京都:曇・最低19.6℃最高29.2℃。
阪急・松尾駅(現・松尾大社駅)から阪急嵐山線下り普通・桂行きに乗った。桂で阪急京都本線上り・河原町行きに乗り換える。
衣笠は立命館大学衣笠キャンパスのことである。
☞ワンゲル部
近畿放送1140kHz(現・KBS京都1143kHz)7月1日(月)午後10時30分~11時00分:ムーディ・ナイト・ギオン~加藤登紀子ショー~
☞二十歳の原点1969年6月22日「琵琶湖にいくことになった」
☞比良山地
「きじ打ち」は、登山の隠語で用を足すことを言う。
「夏休みのアルバイト募集が今年もきているが、傾向として6月は印刷手伝、染色手伝、反物整理運搬、交通調査などがあり、7、8月に入ってからは染色、氷、飲料水などの配達、調査、中元の職種に求人が多くなっている。
昨年の状況を見ると、6月には420(女子18)件、8月に123(女子8)件あり、人員としては6月に157(女子47)人、7月に910(女子14)人、8月に370(女子14)人となっている。またその募集に対して斡旋された人員は、6月に1,154(女子35)人、7月に822(女子11)人、8月に162(女子10)人にのぼっている。その求人の職業内容は、調査478人、祭礼233人、工場内雑役274人などとなっている」(「夏休みのアルバイト募集盛ん」『立命館学園新聞昭和43年7月1日』(立命館大学新聞社、1968年))。
現在、立命館大学ではアルバイト情報ネットワークの機関に参加する形を採り、大学の直接紹介は神社仏閣における祭礼行事のアルバイトだけ扱っている。
京都:大雨・最高22.7℃最低20.0℃。
日本写真印刷(現・NISSHA)は京都市中京区四条通中新道西入ルに本社がある大手印刷会社。美術印刷が発祥だが、現在は電子部品が主力になっている。
交通費(京都市バス往復60円)が支給されるが、実際には通学定期券を利用して阪急・西院駅から四条通を歩いて通ったとみられる。
☞阪急・西院駅
「人間であることに徹せよ!」から「相当へたである。」までの日記原文の写しが、『二十歳の原点序章』単行本(新潮社、1974年)の見返し部分に掲載されている。それで見る限り、「自主性・主体性のある人間になれ!」の記述は「自立性・主体性のある人間になれ!」と読み取れる。
京都:曇時々雨・最低19.5℃最高25.8℃。
☞二十歳の原点1969年2月6日「酔いながら牧野さんのところへいく」
☞二十歳の原点1969年1月15日「ここ二、三日は「魅せられた魂」を読むのについやされた」
京都:曇・最低21.4℃最高29.4℃。1968年の近畿地方の梅雨入りは6月13日ごろ、梅雨明けは7月17日ごろ。
夏合宿の山行について高野悦子が両親の許しを得た場面について、原田方下宿の友人は「夏の合宿でアルプスへ行くとか言っていたとき、お母さんに電話で「…大丈夫よ、大勢で行くんだし経験済の先輩も一緒なんだから」と説得しているのをきいて「ウマクいった?」と尋ねると、彼女はニヤリ─」(「手紙(高野家宛)─高野悦子さんを囲んで」『那須文学第10号』(那須文学社、1971年))と回想している。
☞原田方
京都:曇・最低21.5℃最高29.3℃。
立命館大学では1968年度、全学部とも夏期休暇が7月11日(木)~9月10日(火)だった。
☞山小屋
瀬音がするのは、山小屋東側にある小さな谷である。この谷から取水して山小屋で利用している。
↓「谷川の瀬音」を聴いてみよう。
☞二十歳の原点1969年1月30日「片岡さんが来た」
☞下宿に遊びに来た・木下さん「コンプレックスを感じた」
山小屋行きをまとめると以下の通り5回になる。
① 5月11日(土)~12日(日)
② 5月25日(土)~26日(日)
③ 7月11日(木)~12日(金)
④10月12日(土)~13日(日)
⑤12月13日(金)~15日(日)
