高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 5月26日(月)②

飲みにいった・小山田さん「逆鉾で大将が」

 「二十歳の原点」の後半で登場する重要人物の一人が小山田さんである。アルバイト先で知り合い、特に1969年5月26日(月)に「飲みにゆく」として一晩に3軒の店で飲食をともにした場面は印象的である。
 この京都国際ホテル従業員(機械担当)の男性「小山田さん」と会って話を聞いた。小山田さんは当時の日記とノートを残していて、それを踏まえて答えている。


“ターゲット”にして
 二十歳の原点1969年5月3日(土)に、アルバイト先での出来事として以下の記述がある。
 バイト先の従食で隣に坐った男の人が、京都国際ホテルに職場反戦があるのを告げた。

 小山田:高野さんには最初に国際ホテル地下の従業員食堂で話しかけた。従業員食堂のこの辺りの6人掛けテーブル席に座っていた。食堂奥の厨房との間にはカウンターがあって、その右端が食器返却場所だったことも覚えてる。まあ、この時は話しかけたというよりも…。
ホテル全景と従業員入り口かつての従業員入り口
 ストライキをやった時に、会社側がアルバイトとかそういった人を非常に大量に雇うんでね、ストライキの効果が全く上がらない現実があった。それで、アルバイトの組織化をしないといけないという話を組合仲間のUとかとやって。それで高野さんを“ターゲット”にして会ったということだね。
 そんなことは彼女の側は全く知らないよ。当時の彼女にとっては初対面だったよ。もしかしたら顔を合わせてるかもしれないけど、もう全く“面識”がないというね。
地下1階平面図告げた場所
 でもこちらは高野さんの名前や顔、彼女が立命の活動家であることを知ってたんで。周りから情報も得ていた。たぶん以前にデモで見たとか、中村から聞いたとかいろいろあったと思う。それで彼女を“ターゲット”にして、組合委員長のAさんやUと3人で相談して、「お前が行くか」となって、私が彼女に話をしたということ。でなかったら、従業員食堂で彼女と会って、いきなり「組合の問題とか話しませんか」って話はしないんでね。
 当時そういう話をしたのは高野さんだけだった。女子の活動家自体がかなり少なかったと思う。

京都国際ホテル
従業員食堂

おかっぱの写真 あくまで自分の印象だが、当時の高野さんは小柄で細くて、アルバイトはピンクのワンピースに白いエプロンの制服、普段はセーターにジーンズ姿だった。細面で髪形はおかっぱ(ボブ)にしていて「二十歳の原点ノート」の写真が最も近い印象だなあ。時々眼鏡をしていたけど。私の前ではたばこを吸ってなかった。
 声はハスキーで聞き取れないくらいの小さくて、下を向いて、言葉を選びながら話した。引っ込み思案というかはにかみ屋なように感じた。

 「二十歳の原点ノート」の写真は愛宕神社で撮影されたものである。
愛宕神社ハイキング写真ポイント

 高野さんに「話をしませんか」と“オルグ”をした。様子は全然普通…、明るくもなく暗くもなくで。朗らかなイメージじゃなかったけど、でも決して暗くもなかったなあ。
 その時、彼女の下宿の電話番号は私には教えてくれなかった。私だけ自分がいる国際ホテル男子寮の電話番号を書いて渡した。それで彼女が「私の方から電話します」という話だった。電話が来なかったら、もうそれまでだったけど…。
 そうしたら5月11日だった、夜8時ごろに彼女から電話がかかってきた。「高野です」と。

☞1969年3月31日「このショートカットの頭ボサボサの」

 電話後に会ったことは1969年5月12日(月)に残されている。
 そのあと、あそこの職場反戦の小山田君とサテンで、「闘い」について話しました。

プレインとかまん座 喫茶店「プレイン」で話をした。話は2時間くらいしたかなあ。プレインでは立命館大学での機動隊導入や民青の問題、京都国際ホテルでのストライキや職場反戦の現状、〝沖縄デー〟の振り返りとかの話をした。組合のアルバイト組織化の話で誘ったわけで、中村についての話は全く出てない。
プレイン

