高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 2月 6日(木)②

下宿に遊びに来た・木下さん「コンプレックスを感じた」

 高野悦子の原田方の下宿を訪ねてきた一人に木下さんがいる。
 木下さんが遊びにきたとき、

 『二十歳の原点序章』と『二十歳の原点』に登場する木下さんは、立命館大学ワンゲル部の関係者ではただ一人、高野悦子の下宿を訪れたことが確認できる人物である。
 高野悦子より1学年下の1年生(1968年入学)だった木下さんは当時、ワンゲル部で数少ない女子部員の一人だった。(旧姓)木下さんに話を聞いた。


〝まっさら〟で親しく

入部当初の写真 木下:『二十歳の原点』の本にちらっと出てくるでしょう。高野さんの下宿に遊びに行ったのが書いてあったんですよ。「木下」ってなってました。
 私は1回生でワンゲルに入ってもすぐに活動には行かなくて、何回も誘いがあって夏合宿より前くらいから行きだしました。だから高野さんが2回生として参加した1968年の新人合宿も、自分はすっ飛ばして行ってないんです。
 最初に出会ったのは定かではありません。でも高野さんは2回生で入ってきたし、1学年下の私も入部したばかりで、2人とも〝まっさら〟でした。同じ日本史学専攻ということもあって、ワンゲルの中で親しくなったんじゃないかと思います。
 高野さんはすごくかわいらしかったです。“フランス人形みたい”という印象でしたので、出会った時は髪が長かったかもしれませんね。

新人合宿

 高野悦子について木下さんがはっきり記憶している最初のシーンは『二十歳の原点序章』1968年6月11日(火)の記述だった。
 コンパで酔った。
 「上海」から帰宅するまで、熊谷さんや池田さん、泉さんが見送ってきてくれた。

 時期からみて新入生歓迎ではなかったと思いますが、祇園の八坂神社を少し南に行った所でコンパをした時です。
 高野さんが酔ったことがありました。帰り際に店の座敷に上がる玄関、ロビーのような所でものすごい酔っていた場面を覚えています。
高野悦子が酔った店地図すごい酔った店の跡
 “あーっ”と思いました。とても一人で歩けないような状態でした。高野さんの下宿と同じ方面の人と一緒に帰ったんじゃないでしょうか。私は下宿が元田中で別の方向でした。

上海祇園店


“ずいぶん強い人だな”
 高野悦子と木下さんの活動は『二十歳の原点序章』1968年7月11日(火)にルートの詳細が残されている。
 石油ランプの燈で微かに照らされた食卓には、私、木下さん、望月さん、片岡さん(四回生B)の四人が灯を前にして思い思いのことをしている。
 木下さんと二人の個人ワンデルン。

 木下:高野さんと一度、2人だけで山に行ったことがあるんですよ。京都の北山に桟敷ヶ岳という山がありますが、一緒にその桟敷に行って、それからワンゲルの山小屋に入りました。
 「行かない?」って誘われたから一緒になったんでしょう。高野さんは先輩にあたるから、自分から誘うことはなかったと思います。高野さんは現役で私は一浪してるから年齢は同じですが、やっぱり大学生になると年齢じゃなくて学年ですから。
 高野さんの同学年には先に1回生から入部していた梅沢さんや木村さんがいましたけど、高野さんも私もワンゲルに入って間もないということで行ったんじゃないかなあと思います。

仕事にいく途中会った・梅沢さん
盲腸手術・木村さん「追いコンで難しい話を」

2人だけの山行のルート
 バスで雲ケ畑の岩屋不動くらいまで入って、その辺りから桟敷に登りました。それからどこか途中で木道か木道跡みたいな道をずっと下りました。
キイチゴを摘んだ道付近 7月なら桟敷頂上への道でキイチゴを摘むということもあったかもしれません。私も田舎育ちでそういったのを採って食べたことはありましたから。合宿でもないし、気ままでした。

