高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点序章(昭和42年)
1967年11月18日(土)
 晴

 京都:晴・最低4.8℃最高19.4℃。

 西山さんが、八時十分の汽車で消費者大会に行くと聞いて、

 汽車は、国鉄東海道本線の20:20京都駅発東京行・急行「南紀・関西第2観光号」である。
☞1967年11月16日「七日の全国消費者大会のカンパ以来」
ちくしょう・西山さん「一生の戒めに」

 十七日 仁王門近くの観世会館で立命能を見る。

 仁王門は東山仁王門交差点のこと。京都市電東山線の停留場があった。

京都観世会館

 京都観世会館は、京都市左京区岡崎円勝寺町にある能楽堂。1958年にオープンした。現存する。
東山仁王門周辺図全景
 1984年に客席やロビー、アーケードなど大規模な改修が行われた。
玄関京都観世会館外観
 立命能は、学園祭のイベントの一つである立命館大学能楽部の公演である。
能舞台
 11月17日(金)午前10時から行われ、演目は能「船弁慶」「蝉丸」、舞囃子「高砂」「田村」、素謡「芦刈」「竹生島」、仕舞など。入場無料だった。

 その後四条通りを烏丸通りまでぶらつく

 四条通の祇園(祇園石段下)から四条烏丸までは京都の目抜き通りになっている。約1.6キロメートル。
四条通周辺図四条通西行
 京都市電四条線は1972年に廃止された。四条通は2015年に川端通から烏丸通間の歩道拡幅工事が完成した。

 その後、新聞ホールで全学フェスティバルを見る。
新聞ホール

 新聞ホールは、京都市中京区烏丸通夷川上ルの京都新聞社ビル旧本館4階にあったホール。1,000人収容。
烏丸二条京都新聞社ビル
 ホールがあった旧本館は現存せず、北館の南側部分になっている。
新聞ホール内部北館
 全学フェスティバルは、立命館大学学友会学園祭事務局が開いた学園祭のイベントの一つである。
 11月17日の午前10時~午後6時を第1部、午後6時から9時を第2部として、合唱、劇、合奏、落語などが繰り広げられた。「舞台と客席が手拍子などで一体となり、なごやかな一日だった」(「合唱など多彩に─全学フェスティバル」『立命館学園新聞昭和42年11月21日』(立命館大学新聞社、1967年))

 その途中で、勤労会館の「若者」の定期演奏会へ行った。

烏丸通拡大図 立命館大学合唱団「若者」は、立命館大学にあった合唱サークル。うたごえ運動(共産党系)に参加していた。
 第5回定期演奏会は、11月17日午後6時から「高なれ平和のうたごえ、友情と連帯のきずなを強め、迫りくる反動の嵐を打ち砕け」をテーマに開かれた。
 構成は第1部─うたう喜びをみんなのものに─「ピクニック」「春の声」、第2部─高なれ故郷の心─「八木節」「八丈島太鼓」、第3部─みんなと歌う会アコ合奏─、第4部─ベトナムの友と日本の仲間の心に結ぼう─「ベトナム解放区の春」、第5部─エピローグ─「陽気な仲間」。うたごえ運動の機関紙は「1000名をこえる学友の参加で成功をおさめ」(「立命大で1000名」『うたごえ新聞1968年2月1日』(日本のうたごえ実行委員会、1968年))たとしている。
☞1967年10月27日「うたごえ行動隊のエンジのはちまきやライトブルーのはちまき」
京都府立勤労会館

 三条の「珉珉」で古井さん、島田さん、飯田さんと食事をし、ビールをのんだ。

 飲んだのはサッポロビールである。
勤労会館から三条夜の店舗
 下の写真はサッポロ生ビール黒ラベルだが、当時は生ビールではなく、瓶のラベルが白地に赤い星だった。
サッポロビール
珉珉三条大橋店

 家に帰ったのが十一時三〇分ごろで、

 京阪・三条駅─京阪京津線─京阪山科駅。
三条から青雲寮
青雲寮

1967年11月20日(月)
 朝のうち小雨のち曇

 京都:曇時々雨・最高15.4℃最低7.4℃。雨は午前中で午前中でやんだ。

 学校へ行くなりBoxにいって、

部落研

 午後から「ひかりと使命」の編集委員会にでる。

 光と使命は、部落研の機関誌の一つである。

 子供会を終えて家に着いたのが十時。

 京都市壬生隣保館…西大路三条停留所-(京都市バス)-三条京阪前停留所…京阪・三条駅-(京阪京津線)-京阪山科駅…青雲寮
地域活動から家
京都市壬生隣保館

1967年11月22日(水)
 ぷろぜみにとうとうまにあわなくなって

☞1967年5月24日「今日のプロゼミと英語の予習を全然やっていないので」

 えふえむからの「ぼじょう」をきいているわたし

 NHK-FM午後0時15分~:映画音楽。

1967年11月23日(木)
 初霜

 京都市では11月23日(木)朝、1℃まで冷え込んで初氷が張った。当時の平年(11月18日)より5日遅く、前の年より1日遅かった。現在は初氷の平年が11月29日になっている。