 それでおなかがすいたんでね、「ラーメンでも食べませんか」ということで、近くにあったラーメン屋さんに入った。店名は覚えてないが、小さいラーメン屋だった。ホルモン「かまん座」という店があって、その近くにラーメン屋があったと思う。そこでラーメンを食べた。
 別れ際に「給料日にちゃんこ鍋でも食べに行きますか、親しい店があるから」って言って逆鉾に誘ったら、彼女が「連れていってくれます?」ってなった。「約束する。学生はおごってもらえばいい」と、日にちもセットで給料日だから「(5月)25日」って自分から言って、その時に決めた。
釜座通椹木町角 それで〝バイバイ〟ってしたと思う。彼女がその後、大学(恒心館)に泊まりに行ったようだけど。
 このあと5月17日にホテル地下1階の通路で顔を合わせた。どちらからとはなく立ち話をして、「25日覚えてるか」みたいな。「あっ覚えてます、そうそう約束…」、「じゃあ今度ね」ということだったと思う。アルバイトの彼女と“表の職場”ではほとんど会わないけど、ロックアウトしてたころは従業員食堂やバックルーム、従業員入り口とかで会ったんでね。

 かまん座は、京都市上京区椹木町通釜座西入ル東裏辻町にあった焼き肉店。割安な内臓肉(もつ)をメニューにそろえた大衆的な焼き肉店を関西ではホルモン屋と呼ぶことがある。店は現存しない。
恒心館

逆鉾で大将が
 高野悦子と小山田さんは飲みに行くことになる。それに関する記述が翌日の1969年5月26日(月)にある。
 小山田さんと飲みにゆく。「逆鉾」でちゃんこなべを食べながら日本酒をのみ、「田園」でジンライムとオンザロック、「ろくよう」でおでんを食べて帰る。

 小山田:「逆鉾」の店で待ち合わせたんじゃなくて、高野さんと国際ホテルかどこかで待ち合わせしてからタクシーで店に連れて行ったと思う。自分は店の関係者に友人がいたので、もう逆鉾に何回か行ってたけど、彼女は店を知らないんで。店はすごい繁盛してたから、たぶん予約してたんじゃなかったかなあ。
木屋町通付近の地図店の入り口
 逆鉾の場面は覚えてる。女の子と行ったことなかったんで、相撲取りだった大将の逆鉾さんが、見るなり小指を立てて「コレか?」って聞いてきたから、相当冷や冷やした。自分も二十歳だったし、普通のことなんだろうけど、「コレか?」って言われて…ハハハ(笑)。「はい」とも「いいえ」とも言えなかった。彼女は誰が見てもかわいい子だったからね。
 店内では正面のいす席に座った。飲んで、ちゃんこ鍋を食べた。初対面では鍋料理は行かないだろうけど、以前にコーヒーを飲みながら2時間くらい話をしてラーメンも食べたから、そういう気持ちになったのかなあ。
飲み屋をはしご地下店入り口付近
 逆鉾のあとはもう歩いて、「田園」に行った。昔の洋酒喫茶、今で言うと居酒屋みたいな所でね。居酒屋よりはもっとしゃれてたけど。田園もメジャーな店で何回か行ってたから、この時にも行ったと思う。また歩いて「六曜社」。六曜社も地下の店に行ってたし。
 意気投合してなかったら3軒は行かないだろうな。いろんな話をしたけど、彼女もフォークソング好きだったみたいで、私もギターを弾いてフォークソングが好きだったんで、そういった話もしたかもしれない。
 帰りは必ず下宿まで送って行ったから。「おでんを食べて帰る」って書いてるでしょ。終わってタクシーで下宿まで送って行ったから「帰る」になってるんで。「相当酔ったらしい」って書いてるよね、少し酔ってはいたけど、そこまでは酔ってなかったと思う。

