高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 6月22日(日)
 「闘争か、血みどろの闘争か、それとも死か」という言葉があります。どこかでそんな言葉をよんだことがあります。

 言葉を読んだのは、奥浩平『青春の墓標─ある学生活動家の愛と死』(文藝春秋新社(現・文藝春秋)、1965年)の中である。
 「安倍が好きだったあの『哲学の貧困』の終章に引用されたジョルジュ・サンドの言葉〝闘いか死か、血みどろの闘争か無か。問題は厳としてこのように提起されている〟─を私は極めて実体的な次元で解釈します。私は全力をあげて闘うか、それとも死を選ぶしかないのだ、と」(奥浩平「中原素子への手紙 1965年1月29日」『青春の墓標』(文藝春秋新社、1965年))
 なお『哲学の貧困』は、カール・マルクスの著書。
青春の墓標

 あなたと二日の休日をすごしたい。
 一日目─夜の暗さをネオンが寂しくつつむ酒場の狭い路地で、あなたを待つ。

 往復書簡集『愛と死をみつめて』の大島みち子の日記を書籍化したベストセラー『若きいのちの日記』(大和書房、1964年)の冒頭にある「病院の外に、健康な日を三日下さい。一日目、私は故郷に飛んで帰りましょう」以下をモチーフにしたとみられる。
 『愛と死をみつめて』や『若きいのちの日記』はすでに多くのメディアで取り上げられていた。
 大島みち子は1962年10月13日付で交際・文通をしていた河野實に別れの手紙を出し、翌14日の日記に「大阪駅から帰る途中、睡眠薬112錠を買う。いつでも死ねるように。何かホッとした気持である」(大島みち子「いつでも死ねるように薬を買う─10月14日」『若きいのちの日記』(大和書房、1964年)) と書いた。
 みち子は「不治の病とは言え、この頃は左目の視力がなかった程度で、身体はピンピンしていた。この日午前中、西脇市からお母さんが来られ、夕方、大阪駅まで一緒に歩いて駅でお母さんを見送った。その帰りに自殺を考え、薬局を2、3軒まわって、偽名を使って、多量の睡眠薬を買い込んだ」(河野實「注」『若きいのちの日記』(大和書房、1964年))という。
 河野が東京から直ちに、みち子の入院している大阪の病院に駆け付けて、自殺に至ることはなかった(大島みち子・河野實『愛と死をみつめて─ある純愛の記録』(大和書房、1963年)参考)。

 ベートーベンの「悲愴」とあなたの好きなブラームスのピアノ協奏曲第一番、

☞1969年3月16日「「悲愴」をウィルヘルム・ケムプで聞きたい」

 ステーヴ・マーカスの「明日は知らない」とアートブレーキ―の「チュニジアの夜」、そして最後の別れとして、マハリァ・ジャクソンの力強いゴスペルソングをきく。

 アート・ブレイキー(1919-1990)は、アメリカのジャズドラマー。シアンクレール経営者である星野玲子と親交があった一人。
チュニジアの夜 『チュニジアの夜』(1960年、Blue Note Records)は、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ(米)のアルバム。ブレイキーが長いドラムソロを豪快に演じている。
 チュニジアの夜の収録曲は以下の通りである。
1. チュニジアの夜
2. シシリアーナ・ダイアナ
3. ソー・ダイアード
4. ヤマ
5. 小僧のワルツ
 「モーガン~ショーター時代のJM(ジャズ・メッセンジャーズ)が残した名盤。このグループにとってはお馴染みのレパートリーであるタイトル曲もショーターの参加でフレッシュに生まれ変わっている。フロントのふたりによるカデンツァも聴きもの」(『20世紀ジャズ名盤のすべて』SwingJournal2000年5月臨時増刊(スイングジャーナル社、2000年))。
☞1969年6月19日「ステーヴ・マーカスのTomorrow never knowsをリクエストして」
☞1969年6月21日「マハリァ・ジャクソンのゴスペルソングをきき」