 (FMでベートーベンの「皇帝」を聞いていた)、

 NHK-FM午後1時00分~:ステレオホームコンサート。《皇帝》は、ベートーヴェン作曲「ピアノ協奏曲第5番変ホ長調作品73」の別名。

1967年11月25日(土)
 風の強い日

 京都:曇時々雨・最低6.6℃最高13.4℃。最大瞬間風速11.2m。

 荒神口食堂で飯田さんと話していて、
荒神口食堂

 荒神口食堂は、京都市上京区荒神口通河原町東入ル上生洲町にあった食堂。
荒神口通地図荒神口食堂跡
 並んでいるおかずをトレー(盆)に取っていき、それにライスとみそ汁、漬物を付けるスタイルの定食店。サバの煮付けや粕汁が人気メニューで、うどんなど麺類や丼物もそろえていた。1967年当時は朝食が80円、昼食と夕食が90円で繁盛していた。
 当時の店の人の話では、作詞家の北山修(1946-)や映画監督の大森一樹(1952-)が京都府立医科大学生の時に出入りしていたほか、寺町通に自宅があった元法務大臣の田中伊三次(1906-1987)も顔を出したことがあるという。かつての荒神口通では立命館大学の学生だけでなく、近くにあった久邇洋裁学校の女子生徒も多く見かけたとのこと。
 建物は現存せず、別のレストランになっている。
☞1968年3月28日「飯田さんと一時間程話をして」

 二十歳の原点で登場する宮原さんは、荒神口食堂について「よく利用してた。安いし、いろいろ品数が取れる。ぼくは、決まった定食より、そういうのが好きだった。でも1969年の3月だったかなあ、恒心館のバリケードの時に、普段は中で食事してたけど、バリケードを出て荒神口食堂に入って朝食を注文したら、張り込んでたデカがどっと来て、そのまま中立売署に連れて行かれたことがあった」と話している。
振り切られた・宮原さん

 樺美智子の「徹底的学習と闘争の中でのみプチブル性はなくなっていく」

☞二十歳の原点ノート1966年2月10日「奥クンが理想としていた樺美智子さんの『人しれず微笑まん』も読める」

1967年11月27日(月)
 たんぽぽのうたをうたいます

 「たんぽぽの歌」は、高田敏子作詞・牧野統作曲で、主に小学生向けの合唱曲である。

 いんたあなしょなるもうたいます

☞二十歳の原点1969年4月29日「ああ インターナショナル」

 きりのかなたにもすきです
霧のかなたにジャケット 「霧のかなたに」は、なかにし礼作詞・中島安敏作曲で、黛ジュンが歌う曲である。
 シングル『霧のかなたに』は、東芝音楽工業(現・EMIミュージック・ジャパン)で1967年7月5日発売され、発売後の1967年11月2日から始まったオリコンの集計分では売上1.9万枚、オリコン最高23位。
☞二十歳の原点1969年5月12日「〝寂しかったから口づけしたの〟じゅんちゃんはうたう」
 ふなきかずおがすきでした
 いしざかこうじもすきでした

 石坂浩二(1941-)は俳優。1960年代からテレビドラマに出演している。
☞二十歳の原点ノート1963年12月28日「私は舟木一夫の歌う歌」

 のうそんぶらくのもんだいはとてもむずかしいです。

農村調査

1967年11月28日(火)
 雨

 京都:雨・最低9.7℃最高15.3℃。朝からずっと雨だった。

 学校に行ったのが五時半。家に着いたのが十二時、
 五時になると十一月末なのでもう薄暗い。三条大橋を歩いていて生活が乱れているなあとしみじみ思った。

この日の動き夕闇の三条大橋
 京都市の11月28日(火)の日没は午後4時47分。

 食堂で梅沢さんに民青加入を勧められたが、

 梅沢さんは、部落研の部員。
☞1967年7月16日「こくらさんと梅沢さんが明日の合宿のことを話しにきてくれた」
民青

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