ここで登場する「宮原」さんと会った。
宮原さんは当時、立命館大学文学部文学科中国文学専攻の5年生(1965年入学)で、マル学同(日本マルクス主義学生同盟)中核派立命館大学支部のキャップだった。高野悦子と学生運動における党派での活動を中心に話をうかがった。
宮原:「意気消沈」と…、見たらそうだったんだろうね(笑)。僕らは元気良くやってたつもりだけどなあ(笑)。
高野悦子と最初に会ったのは恒心館のバリケードの時だった。中核派の部屋は2階だったと思うが、その部屋で会った。
当時、恒心館の〝門番〟は各党派と各闘争委員会も含めて交代で担当する建前だったが、しんどくて嫌な仕事だから、うちでかなりの部分を引き受けていた。引き受けたのは、新しい人に自分たちの部屋を案内して僕らがオルグしようという目的もあった。恒心館の時には活動家スタイルでない人もどんどん入ってきてたからね。
ただ彼女は恒心館に来た時にうちの門番の案内を聞いていたとしても、先に文学部闘争委員会へ何回か行ってたはずだ。その中で中核派の部屋に来る機会があったんだと思う。出入り自由にしてたから、興味があって入ってきたんだろう。
立命館大学全共闘が恒心館のバリケードに入ったのは1969年2月26日(水)である。恒心館には中核派のほかに、社学同(社会主義学生同盟)、文学部闘争委員会、法学部闘争委員会などが入っていた。
部屋で会った時、彼女は一人だった。
たぶんお互いに自己紹介をして、彼女がどういう人なのか、部落研の経緯とかも聞いて僕は納得して、それで〝立命館大学闘争の意義〟についていろいろ話してオルグしたと思う。彼女はそんなにしゃべる人じゃなかったし、必要なこと以外しゃべらなかった。
もちろん彼女はその時、「一緒にやる」なんてことは言わなかった。
ただ彼女は真面目な人で、物事を真剣に考えてくれてる人だという印象をもった。それは僕の問いかけに対する答え方の感じからだろうね。答え方がいい加減じゃなかった。僕の言ったことを真剣に受け止めて、考えて答えてくれてる。そういう人だったから継続して話をしようということになったと思う。
☞恒心館
僕は中国文学がやりたくて一浪して学費の安い立命に行った。高橋和巳が講師でいたということも一つだったんだが、入学したら高橋和巳はもう辞めていてがっかりした。
マスコミ関係に進みたかったんで立命館学園新聞社に入った。新聞社は党派的にはフロントが主流で中核派じゃないけど、上級生の中には中核派の人がいたことなどもあり、オルグされて1年生の秋に入ることになった。このころから講義には出なくなった。
大学新聞は旬刊(10日に1回)で発行してたから、記事を埋めるので大変だった。でも新聞には予算だけでなく広告や合否電報の収入で取材費も豊富にあったし、外線の直通電話があって便利だった。特に「末川賞」に携わることになり、選考メンバーの一人である高橋和巳の神奈川県鎌倉市の自宅に行く機会もあったなあ。
ただ〝激動の7か月〟、1968年3月で中核派立命支部の組織のキャップとなり、新聞を辞めて活動の専門になった。
☞1969年2月17日「全共闘からフロントが脱退した」
☞1969年3月8日「高橋和巳にひかれましたので」
立命館学園新聞は1968年6月に旬刊から週刊へ移行する。新聞社は予算として学友会費から活動費用が出されていた(1967年度で117万円)。
末川賞は立命館学園新聞社が主催して行っていた論文・文学賞。1962年に始まった。小説部門の当時の選者は梅原猛、高橋和巳ら。賞金1万円(第6回(1967年)の場合)。
激動の7か月とは、1967年10月の第一次羽田闘争(羽田事件)以降の三派系全学連による街頭での一連の実力闘争をいう。宮原さんは1968年1月の佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争の抗議デモ中に京都市公安条例(許可条件)違反の疑いで逮捕されている。
