京都:晴・最低14.0℃最高27.9℃。
天ヶ瀬ダムは、京都府宇治市の宇治川(淀川水系)にある建設省(現・国土交通省)のアーチ式コンクリートダムである。
1953年9月の台風13号で淀川水系では過去最大の大洪水となり、宇治川でも堤防が決壊して周辺に甚大な被害が生じた。これをきっかけに淀川水系の治水計画が大幅に見直され、建設省は1954年の淀川水系改修基本計画で天ヶ瀬ダムを宇治川に建設することを決定した。
ダムは1955年の地質調査に始まり、1961年に本体建設に着手、1964年11月に完成した。
琵琶湖国定公園内にあり、ダム完成後はダム湖に遊覧船、また京阪宇治駅からダム前を通る路線バスが運行されていたが、いずれも後に廃止されている。
高さ73m幅254mで、洪水防止・水道用水・水力発電の3つの機能をもつ。
台風などで大雨が降り、洪水の危険が生じた時は、ダムで水量を調節し、宇治川の氾濫を防ぐ。
水道は1967年当時、京都府営水道が京都府宇治市、城陽町(現・城陽市)の上水道用水として取水していた。1968年から久御山町、八幡町(現・八幡市)にも給水している。
水力発電は、関西電力天ヶ瀬発電所が最大92,000kW(人口約10万人分の電力)の発電を行っている。1970年に完成した上流の喜撰山発電所は、天ヶ瀬ダム湖を下部調節池として最大466,000kW(人口約50万人分の電力)の揚水式発電を行っている。
4月29日京都:曇・最低15.2℃最高23.5℃。前日からの雨は朝には止んだ。
高野悦子は、天ヶ瀬ダムのダム湖湖畔で日本史学専攻の同級生とともに記念写真に写っている。
このダム湖は1987年に「鳳凰湖」と名付けられた。
記念撮影ポイントはダムの堤を過ぎて、湖畔の散策路を進んだ先である。
記念撮影ポイント付近は当時は水辺までアクセスできた。
現在、天ヶ瀬ダム付近への公共交通機関はない。最寄りの京阪宇治駅から3.3kmの距離にあり、徒歩(約40分)またはタクシー(約10分)を利用する。行きは上りになるのでタクシー利用が楽である。なおダムには駐車場はない。
「鳳凰堂が、池の西に左右に翼廊と背後に尾廊をともなった優麗な姿をみせて立っている。さいわい正面の扉が開いていれば、格子の上方に円くあけられた小窓から、本尊阿弥陀如来の慈顔を拝することができる。むかしも多くの人々は、極楽浄土にたとえられた堂内に入るのではなく、このように池をへだててはるかに、弥陀の迎摂を祈ったのであろう」(林屋辰三郎「醍醐から宇治へ」『京都』岩波新書(岩波書店、1962年))。
平等院では当時の宝物館に代わって、2001年に平等院ミュージアム鳳翔館が開館した。さらに鳳凰堂で2012年から2014年にかけて大規模な修理が行われている。
『二十歳の原点ノート』に記述はないが、高野悦子は1965年11月10日(水)、宇都宮女子高校2年生時の修学旅行でも平等院を訪れており、2度目の見学ということになる。
☞高2関西修学旅行
記念撮影ポイントは鳳凰堂正面側で池(阿字池)の前にある広場である。
鳳凰堂をバックにしなかったのは、祝日の行楽日和で他の観光客が多数おり、鳳凰堂正面側が記念撮影をする人で混雑していたためと考えられる。
日本史学専攻の同級生、それに同じ専攻で民青系の上級生と並んで記念写真に写っている。
この記念写真は、高野悦子の学生時代を代表する写真の一枚にもかかわらず、背景に特徴がないため撮影日・場所等がはっきりしなかったが、全て特定された。
☞西教寺記念撮影ポイント
萬福寺(万福寺)は京都府宇治市にある寺院で、禅宗の一つである黄檗宗の大本山である(地図上)。
当時の寺の解説は「約300年前、中国の高僧隠元禅師設立の寺です。
純中国風の建築で、境内にあれば中国の寺に遊ぶ感がある。松ばかりの境内は、さながら清楚な大庭園です。特に天王殿の上の松樹の間に見える整然とした諸堂のたゝずまいを、ゆっくり味わって下さい」(『黄檗山』解説(萬福寺事務所、1967年))としている。
第3代将軍・徳川家光の時代(1623~1651)は中国の明(1368~1644)末期と重なるものの、萬福寺が創建された1661年は第4代将軍・徳川家綱の時期(1651~1680)であり、日記の記述は正確とは言えない。
黄檗宗(おうばくしゅう)では儀式作法や経典の読誦が明の時代に制定された中国風で行われていて、建物も中国・明朝の様式を取り入れた構造や配置になっている。当時の拝観料は50円。
入り口にあたる総門は1661年建立。瓦屋根の中央部分が高くて左右が低い段差を設けているのは中国風で、日本の一般的な社寺建築には見かけない。屋根の左右に乗っている魚のようなものは鯱(しゃち)ではなく、マカラという想像上の生物でヒレの代わりに足が生えている。マカラはワニを意味し、東南アジアの仏教寺院の入り口などで見られる。
天王殿(てんのうでん)は1668年建立。寺の玄関にあたるもので、本堂手前にこのような堂を置くのは中国式の建物配置で、日本では珍しい。
大雄宝殿(だいおうほうでん)は萬福寺の本堂であり、最も大きい建物である。1668年に建てられた日本で唯一最大のチーク材を使った歴史的建物。屋根は2層あるが2階建てではない。本尊は釈迦三尊像。
本堂見学中に同級生でたばこを吸っていた男子学生がおり、「こんな所でばか者!」と前田先生に大声で怒られる場面があったという。
