードまでで、恒心館ではもう高揚期も後期だった。元々女性が少ない中で、高野悦子という小柄の子がいるというのを初めて聞いたのは、たしかその恒心館のバリケードに入ってからのことだった。
 彼女が出入りしていたのは文闘委の部屋で私は主に全共闘の部屋にいたが、建物の中で顔を合わせたこともあったんじゃないかと思う。それにたとえば京大・同志社・立命館の3大学の全共闘で集会の時には、立命代表のアジテーションは副議長のぼくだから、彼女が聞いたことはあるはずだし、ぼくが書いたビラも読んでいたと思う。

恒心館
立命館闘争勝利大報告集会 告知ビラ

 高野悦子は1969年5月27日(火)に以下の記述をしている。
 傷の糸のぬける日だ。ウレシイナ。

京大教養部の空になった教室 はっきり覚えているのは、京大教養部のA号館でのこと。教室だった所を取っ払って何にもない、じゅうたんみたいな上で、ぼくがあぐらをかき彼女も膝を抱えて座り込んで一対一で直接いろんなことを話したと思う。
 彼女は何か包帯のようなものをしていた。『二十歳の原点』に「傷の糸のぬける」という記述があるから、その前後だろう。自分から話さないで聞いているタイプだし、表情までは覚えてない。もちろんその時ぼくは闘争以上の関心がなくて、彼女がアルバイトしてるとか男性と仲よくしてるとかは全く知らずに話をした。

 京大でのバリケードに移ってから、文闘委で高野悦子と日本史学専攻の同学年(67年入学)はごく少数になった。
京大Cバリ

京大での集会で

 大久保:高野悦子が亡くなったことを知ったのは、京大のバリケードの中で開かれた立命全共闘か文闘委かの集会でだった。ぼくが仕切り役の一人でいたら、文闘委で日本史のNや亀井あたりから「彼女が自殺した」と言われた。「親と会った」とも聞いた。それが彼女の死を知った瞬間だった。
 Nや亀井は完全なノンセクトであり、「お前たち(党派)のために高野悦子は死んだ」とぼくらをはじめとする党派の者が直接批判された。党派は嫌われ役だったし、闘争全体の崩壊過程で感情的になって怒りをぶつけたかったこともあるだろう。相当厳しく非難されたことをはっきりと覚えている。
 その時のぼくは「人の死の内面については軽々には立ち入ることはできない」といった趣旨の言葉で応えるのが精一杯だった。

 Nと亀井は文闘委の有力メンバーで、日本史学専攻で高野悦子より1学年上(1966年入学)にあたる。
集会後話した文闘委・亀井さん「急に訪ねてきた彼女」

 高野悦子が全共闘のために死んだとまでは思っていない。彼女の日記を読んでも、高校生の時から死に関する記述が多いし男女関係のこともある。
 ただ彼女を精神的に追い詰めた一つに〝授業料を払うかどうか〟、つまり〝大学生でいるかどうか〟ということは大きかったと思う。彼女の場合、親から送ってもらった授業料を払うかどうかでものすごく迷って日記に何回も書いているから、それはあったと思う。

☞1969年5月8日「今からでも授業料を払いこむのは遅くないんだぜ」
☞1969年5月31日「授業料を学校に支払わぬという己れの行動を、早急に論理化しなくてはならない」

 立命館大学では最後は事実上、全共闘に関係する学生の追放が行われた。ぼくと宮原ともう一人は一番厳しい処分を受けて「退学」と「無条件復学拒否」。その告示が大学寮に張ってあるというので自分の目で見たけど、ぼくはもう〝確信犯〟だから、ちゅうちょもなかった。
 だけど活動に関わったたくさんの学生はものすごく迷っていた。親の期待とかを背負って来てるから、大学を辞める決意はなかなかできず真剣に考えた人がいっぱいいた。とくに女子は4年制大学を中退したら当時非常に厳しい状況だった。勉強ができたのに諦めた人、別の大学に入った人…、何人も知っている。
 そういう人たちに本当に申し訳なかったと、ずっと思っている。

 全共闘関係者では当時大学を卒業できなかった学生が約400人と言われている。当時、立命館大学における共産党のトップだった学友会幹部も「少なく見積もっても250名以上の全共闘学生が退学していった」(鈴木元「立命館の大学紛争とは-経過と時代-」『立命館・大学紛争の五ヵ月・1969』(文理閣、2013年))としている。
振り切られた・宮原さん「斜めのヘルメットでべそをかいてた彼女」

大久保哲夫氏の筆 大久保哲夫氏は晩年、闘病を繰り返しながらも立命全共闘当時の関係者と広く交流を続け、2020年7月に72歳で死去した。
 本項全体について大久保哲夫「立命館大学全共闘の運動」『日本の大学革命5(全共闘運動)』(日本評論社、1969年)参考。
 ※敬称は略した。注は本ホームページの文責で付した。

 インタビューは2013年11月30日に行った。

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