1969年、僕は1月5日か6日ごろに上京して東大本郷キャンパスへ行っていた。前の年の秋の活動で逮捕されて入っていた大阪拘置所から暮れに保釈で出てきたところだった。
東大では法学部研究室のバリケード構築に加わっていて、機動隊は18日の朝来ることになるんだが、その直前の17日夜中に関西から「京大と立命がバリケードに入った」という連絡が入った。それで急きょ中核派の関西と京大の各キャップ、そして立命のキャップである私の3人が東大を出て京都に帰った。
帰ったら中川会館がバリケードに入っていた。びっくりした。“こんだけいたんだ”って。東大に行けなかった立命反戦会議のメンバーもたくさん集まっていた。全寮闘と全共闘、それに全共闘の各派もいた。
中川会館では彼女と全く会っていない。ただ中川会館の周辺には来てたと思う。一般の学生が集まった時にはたぶん彼女も来ていただろう。〝入試粉砕〟、広小路キャンパスへの機動隊導入…。その時、僕は中川会館の中にいた。
立命反戦会議はマル学同中核派立命館大学支部に近い学生組織。中核派のコア組織とは区別されていた。
立命館大学全共闘(全学共闘会議)が結成宣言したのは1969年2月6日(日)で、それまで全共闘準備会と称していた。実質は同じであり、『二十歳の原点』の記述に「準備会」の表現は出てこない。
☞中川会館
そう言えば、あの恒心館のバリケードの中に犬がいたんだ。ペソという名前のね。小さな子犬だった。
これ、たぶん僕が名付けた。当時、「イヌ語で犬は自分のことをペソトと言うんだよ」って、みんなに言ってたから。
どうして恒心館に入り込んだかは知らないが、飼ってたわけではないので、あっちこっちをちょろちょろしてたんだろう。機動隊が入ったあと行方はどうなったんだろうなあ(笑)。誰かが連れ出したかもしれないな。
宮原:グリーンでは彼女を本格的にオルグした。
懐かしいなあ。ふだんあんまり使わなかった店だけど、この時は恒心館から近かったから使ったんだろう。当時の店内はそんなに明るい方じゃなかった印象がある。荒神口通向かいのシアンクレールは話をする所じゃないしね。
3時間も話してたのか…。すごいね、しつこいね(笑)。
話した内容は覚えてないが、恒心館で会った時と同じだと思う。同じことをもっと時間を取ってくわしく話したんだろう。立命館闘争をどこまでやるのか論争だったし、ゲバ棒とヘルメットは一つの壁になってたから、それもクリアしないといけなかった。だからかなりの時間を割いてたと思う。
それでも3時間もかけることはそんなに数多くはなかったから、僕はある程度の決着をつけようとしたんだと思う。「これが僕らの考え方だから、一緒にやろうよ」というね。
ゲバ棒とはゲバルト棒の略で、実力行使をするための角材等の武装をいう。ドイツ語で暴力を意味するゲバルトに由来する学生運動の用語である。
☞テラス グリーン
グリーンだったと思うが、彼女が10万円か20万円か「お金が入る」、それを「カンパする」って言っていた。覚えてる。金額が大きかった。それに正直、欲しかった(笑)。もちろんその金が彼女にとって大事か、あまり大事でないのかとか、金額だけでなく彼女にとってどんな価値があるのか考えたけど。
とにかくカンパするとも言ってたし、そのあとも会ってくれたり、活動に参加してるから、悪くはなかったはずだ。だから僕は次、次というふうにアクションを起こしてるよね。箸にも棒にも掛からないというんじゃなかった。いい所までは行ってたと思うんだ。
結局、高野悦子からカンパを受け取ることはなかった。
喫茶店とかで会ってオルグすること自体はよくやってた。僕の〝仕事〟だった。中核派立命支部のキャップであると同時に、組織固め・オルグ担当だったんで、最初に会う担当をしたり最終的に決断を迫ったりしてたね。
