高野悦子は探検部に入部するかどうか、かなり考えたことがわかる。
高野悦子が訪れた立命館大学探検部のOBで、雑誌『あるくみるきく』の編集にも携わった元日本観光文化研究所所員の森本孝氏(1945-)に当時の状況を中心にうかがった。
森本:高野悦子とは1967年4月、立命館大学探検部の新人募集説明会で一度会った。当時、探検部の部室は衣笠キャンパスの「以学館」地下東側にあり、そこに彼女が来ていた。
その時私は4回生だったので、新人に対しての働きかけや今で言うコミュニケーションをとることはしなかった。3回生のリーダーがクラブの活動について説明しているのを、部室の隅で聞いていた程度だった。
それでも私が彼女のことを覚えているのは、2回生の中に「高野」という男子部員がいて、その高野が私のそばに寄ってきて、「かわいい子がいるでしょう。ぼくと同じ名前(名字)なんですよっ」と肘(ひじ)で私の脇腹を突きつつ、小声でささやいたことがあったからだ。
立命館大学探検部は当時、岩手県岩泉町安家の社会調査、洞くつ調査の後で、歴史民俗的な調査活動を行っており、その点が彼女の興味を引いたんじゃないかな。
でも、雰囲気としてはどこかバンカラ風であったこともあって、彼女には“歴史学にやや遠い”と映ったんだろうな。結局、彼女は探検部を選ばず、別のサークルに行ってしまった。
探検部には当時、女子部員が3人いて、そのうち2人は同級生の部員と結婚。女子部員は少なくて、大切にされていた。彼女は説明に来た中でもとびきりかわいかったので、もし入っていたら〝マドンナ〟になっただろうな。
少なくとも男子部員は彼女の入部を期待していたと思う。それは高野が私の脇腹を肘で突いたことからも察することができた。でも私は部長(3回生)による部の紹介の話をその場で聞いていて、「これじゃあ女子学生は入ってこないかもね」と思った記憶もあるんだなあ。
森本:探検部ではそのくらいだったが、その後、私が大学時代に良く通っていた河原町通荒神口角の喫茶店「シアンクレール」の、クラシック音楽がかかっている1階で、彼女が一人でいるところを見かけたことがあった。
私はシアンクレールへ毎日のように行っていた。一人で行くことが多かったが、今でも店のママやウエイトレスの顔を思い出せる。
シアンクレールは、当時有名なジャズ喫茶だった2階は薄暗く雑然とした印象だが、1階は静かでテーブルが3つしかなく、クラシックを聞きに入ってくる人は非常に少なかった。まして一人で入ってくる女子学生はいなかった。
1階で彼女は窓際の席に一人で座り、本を読んでいた。ただ私は声はかけなかった。
彼女は印象に残るくらい美人だった。書籍に掲載されている写真は笑顔でややアゴが張った感じがするが、実際は理知的な顔立ち、かわいいけど美人だった。
☞シアンクレール
宇都宮女子高校で講演をした宮本常一(1907-1981)は、「旅する巨人」として知られる民俗学者で、高度成長期まで国内各地をフィールドワークして記録を残した。そして日本観光文化研究所の所長として、雑誌『あるくみるきく』を創刊した。
森本孝氏は1969年に立命館大学法学部卒業後、東京に移り、日本観光文化研究所に出入りすることになる。所員として『あるくみるきく』の編集・執筆にあたったほか、現在も宮本の著作集の編集を務めている。そして「古いものが新しい」という宮本の言葉を近著でも引用している(森本孝「宮本常一と離島の青年たちの物語」『宮本常一離島論集別巻』(みずのわ出版、2013年)参考)。
森本:後に高野悦子『二十歳の原点』が出て、彼女のその後を知り、私は涙した。あの時、もし探検部に入っていたら、そのようなことにはならなかったのではないか…という想いとともに。
そして私が師事した宮本常一と彼女の出会いは『二十歳の原点ノート』にある通り、宮本の宇都宮女子高校における記念講演で、宮本の信条である「古いものが新しい」という話を聞いて、史学への想いを確固としたものにしたのだろう。
私と宮本常一そして高野悦子の意外な接点に驚いたものだった。
☞栃木県立宇都宮女子高等学校
森本孝氏に当時よく利用した喫茶店をうかがったところ、「シアンクレール」のほか、友人らとともに利用した店として同じ荒神口通の「リバーバンク」と「テラスグリーン」、それに河原町通三条下ルの「六曜社(ろくよう)」を挙げられた。
☞リバーバンク
☞テラスグリーン
☞六曜社(ろくよう)
※話中に登場する人名の敬称は略した。
森本孝氏からは本ホームページに対して暖かい励ましの言葉もいただいた。ここに改めて謝意を表する。
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