 ルート上では狼峠付近から灰屋川本流出合い付近までの間に木馬道または木馬道跡があった。
雲ケ畑 桟敷ヶ岳

 でもこの時の彼女は体力があって、付いて行くのが大変でした。強かったですよ(笑)。彼女は細いし小柄なのに“ずいぶん強い人だな”って思いました。やっぱり高校時代にバスケットボールをしたりして、ある程度身に付いていたからでしょうね。
 私なんか大学に入って初めてワンゲルに入ったので、それまで山歩きとかそんなのを全然してませんでした。2人だったし、合宿でなくて〝遊び〟だから良かったですけど。

☞二十歳の原点ノート1964年7月22日「カッコはバスケットをするようになってから」

先に先輩がいた山小屋 芹生に下りて、山小屋に入ったんですが、すでに先輩がいたわけです。待ち合わせしてたんじゃなくて、山小屋に入ったら人がいたという感じでした。
 私が1回生の時で4回生か3回生の人がたぶん2人だったんじゃないかなあ…。確か一人が片岡さんでした。山小屋には自由に書ける「山小屋ノート」が置いてあって何か書いたと思います。山小屋には1泊だけしました。
 一緒に山に行ったのは、この一回きりでした。合宿は夏合宿の八ヶ岳が初めてで高野さんとは集結地では同じでしたが、そこまでは別のパーティーで奥秩父に行きました。
 だけど私は山小屋にもそんなに入らなかったし、自分だけでということはなかったですから、ワンゲルで個人的にどこかに一緒に行ったというのは高野さんしかいません。

山小屋
夏合宿

  広小路に来てる限りは会ったことがあると思いますけど、やっぱり同じ専攻でも学年が違うと時間割も違うので、講義が一緒ということはありませんでした。とにかく学生数が多くて同じ教室にいても気付かないことがあったくらいです。
 ワンゲルは清心館の階段を上がっていって屋上に出る手前の踊り場をボックス代わりのスペースにしていました。みんなたむろしていて、そこに行けば誰かいました。それか、集まって喫茶店に行くとか、連絡を模造紙に書いて貼って、そこで集まるという感じでした。
 だけど自分が一緒にグループになって喫茶店に行くのは同学年の人で、高野さんとは清心館のスペースであまり合わなかったし、一緒に喫茶店に行ってダベッたりという記憶は残ってないです。同学年の友達とは普段から周辺のいろんな喫茶店に行ってダベってましたが、一つ上の回生の人とは合宿前のミーティングくらいしか行きませんでした。

ワンゲル部

コンプレックスを感じた
 1969年1月7日(火)のワンゲル女子の新年会について木下さんはかすかな記憶だという。
 これから、ワンゲルの女の子の新年会に出かける。(五・四五PM)

 木下:内山さんの下宿に行ったことがありましたから、その時が「新年会」だったんでしょうか。高野さんより1学年上に内山さんという女子部員がいて、割と世話好きな方だったんです。泊まった記憶がありますから、その「新年会」の晩かもしれないですね。

 立命館大学での紛争が激しくなり、機動隊の学内立ち入りの可能性が浮上した1969年2月6日(木)の記述に木下さん来訪がある。
 木下さんが遊びにきたとき、私の精神生活の優位さを感じたが、またつまらない卑小さも感じた。

 高野さんの下宿に突然ポッと行くわけないですからね。
 広小路キャンパスと梨木神社の間の寺町通をまっすぐ南に下がったら京都市役所のあたりに出ます。その通りに「再会」という喫茶店がありました。そこで高野さんと会ってコーヒーを飲んだ場面を覚えてます。店で待ち合わせしたのではなくて、たまたま広小路で一緒になったから、寺町通を話しながら歩いて喫茶店に行ったんじゃないかなあ。2人だけでした。
 喫茶店の会話の中で高野さんの下宿に行く話が出たんだと思います。

立命館大学広小路キャンパス

再会

 再会は、京都市中京区寺町通御池上ル上本能寺前町にあった喫茶店。
喫茶店再会地図喫茶店再会跡
 建物は現存せず、ビルになっている。

 高野さんの下宿に遊びに行きました。松尾の方でした。神社がありました。松尾駅まで迎えに来てくれたような気がします。部屋まで行きました。そこでどんな話をしたかまでは…。
訪ねた下宿の近くにあった神社訪ねた部屋
 高野さんは何て言いましょうか、政治活動とでも言うのかしら、若いのにすごく真剣に考えていて、行動を起こすような人でしょう。それに比べて自分はもう本当に〝ノンポリ〟って言うのか、政治活動に興味がなくてほとんど知らなかったし、そういうのに傾く信条も理解できません。だから〝全く考えられない〟〝興味がない〟自分ということで、高野さんにコンプレックスを感じたと思います。そういったことがありました。
 まあ高野さんに見限られたように(笑)、結局「精神生活」が合わないと思われたんじゃないでしょうか。