 血とくその混沌の中を裸足で歩いていくように、

☞1969年4月18日「もっと新たな泥沼(血とくそ)の中に入っていこうということなのだ」

 それから私は、原始の森にある湖をさがしに出かけよう。そこに小舟をうかべて静かに眠るため。

旅に出よう

 新宿で貨物が脱線、反対側に倒れたら去年八月の米タンク車の大惨事になるところでしたという。

 脱線事故があったのは新宿でなく渋谷である。記述は勘違いということになる。
 1969年6月22日(日)午前4時51分ごろ、東京・渋谷区の国鉄(現・JR東日本)渋谷駅構内の山手貨物線下り線で「揮発油、軽油、重油を満載したタンク車など12両が脱線する事故があった」
 「この貨物列車が脱線した直後、反対方向から青森発大阪行の上り鮮魚列車が現場にさしかかった。脱線列車の車掌の合図などで、急ブレーキをかけ、現場わきでとまったが、脱線車両が上り線側に飛出したり、傾いていたら二重衝突の惨事となるところだった」(「油類満載の貨車脱線─渋谷駅構内」『朝日新聞1969年6月23日』(朝日新聞社、1969年))。

 なお、1967年8月に新宿駅構内で貨物列車どうしが衝突しタンク車が炎上した米軍燃料輸送列車事故が起きている。この時点で見ると去年ではなく、おととしにあたる。

 一・〇〇PM
  生きてる 生きてる 生きている
  バリケードという腹の中で 友と語るという清涼飲料をのみ

 『叛逆のバリケード』の巻頭所収の詩「生きてる 生きてる 生きている バリケードという腹の中で」「〝友と語る〟という清涼飲料剤を飲み」(日本大学文理学部闘争委員会書記局編『叛逆のバリケード─日大闘争の記録─増補版』(三一書房、1969年))の引用から始まる記述である。
☞1969年2月22日「今「反逆のバリケード」を読んでいる」

 一一・一五 バイトを終えて独り部屋で
 ジャズをきくと楽しくなる。それが唯一の楽しみだ。

 朝日放送(当時1010kHz、現・ABCラジオ)6月22日午後10時45分~午後11時15分:ナベサダとジャズ「カーニバルの朝」。

 沈黙は金!

☞1969年4月22日「Silence is Golden」
☞1969年4月24日「沈黙は金」

 机の上に重ねられた「黒の手帖」が淋しげにこちらをみている。「アウトサイダー」は不敵に超然としてこちらをみている。

本の表紙雑誌の表紙 『黒の手帖』は、大沢正道編集・黒の手帖社発行の、アナキズムに関する論稿を集めた小雑誌である。『黒の手帖第7号』(黒の手帖社、1969年)は、200円。
 1966年創刊の不定期刊行で、郵送による直販、および限られた書店での市販をしていた。
 第7号では、大沢正道『国家─権力による組織の最高型態(3)』ほかアナキズムをめぐる論文・書評等計7本を所収している。
 「70年とか70年代とか、政治的な緊張はますます強まっていくだろうが、政治に思想を従属させていく傾向を警戒したい。大杉栄がかつていったように、「社会運動は、一種の宗教的狂熱を伴うと共に、兎角に欺くの如き奴隷を製造したがるものである。」しかし、「僕等は、如何なる場合にあっても、奴隷であってはならない。」」(「編集後記」『黒の手帖第7号』(黒の手帖社、1969年))
 『二十歳の原点[新装版]』(カンゼン、2009年初版)197頁脚注の「檸檬社発行のサブカルチャー誌…」は、1971年創刊の別の雑誌(前身は『プレイパンチ1月臨時増刊号・ブラックユーモア特集─黒い手帖』(檸檬社、1969年))であり、脚注は誤りである。
☞1969年4月15日「こわごわと「アウトサイダー」を読んだ」
三月書房