「背稜」は誤りで、日記の記述は「芹生」を指すとみられる。
☞芹生
雲ケ畑は京都市北区の北部で旧・京都府雲ケ畑村だった地域である。京都バスの京阪三条発雲ケ畑方面行き路線があって、ハイキングでの利用者が多かった。
雲ケ畑から桟敷ヶ岳へのコースは以下の3ルートがあった。
①岩屋山停留所で下車して、岩屋山志明院(岩屋不動)に向かって右側の「桟敷岳登山口」を入って薬師峠まで登り、稜線に沿って北上し岩茸山(岩竹山)を通り、桟敷ヶ岳頂上に至るルートである(右上地図の青破線)。途中の展望はほとんどないが、初心者向けでやさしく、最もポピュラーなルートだった。ただ岩屋山停留所まで行くのは1日2本しかなく、残りは岩屋橋停留所(現・雲ケ畑岩屋橋停留所)止まりだった。
②岩屋橋停留所(現・雲ケ畑岩屋橋停留所)で下車して、橋を渡って車道を徒歩で岩屋山停留所まで行き、そこから①と同じルートをたどることもできた。登りが長くなるが、岩屋橋停留所止まりのバスでも行けることになる。
③岩屋橋停留所(現・雲ケ畑岩屋橋停留所)で下車して、橋を渡らず徒歩で祖父谷と呼ばれる谷あいを進み、「桟敷岳登山道」(現・桟敷ヶ岳登り口)を入って登り、桟敷ヶ岳頂上に至るルートである。古くからあるが、下りに利用されることが多かった。
このうち①または②だったとみられる。
2012年に京都バスの雲ケ畑方面行き路線が廃止され、現在は京都市が「雲ケ畑バス~もくもく号~」を京都市営地下鉄・北大路駅前と雲ケ畑岩屋橋間で運行している。
桟敷ヶ岳は京都市北区大森大谷に頂上がある標高895.9m(現・895.7m)の山である。京都北山を代表する山の一つ。
現在は頂上の南側手前に関西電力の送電線鉄塔があるが、当時はなかった。
「熊笹をかきわけて行くと、ポッカリ桟敷岳の頂上に出る。平らな頂上で東の方に展望が得られる。この界隈での最高峰であるだけに、木に登ればすばらしい展望が得られる」(北山クラブ編「桟敷岳」『京都周辺の山々』(創元社、1966年))。「鞍部を一度下って登った所に895.9米の三角点がある。ここが桟敷の頂上だ。この頂上からの展望は南東方に雑木を切り払ってある所から、京都の市街が一望のもとに見渡せる。加茂川の銀の帯がまっすぐにこちらに向って走ってくる」(平安山岳会編「桟敷岳」『京都北山』(東林書房、1962年))。
「桟敷岳はその昔惟喬親皇が桟敷を山頂に作られて都をご覧になったとか、相撲をご覧になったとかという伝説の山」(森本次男「祖父谷峠の周辺」『京都北山と丹波高原』アルパイン・ガイド45(山と渓谷社、1964年))とされる。
現在は山頂付近にクマザサはない。
灰屋川は京都府京北町芹生(現・京都市右京区京北芹生町)から北に京北町上黒田(現・京都市右京区京北上黒田町)まで流れる桂川の支流。桂川の上流にあたる大堰川に注ぐ。
地図下(国土地理院1967年)では京北町灰屋(現・京都市右京区京北灰屋町)までの間を「萩屋川」と表記しているが、当時から一般的に「灰屋川」と呼んでいた。現在の国土地理院地図ではこの間も「灰屋川」と表記している。
ルートとしては桟敷ヶ岳の頂上から祖父谷に下って分岐(①)で祖父谷川を越え、狼峠(②)まで上った。「桟敷の登り口から20分足らずで右手、向う岸にやや平坦な場所があり、杉林となっている。そして急な登り道がついている。これが狼峠の入口である。大えご橋から、ここまで、右側に開けた場所はないからすぐわかるであろう。医王沢まで15分位の短い峠である」(平安山岳会編「祖父谷・祖父谷峠」『京都北山』(東林書房、1962年)))。
狼峠から下って医王沢への合流(③)後、医王沢沿い(④)を進んだ。医王沢は現在、「魚谷」(いおだに)と呼ばれている。
「狼峠という峠は恐ろしい名に似ず小さな峠で、杉の樹林の中に熊笹の生いしげった暗い峠だ」