実力闘争やってて人繰りは楽じゃなかったし、関西で中核派はやっぱり京大が軸だったから、どうしても京大に動員される。オルグ担当としては、どんどん入れていかなきゃいけないところがあった。
☞二十歳の原点序章1967年5月11日「オルグの目的人となっているのかな」
☞1969年5月17日「十五日 三共闘集会」
高野悦子は京都府川端警察署に連行されたものの、逮捕に至らず京大に戻ることになる。
☞京大に機動隊
宮原:京大Cバリ(教養部)の正門前の東一条通の所だった。僕はそこで指揮を取っていて、部隊の現場とをつなぐレポ(情報連絡係)も行ったり来たりしてた。
付近は機動隊との衝突で一時ぐちゃぐちゃだったが、その時には現場はもう東大路を南に下がった京大病院に近い方になっていた。ここはもう落ち着いていて、車も通っている状態だった。
高野悦子だとすぐわかった。彼女がべそをかいてる。顔や髪型は覚えていないが、眼鏡はかけてなかった。
かぶっているヘルメットが後ろに斜めにずれて、横にも斜めにずれている。
彼女が東大路通でやられて、疲れちゃって帰って来たんだと思った。当時は京大教養部のA号館に立命全共闘のいわば亡命政権があって部隊の待機場所になってたから、休んだりする時はこっちに帰ってくるからね。
「どうしたんだい」って声をかけたら、彼女は「機動隊に捕まったんだけど、『中学生みたいだから帰れ』と言われた」って。
ものすごく子どもっぽい顔をしてるからだろうね。簡単な事情聴取を受けたか、子供っぽいから最初から「お前はいいや」って言われたのかもしれない。
その時、彼女は白いヘルメットをかぶってた。
白いヘルメットは「中核」か「全共闘」。書いてあった文字ははっきり覚えてない。ただ中核じゃなくて「全共闘」だった可能性が高いと思ってる。彼女もいわゆるノンセクトラジカル、白っぽいノンセクトラジカルだった。
彼女は1人単独で捕まって1人で帰ってきた。彼女しかいなくて、部隊が帰ってきたのはその後のことだったと思う。
この時の出来事が彼女に関する中で一番強い印象だ。
僕は、僕たちの運動の中に彼女を絶望から救えなかった。
もちろん彼女が大学闘争の挫折で亡くなったとまでは思わない。書いてあるように当時の彼女にとって失恋問題は大きかったし世の中おもしろくないようなこともあったと思う。
しかし僕らにも責任があったという自覚がある。彼女が僕たちに少しでも展望を見いだしていれば、〝生きる〟エネルギーを吹き込むことができた。自殺という手段は取らなかった可能性はある。そういう展望を示しきれなかった。
一番伝えたかったことは、階級闘争のための一歩が大学闘争で、目の前にある闘争は確かに敗北して無残な状態だけども、これはこれでもう一回作り直す、次に向けて頑張ろうぜと…。
でも彼女を心から納得させることができなかった。悔しいね。
金八は、京都市上京区河原町通今出川下ル栄町にあった居酒屋である。自称「素人料理」の店。立命館大学広小路キャンパスから近かった居酒屋の一つだが、同志社大学の学生も利用していた。
宮原さんは「お酒が好きで〝マイ杯(さかずき)〟があった」ほか、「安くて。キャベツと豚肉が少し入った焼うどんがおいしかった」という。
建物は現存せず、現在はマンションになっている。
☞荒神口食堂
☞シアンクレール
学生時代は甘いマスクだったと言われる。面影は残っていたが、「そんなことないですよ」。てれ笑いしながら首を横に振られてしまった。「でも、みんな当時は輝いてました、女性からももてました」。
活動の一線を引いた宮原さんの今の趣味は温泉巡りと家庭菜園。取材のあと、程近い露天風呂にご案内いただき、ともにさせていただいた。恒心館バリケードでの風呂の事情を聞いたら、河原町今出川の銭湯まで行っていたそうだ。
※敬称は略した。注は本ホームページの文責で付した。
インタビューは2014年1月23日に行った。
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