 「アジア・アフリカ現代詩集」「中国現代詩集」はカッキリと本立てに背すじを伸ばしてこちらを見ている。「山本太郎詩集」は前のめりになって私を招いている。

中国現代詩集の表紙アジア・アフリカ詩集の表紙 秋吉久紀夫編訳『アジア・アフリカ詩集』世界現代詩集9(飯塚書店、1963年)は、アジア、中近東、アフリカの詩人37人の詩集。函入り、480円。
 25の国・領(当時)の短詩41編長詩1編を収めている。
 「アジア・アフリカ圏の詩人たちの自由、平等、独立の叫びは、いまや原初的なひびきを伴って世界中にこだましている」「そしてこのうた声は、従来の世界の、また日本の西欧文学を主流とする文学観に、あたらしい視界をのぞかせつつある」(秋吉久紀夫「アジア・アフリカ圏の詩人たち」『アジア・アフリカ詩集』世界現代詩集9(飯塚書店、1963年))。

 秋吉久紀夫編訳『中国現代詩集』世界現代詩集6(飯塚書店、1962年)は、中国の詩人20人の詩集。函入り、400円。
 1920年代以降、文化大革命以前の中国の詩66編を収めている。
 「中国現代詩はいまや処女地を全速力でゆくトラックターに似ている。それは中国のあらゆる地域で、建設の歌声をとどろかせ、団結の力強い合唱を高らかに響かせているのである」(秋吉久紀夫「中国現代詩のあゆみ」『中国現代詩集』世界現代詩集6(飯塚書店、1962年))。
☞1969年4月22日「「山本太郎詩集」をいれて」

 「第二の性」は奥深く並んでいるけれど

☞1969年4月9日「「第二の性」を読んだら」

 きのう「シアンクレール」にいたら

☞1969年6月21日「一時ごろ「シアンクレール」にいき、のびにのびて八時までいる」
シアンクレール

 話がはずんでサイクリングに行こうということになった。

☞1969年3月27日「家から自転車が届いた。早速サイクリング」

 琵琶湖にいくことになった。

☞二十歳の原点序章1968年2月10日「井上靖『比良のシャクナゲ』『猟銃』をよむ」
西教寺

 雨の中につっ立って、セーターを濡らし髪を濡らし、その髪の滴が顔に流れおちたところで、どうということはない。

☞1969年6月21日「その何とかいうやつにやる本と手紙をもって、雨の中をどこともなく歩き」

 もし私が彼といっしょに「燃える狐」の情感をたぎらかせていたとしたら。

 「ぼくらはじつに そこでこそ 燃える二匹の 狐であることができる」(山本太郎「昆虫の微笑」『山本太郎詩集』現代詩文庫(思潮社、1968年))を参考にした表現である。
☞1969年4月22日「バックに「日本歴史」「山本太郎詩集」をいれて、チリンチリンと鈴をならしながら出かけました」

 雨が強く降りだした。

 京都では6月22日午後10時ごろから弱い雨になっていたが、23日午前1時ごろからやや強くなった。

 二時三十分、深夜。

 ダイヤ通りであれば毎晩、下宿近くの国鉄(現・JR西日本)山陰本線を、午前2時20分ころ京都・梅小路発山口・幡生行下り貨物列車(蒸気機関車)が、午前2時35分ころ幡生発梅小路行上り貨物列車(蒸気機関車)が、それぞれ通過している。
☞1969年6月19日「二・三〇・深夜」

 実際の表記は「2:30 深夜」になっている。この6月23日(月)未明をもって日記の記述は終わっている(「「二十歳の原点」高野悦子─とちぎ20世紀35」『下野新聞1999年9月19日』(下野新聞社、1999年)参考)

 旅に出よう

旅に出よう

 この詩は無題である。編集上、最後に配置された。詩が最後に配置されたのは、高野悦子の父、高野三郎が娘の遺志を考慮したためとみられる。
☞1969年2月5日「私は詩が好きだ」「私は詩人になりたいと思うときがある」

詩の成り立ち

 高野悦子が「旅に出よう」の詩の具体的イメージを始めたのは6月22日(日)朝である。「原始の森の中の湖に小さな舟をうかべましょう」「ただ独り静かに小舟の中で眠りましょう」などのフレーズを念頭に置いていた。
☞1969年6月22日「それから私は、原始の森にある湖をさがしに出かけよう。そこに小舟をうかべて静かに眠るため」