原田方

 だけど、このあと私はもう本に登場しません。自分からは高野さんがある時から見かけなくなったと言いますか、ワンゲルに出てこなくなりました。広小路のワンゲルのスペースにも来なかったです。最後のころは本当に出てきませんでした。専攻が同じでしたけど、大学でも会わなくなりました。高野さんが学生運動の活動に参加している姿を見たこともありません。だって私はそのような場に自分から行きませんでしたから。
 とにかくあの時代は学校が封鎖されて、目の前の河原町通なんかデモ隊がジグザグデモして機動隊がいてというのが普通の状態でした。高野さんが実際にデモに加わっているのを直接見たことはないし、もう見たってわからないでしょう。みんなヘルメットをかぶって顔をタオルで覆っていて誰が誰だかわかりません。

 亡くなったことを知ったのは、もう亡くなった日からすぐで、日中に学校で聞いたと思います。どこで誰からだったんでしょうか…ワンゲルのスペースにいる時でしょうか。
 ショックでした。やっぱり同じワンゲルで学年も近いですし。そんな自分で死ぬなんて考えもしない年齢でした。

 『二十歳の原点』の本が出た時に買って、一度だけ読みました。今も家の中にあります。当時はすごく話題になりました。働いていた時、本が出てから時間が経ってなくて、勤め先で「知ってる?」って聞かれたら「知ってる。同じサークルだった」って話したりはしました。ただあまりにもてはやされてて少し引く所もあって、自分から高野さんについて話したことはなかったです。

 最近でも時々取り上げられて書名を見かけます。立命と関係のない人が本に関する投稿をしたり、書店に行ったら本があったりしてびっくりします。若い人が興味を持ったり、何かで見つけた人がのめり込んだりすることがあるのかもしれません。でも今は私たちの年代でも高野悦子さんの名前が心に残っている人は限られるでしょう。当時同じように学生だったり、京都にいたりしてたらあるかもしれませんが。
 自分のように同じ時期に同じサークルにいてもだんだんと…。ただあのワンゲルに入って個人的にどこかへ一緒に行ったのは高野さんしかいません。やっぱり今もふと思い出したりします。

 ワンゲル部員で集まったことがある店に「みか」「じぁるだん」「クイン」などがあったと言う。
みか

 みかは、京都市上京区荒神口通河原町東入ル亀屋町にあった喫茶店。「甘党みか」と表示していた。
甘党みか地図甘党みか跡
 喫茶・グリル店「皐月」と同じ建物にあった。建物は現存せず、マンションになっている。
皐月(さつき)

じぁるだん

 じぁるだんは、京都市上京区今出川通河原町西入ル大宮町にあった喫茶・スナック。
じぁるだん地図じぁるだん跡
 パブ、中華料理店、マージャン店なども入る地上4階地下1階のビルの1階にあり、全館午前2時まで営業していた。ビルは現存せず、マンションになっている。

クイン

 クインは、京都市上京区河原町通今出川角梶井町にあった喫茶店。
クイン地図クイン跡
 クインは当時、京都市下京区七条通烏丸西入ル東境町にも店があった。
純喫茶クインのマッチ
 現在はパチンコ店の一部になっている。

 木下さんはこのほかシアンクレールに行ったこともあったという。
シアンクレール

 木下さんは接点がそんなに多くないと強調されたが、ワンゲル部で高野悦子が2人だけで活動をともにした唯一の人物である。木下さんも高野悦子が唯一だった。「大学の同級生の名前さえもうあまり覚えてない…」としながら、2人だけの場面はどれも鮮明に記憶されていたのが印象的だった。
 ※注は本ホームページの文責で付した。

 インタビューは2018年2月22日に行った。

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