逆鉾・田園
ろくよう(六曜社)
中村と実際に歩いたルート

 〝オルグ〟としては順調だった。でも「二十歳の原点」を見る限り、彼女は非常に寂しいじゃない。さみしいし辛いし暗いし。4月、5月以降は楽しいことが一切ないね。何か唯一飲みに行ったのが私とだけでね。
  二人で会ったのはこれが最後。このあともたぶん何回か顔を合わせてる可能性はあるけど、別に取り立てて何もなくて。出てくるのは、もう6月15日かな。「職場反戦との連帯ももっている」とちょこっと書いてある。それくらいで、あとは「小山田」の名前も何も出てこないね。

 小山田さんは1969年5月31日(土)から6月9日(月)まで京都を離れ帰郷していたという。

同室だった中村

男子寮跡 小山田:中村と私は国際ホテル男子寮で4階403号室の同じ部屋だった。3人部屋だった。必要のない細かい話をしたことはなかったし、そういう話をするやつでもなかった。あいつと酒を飲んだこともなければ、メシを食ったことも全然なかった。あいつが酒を飲むのか全く知らない。たばこは吸わなかったと思う。でも1年くらい同じ部屋に住んでたんで、人柄とか性格とかはよく知ってる。
 中村は1968年10月1日に寮に入ってきた。“コックの修行をしたい”“ホテルのコックになりたい”ということで、途中入社の形で入ったと思う。だから彼はまず見習いでね、初めはもうパントリーでコーヒーとかジュースにケーキ、サラダとかを出す仕事なんで。そことウエイトレスは本当に近くて、ほとんど知ってたんじゃないかな。高野さんはメイン・ダイニングで仕事をして、それからビアガーデンだから、彼とは職場で会うことになるね。
 コックの服装も似合う〝イイ男〟でね。おしゃれで、ズボンを寝押ししてたから。語り口も乱暴でなくてソフトだったしね。

中村・京都国際ホテル男子寮
国際ホテル屋上ビヤガーデン

 1969年5月24日(日)の記述について小山田さんは言及した。
 中村よ。
 きのうも一昨日もテレしたがあなたはいなかった。私はあなたに話したいのだ。

小山田さんのノート 電話しても中村が出ないって書いてあるでしょ。当時の男子寮のシステムでは自分の名札の表・裏で「在寮」か「外出」か表示することになっていた。電話がかかってきて寮監さんが名札で「在寮」が見えたら呼び出してくれて、「外出」だったら「いません」ということになっていた。
 居る時は当然、「中村さん電話です」と呼び出し。あいつは最初のころは階下まで行って応対していた。でも後半のころは、もう居ても電話に出なくなったね。「それでいいのか?」と何回も聞いた。言葉通りじゃないけど、中村は「いいんだ」「一度遊んだ女やけど、しつこい女は嫌いや」というニュアンス。高野さんのことを「また、あの女だ」と。
 それで何回も「出なくていいのか?」と聞くと、あいつが「いや、もう放っておこう」といった感じだったことが何回もあった。これはもう確実に覚えてる。
 当時はわからなかった。でも「二十歳の原点」を読んで、今思えばかわいそうなことをしたんだなあと。

 6月23日のことも覚えてる。自分は前日の6月22日の勤務が「夜勤」で、23日は「明け」だった。「明け」で朝10時ころに寮へ帰って仮眠か何かするけど、寮へ帰った時に中村はいなかったからね。
 その日は部屋にずっといて、夜に労働組合の定例学習会があった。学習会は労働組合の事務所で午後7時くらいから約2時間のもので、私もUも含め6人が出てた。そのあとUは「アラスカ」へ行ったことになると思うが、私は寮に帰った。その時に中村はまだ帰ってなかったから。帰ってきたのは夜中だからね。