詩の成り立ち ノートで実際に詩をまとめるにあたって記述したのは、日記最終頁(「2:30 深夜」)の2ページ前、135頁である。
 「私に嘲笑の別れのあいさつをおくる日、私、旅に出かけよう」と切り出した後、「そして富士の山にあるという原始林の中にいこう」から「そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう」までの部分が書かれた。

 そして詩の記述をノートの次のページ、つまり日記最終頁の1ページ前の下部にも書き足した。見開きでは日記最終頁の左側にあたる。136頁に相当するが、頁番号は書かれていない。
 「テントとシュラフの入ったザックをしょい」から「萌え出でた若芽がしっとりとぬれながら」までの部分である。冒頭に題名「旅に出よう」はなかった。
 さらに書き足した部分が詩の構成の前半になるように、135頁左側に記号を付けて結び付けてあった。
 先に記述した「私に嘲笑の別れのあいさつをおくる日、私、旅に出かけよう」の切り出しが重複した内容として残った形となっていた。

 これら高野悦子の意図をくんで整えられ、詩は法要の礼状を兼ねた「カッコよ安らかにねむれ─」(1969年7月)に書かれたのが初めてである。
「カッコよ安らかにねむれ─」

 そして富士の山にあるという
 原始林の中にゆこう

☞1969年3月25日「原始への郷愁」

 そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して
 暗い古樹の下で一本の煙草を喫おう

 たばこは1969年当時、特殊法人の日本専売公社が国内で独占的に製造と販売(専売)していた。日本専売公社は1985年に民営化され、日本たばこ産業になったが、たばこ事業法によって製造の独占は現在も続いている。
☞二十歳の原点序章1968年12月9日「専売公社が儲けるだけだし」

 原始林の中にあるという湖をさがそう

☞1969年3月25日「原始への郷愁」

 湖に小舟をうかべよう

☞1969年2月18日「ボートに乗るつもりだったが」

 左手に笛をもって
 湖の水面を暗やみの中に漂いながら
 笛をふこう

☞1969年3月25日「笛がほしい。やわらかいあの響き。エディプスの吹いたあの笛の音」

 中天より涼風を肌に流させながら

 「中天より」は、記述では「快よい」。

小山田さん直筆メモ

 日記の記述に登場する小山田さんが、『二十歳の原点』(単行本)から「旅に出よう」の詩を書き写した直筆のメモを関係者が保管していた。

旅に出ようの詩の書き写し 旅に出よう
 テントとシュラフの入ったザックをしょい
 ポケットには一箱の煙草と笛をもち
 旅に出よう

 出発の日は雨がよい
 霧のようにやわらかい春の雨の日がよい
 萌え出でた若芽がしっかりとぬれながら

 そして富士の山にあるという
 原始林の中にゆこう
 ゆっくりとあせることなく

 大きな杉の古木にきたら
 一層暗いその根本に腰をおろして休もう
 そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して
 暗い古樹の下で一本の煙草を喫おう

 近代社会の臭いのする その煙を
 古木よ おまえは何と感じるか

 原始林の中にあるという湖をさがそう
 そしてその岸辺にたたずんで
 一本の煙草を喫おう
 煙をすべて吐き出して
 ザックのかたわらで静かに休もう

 原始林を暗やみが包みこむ頃になったら
 湖に小舟をうかべよう

 衣服を脱ぎすて
 すべらかな肌をやみにつつみ
 左手に笛をもって
 湖の水面を暗闇の中に漂いながら
 笛をふこう

 小舟の幽かなるうつろいのさざめきの中
 中天より涼風を肌に流させながら
 静かに眠ろう

 そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう

 この直筆メモは小山田さんが『朝日新聞(大阪本社)1971年5月22日』(朝日新聞社、1971年)1面下に掲載された『二十歳の原点』(単行本)の書籍広告に高野悦子の名前があることに驚き、その日のうちに同書を買って読み、詩を自分のノートに書き写したものであるとされる。
飲みにいった・小山田さん「逆鉾で大将が」

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