「峠を下ると医王沢という谷に出る。この谷は北山では美しい谷だが木馬の多い谷だ。木馬道とか杉の林の中の峠の登り口などと私は書いているが、はたしてこの杉はいつまであることか。用がすめば取り去るか、自然にくさってしまう木馬道などというものは、道の案内になるものだろうか」(森本次男「祖父谷峠の周辺」『京都北山と丹波高原』アルパイン・ガイド45(山と渓谷社、1964年)とされていた。
それがすでに1968年より前に、「つい最近まで医王沢の木馬道は有名であった。しかし、かつての木馬が朽ちはてたいまは、ワイヤー・ケーブルを用いた木材の搬出が行なわれている。多分、再び木馬道が作られることはあるまい。医王沢の木馬はそれを歩いた人たちの思い出の中にのみ生き残ることだろう。医王沢の奥に山林労務者の飯場があるので歩きやすい小道が作られ、通信用のビニールコードが道のそばを走っている」(北山クラブ編「魚谷峠から石仏峠へ」『京都周辺の山々』(創元社、1966年))状況になっていた。
医王谷からの分岐(⑤)では左方向へ進み、灰屋側支流沿い(⑥)のルートを取った。「出合から左岸に渡ると木馬道になる。この谷も北山杉が美しい。杉皮ぶきの小屋を見るあたりから両岸がせまってくるが、しばらくで明るい灰屋川の出合につく。後はトラックの通る良い道をわずかで芹生の里に入る」(日本登山協会編「京都北山」『関西の山300コース』(山と渓谷社、1964年))。
医王谷からの分岐はかつては現在(⑤)よりも東寄りの地点にあった。このルートは現存するものの、⑥付近より先の沢で倒木が続いていて、かなり悪路になっている。
灰屋川本流出合い(⑦)から崖を上って付近の車道(⑧)に着いた。桟敷ヶ岳山頂から灰屋川出合いまでの標準タイムは当時約2時間で、現在は約2時間30分になっている。
車道を東へ進み、灰屋川本流(⑨)を右に見ながら、芹生の里を代表するかやぶき屋根の建物(⑩)の横を通って寺子屋橋方向に向かった。
日記に登場する「芹生」は、京都府京北町芹生(現・京都市右京区京北芹生町)で集落がある地区(芹生の里)を意味する。灰屋川沿いにある。芹生は正しくは「せりょう」と読むが、当時は「せりう」と読むこともあった。
当時は「戸数は10戸たらず、最も北山的な山里であろう」(創元社編集部編「花背旧峠から魚谷峠へ」『関西ハイキングガイド』(創元社、1966年))とされた。「適度に山奥であり、カッチン(鳥の一種)、アマゴ、ヤマイモがとれ、イタドリのつけものが名物で、しかも、適当に歴史と伝説を秘めて〝京都くささ〟を保っているからだろう」(毎日新聞京都支局編「芹生の里」『京の里・北山』(淡交新社、1966年))。
後にNHKテレビの連続ドラマ『花ぐるま』(1974年4月~1975年3月放送)の舞台の一つとなった。「ドラマは、京都・貴船の奥、山深い芹生の里で、明るくすこやかに育ったひとりの清楚な少女・水城花江(島田陽子)が、出生の秘密を知って生みの親のもとにもどりやがて富豪の息子と結婚、女として成長していく半生を描くもの」(NHK編「花ぐるま」『NHKグラフ昭和49年4月号』(NHKサービスセンター、1974年))で、原作・書き下ろし小説では「芹生は京の北、スキー場で名高い花背から、歩いて2時間近く、灰屋川の谷に臨む山村である」(田中澄江『花ぐるま』(講談社、1974年))と紹介されている。
灰屋川出合い(⑧)から芹生までの標準タイムは当時約25分で、現在は約30分。
☞1968年12月8日「山小屋に入るときの芹生の里のお風呂を燃やしている煙を思い出した」
芹生の橋とは、芹生の里で灰屋川にかかる寺子屋橋のことである。車道として1963年に架けられ、「名前のイメージとはかけはなれたモダンな白い橋である」(北山クラブ編「芹生から旧花背峠へ」『京都周辺の山々』(創元社、1966年))。