労働組合事務所

 高野さんとUさんが男子寮を訪ねてきた時、中村はいなかった。あいつは朝から寮にいなかった。自分はいたね。あいつはずっと出てて、帰ってきたのは夜中だった。2時くらいだと思う。
 「どこに行ってるのか」と聞いたことない。でも同じ部屋だから、何をしてるか生活態度から見て普段からわかるもんでしょう。彼女と会ってるのか、遊びに行っているのか、大体はわかるもんで…たぶん麻雀じゃなかったかなあと。すごい麻雀好きの男だったからね。
 あいつが居留守だったということはないね。本当に居なかったことだけは確実だ。

京都よ君は

小山田さん撮影 小山田:高野さんが自殺したことは6月24日にUから直接聞いた。男子寮でだったと思う。Uの声や体が震えていた。その後、何をしたか全く覚えていない。6月25日の自分の日記には「ショック・ショック…」という文字が残っている。
 彼女の死についてホテルで原因を調査することはなかった。職場で彼女の周囲にいた女性はわからないが、高野さんが亡くなった後も、中村との関係を知ってたのは私とUくらいだった。二人とも他言してないから、それ以外のホテルの男性社員で知ってた者はゼロだったと思う。
 ホテル中でうわさになったこともなかったし、もしうわさになっていれば中村自身が働きづらくなるはずだが、「二十歳の原点」の本が出るまで2年くらいあったけど、その間も彼はずっと仕事してたし。話は広がらなかったんじゃないか。
 高野さんが亡くなったあとに、私の所にも女子学生が訪ねてきた。女子学生が誰かは知らない。「二十歳の原点」の本が出る前で、「小山田」という名前が日記にあったからと思う。ローラー作戦みたいに全部聞いて回っていたと言われてる時に一人訪ねてきたんだと思う。

 中村との関係は女子アルバイトの一部の間でうわさ話が広がっていた。
レッドを借りた隣室・八木さん「あのころ荒れていた彼女」

 小山田さんが1969年8月から1970年7月まで書記長を務めた京都国際ホテル労働組合で、自らも編集に携わった組合の機関誌「無垢1号」(京都国際ホテル労働組合機関誌編集部、1971年)に『京都よ君は』と題する同年代女性Yの文章があった。
京都よ君は   京都よ君は
 京都─私に多くのことを教えてくれた。人を信じることの大切さ
 人と人とのつながりの、うすっぺらさとすばらしさ。
 自分達を認め合いながら、真実を与え合うことの尊さ
   人を愛することの喜び
 心のとびらに大きくノックして自由な自分たちの世界へ連れ出してくれた人達への感謝
 数えきれないほどの新しい経験
 おごり高ぶらない大自然の美しさとともに日本のすばらしさを呼び起こしてくれる─自分をせいいっぱい育ててゆけと言ってくれる。周りの全ての人達が幸せであれとも祈ってくれる。
   ありがとう
 でも─京都─は時として自分を解らなくしてしまう。でもでもありがとう。
   京都という〝君〟に逢えて…

 ※文章の引用は原文に忠実にしながら、誤字等の修正、若干の表記の手直しを行った。
 この文章を例に紹介しながら「何より失われがちな人間探究の舞台を若い人びとに提供しつづけたことだけでも、京都国際労組の功績は不滅といわなければならない」(加藤尚文『ホテルとはなにか』「ホテル」(三一書房、1972年))とされた。
小山田さん直筆メモ

 当時の同僚から「なかなかの二枚目で男気があった」と評される小山田さん。京都国際ホテル勤務当時の自らの記録を元にして、それぞれの状況に緻密な分析を加えながら振り返られたのが印象的だった。
 小山田さんは「まだ話は残っているので…」とほほえみながら後にした。残る話は改めて伝えることにしたい。
 ※注は本ホームページの文責で付した。

 2017年6月21日のインタビューなどを元に構成した。

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