食堂にあたる斎堂の前には開版と呼ばれる巨大な魚の形をした板がつり下げられている。読経にテンポを与える木魚の原型と言われている。時を知らせるものとして今も使われている。
当時は、ここから宇治まで「茶畑にかこまれた道がながくつづいている。「山門を出づれば日本ぞ茶摘唄」の句で知られた景観」(林屋辰三郎「醍醐から宇治へ」『京都』岩波新書(岩波書店、1962年))だった。
☞1967年5月2日 「立命館大学統一集会」
京都:晴・最低10.7℃最高24.7℃。
5月1日(月)午前9時30分から広小路キャンパス存心館前で、学生・教職員ら約1,000人が参加して第38回メーデーの立命館大学統一集会が開かれた。
統一集会とは、六者共闘(立命館大学六者共闘会議、一部学友会・二部学友会・大学院生協議会・生活協同組合・生活協同組合労働組合で構成)によって開かれたためで、前年の民青系と反民青系の〝分裂メーデー〟から、この年は集会が統一された形となった。
統一集会では一部学友会(この時点で執行部は反民青系)書記長、二部学友会(民青系)書記長らがそれぞれ壇上でスピーチした。
このあと一部学友会が主催する反民青系集会と二部学友会等が主催する民青系集会が開かれた。
高野悦子が加わっていたのは、研心館前で開かれた民青系集会の方で、約600人が参加した。
☞民青
民青系集会では文学部4年生が「本日のメーデー六者共闘の実現は、一つの成果であり、これをステップに全学友は全学連(民青系全学連)の旗の下に団結して闘おう」と訴えた。
高野悦子が加わっていた民青系集会の参加者はデモ行進に移り、「佐藤(栄作)政府のベトナム侵略加担反対」「ベトナム人民を支援しよう」などのシュプレヒコールをくり返しながら二条城前広場に向った。
京都では第38回全京都統一メーデーとして「中京区の二条城前広場に約7万5000人が参加して中央大会を開いた。特設演壇には「働く者の団結で、生活と権利、平和を守ろう」という中心スローガンをかかげ」(「京滋で13万人参加─明るく第38回メーデー」『京都新聞昭和42年5月1日(夕刊)』(京都新聞社、1967年))た。
ここでいう立命館大学全学連の「全学連」は、3つの全学連のうち民青系全学連のことをさす。さらに京都についても京都府学連(反民青系)と民青系府学連があったため、このグループは民青系全学連の旗の下に集まる民青系府学連支持者グループということになる。二条城前広場では、同志社大学や京都大学などの民青系府学連支持者の学生約700人と合流した。
「防衛隊」とは、民青系が自らの側で実力行使をする(あるいはその用意がある)組織についての呼び方。防衛隊が組織されたのは、二条城前広場に集った京都府学連(反民青系)のグループが円陣を組んで打ち合わせをはじめたことに対して、警戒したためとみられる。
☞三つの全学連
午後0時すぎ、「二条城前を出発しようとした京都府学連(反日共系)の学生約500人と、日共系の府学連の学生約1,200人が先陣を争い堀川通姉小路付近でもみあいとなり、双方に数人の軽いケガ人をだした」(『京都新聞昭和42年5月1日(夕刊)』(京都新聞社、1967年))。
高野悦子が加わっていた民青系府学連支持者グループのデモ隊は、午後1時すぎに円山公園に到着したあと、集会を開き、5月6日・7日の「憲法20周年記念集会」へ参加を訴えたあと、午後1時30分ごろ解散した(本項全体について『立命館学園新聞昭和42年5月11日』(立命館大学新聞社、1967年)参考)。
文学部、理工学部、法学部の3学部が多数の再補欠入学者を出したことに対して、学生側からは教育環境の悪化、再補欠入学者のコンプレックス、大学に対する社会的評価の低下のおそれなどから反発の声が出ていた。
国際学連の歌(1949年)は、ソ連(現・ロシア)の曲に東大音感合唱団が訳詞を付した歌。戦後の学生運動、とくに国際学連との関係で民青系が中心に歌っていた。歌声喫茶の定番としても有名。
☞1967年4月26日「あの集いは〝沖縄を返せ〟のうたで最高潮に達したが」
京都:曇時々雨・最低14.2℃最高21.8℃。午前中は曇っていたが、昼からは雨になった。
毛沢東著、松村一人・竹内実訳『実践論・矛盾論』岩波文庫(岩波書店、1957年)。毛沢東によって書かれた論文の日本語訳である。
☞1967年5月2日「ベトナム戦争反対! アメリカはベトナムから出ていけ!」
哲学の講義は、前日の5月8日(月)である。
☞1967年4月17日「哲学の舩山先生」
「知識の本質、その主体、対象、起源、発展、範囲を論ずるものは認識論である。認識論は古代にもあるが、とくに近世哲学の産物である。デカルト、ロックなどに認識論は見られるのであるが、認識論が独自の問題として、そして哲学の中心問題として問題になったのはカントにおいてである。…(中略)…現在は唯物論においては認識論が重んじられているが、実存哲学においては認識論の欠如が、その一特色として指摘されよう」(舩山信一「認識論としての哲学」『哲学概論』(法律文化社、1956年))。
なお舩山信一『観念論から唯物論へ』(大畑書店、1934年)。
ヘルマン・ヘッセ(1877-1962)は、詩と小説で知られるドイツの作家。
☞二十歳の原点ノート1966年1月4日「宮駅でヘルマン・ヘッセ『荒野の狼』(角川文庫 一二〇円)を買う」
☞1967年6月16日「ヘッセの詩を想いだした」
☞二十歳の原点1969年3月29日「ヘッセときいて「雲」を思いうかべ」