寺子屋橋付近に大きな道しるべが立てられ、「府教委指定ハイキングコース─芹生(せりう)─北山銀座」「←雲ヶ畑…周山、黒田、灰屋」「↓芹生峠…貴船、京都」「→花背…菅原伝授手習鑑・寺小屋史跡500m」などと書かれていた。その真下にある縦長の石には「川上三町、源蔵屋敷」という文字が彫られている。道しるべの立つ住宅には公衆電話もあった。
「芹生付近は手軽に味あえる北山歩きの気分があるので、この頃は随分沢山の人が入っているらしい」「芹生に入る橋のたもとの指導標に「北山銀座」とあったのには驚いた。いわゆるハイキングのシーズンには銀座という感じのするほどハイカーが通るにちがいない。まことに山深い山村だと思いながら、ただ一人トボトボと千木をいただいた藁屋根の山家の間の小路を歩いていた昔がうそのように思われる」(森本次男「芹生とその付近」『京都北山と丹波高原』アルパイン・ガイド45(山と渓谷社、1964年)。
現在の道しるべの標示は「←至る・掬水庵・灰屋・黒田・周山経由・京都市内/至る・芹生ロッジ・寺子屋跡・雲取山花背・花背(旧花背峠)→」と「左、山国を経て周山に至る─/右、花背に至る」という2本になっている。
寺子屋橋付近から灰屋川に沿いの集落(⑪)を抜けると、川を隔てて左側に分教場跡(⑫)がある。分教場は京都府京北町立黒田小学校・周山中学校の芹生分校だったが、後に児童・生徒数の減少などに伴い休校、1999年に正式に閉校した。建物は現存している。分教場の横には八幡神社があり、1959年に建立された斎藤梅治郎の像が残っている。
さらに川をさかのぼって旧花背峠への分岐(⑬)を左前に進めば、間もなく右側に少し広い場所があって、そこに勢竜天満宮(せりょうてんまんぐう)がある(⑭)。寺子屋跡とも呼ばれている。歌舞伎「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋の段」に登場する寺子屋・武部源蔵屋敷跡にあたると地元では伝えられている場所である。「源蔵旧跡は小さな社になっており、美しく清掃された敷地の中に、ホコラと石碑がある」(北山クラブ編「芹生から旧花背峠へ」『京都周辺の山々』(創元社、1966年))。分教場にいた教師が「芹生史跡保存会」を作って各方面に呼びかけるなど尽力し、1943年に記念碑を建て勢竜天満宮を創建した。記念碑には「武部源蔵史蹟─菅原のすりおく墨のいつまでも硯の水のつきぬかぎりは」と書かれている。勢竜天満宮は当時のたたずまいを残し、また記念碑は原形をとどめて現存している。
三ノ谷出合い(⑮)を過ぎ、二ノ谷出合い(⑯)から谷を上る。現在は林道が四ノ谷出合い先から倒木が多くなっており、三ノ谷出合いのゲートからは相当荒れている。
寺子屋橋付近から、山小屋がある谷の下の二ノ谷出合(⑯)までだけで標準タイムは当時約50分で、現在は約45分である。寺子屋橋付近から山小屋まで45分余りで着くのは速いペースと言える。
二ノ谷の入り口から「谷にはいる道がついている。この道を約10分くらい歩くと、赤い屋根にコバルト・ブルーの、立命館大学ワンダーフォーゲル部のブロックの山小屋が見えてくる。谷のひらけたよい場所に作られた、よい小屋である(創元社編集部編「雲取山」『関西の山々』(創元社、1968年))。
大キスは大型キスリングザックを意味するワンゲル部内での略語。キスリングザックは両サイドに大きなポケットがある横長のザックで、綿帆布に革ベルトでできていた。1960年代の学生の登山で多く利用された。ザックの横幅が広いことから、このザックを背負った登山姿の若者は「カニ族」とも呼ばれた。1980年代以降、ザックは縦型が主流になっている。
ワンゲル部の合宿では、いくつものパーティ=グループを組んで行動し、最終的に「集結地」に集まるスタイルを採っていた。各グループにアルファベットの名称を付けることもあった。
☞1968年6月30日「予備合宿で比良にいってきたが」
☞パーワン
京都:曇・最低21.2℃最高31.0℃。 午前中は晴れていたが、午後から雲が広がった。