京都:晴・最低10.7℃最高27.2℃。朝から雲が少なく晴れた。
二条城前広場での第40回京都メーデーの開始が午前9時15分であることから、会場へのデモ行進の時間を逆算しての広小路キャンパスでの集合時間である。
メーデーのデモの終点(解散ポイント)である。
四・二六、四・二八に参加したことなどから、バイトの出勤日が減ってしまった。
那須文学社版の記述。以下、「授業料六四〇〇円払うのやめた」につながる。授業料については、バイトから帰宅後である。
日記の記述は64,000円とみられる。内訳は授業料47,000円と施設費17,000円。
このメモには日付がないので記された日付の特定ができない。ただし「三回生」とあるので4月以降である。
高野悦子は恒心館へ行ってヘルメットをかぶり、午前8時30分に立命館大学広小路キャンパス集会に参加した。ヘルメットは個人専用ではなく、文闘委など活動拠点の部屋に置いてあり、共用するのが一般的だった。
集会ではデモ行進のルートや、あくまで〝闘う姿勢〟で臨むという行動方針の確認が短く行われたとみられる。
川口さん、飯田さん、岡本さんは日本史学専攻で同級生(1967年入学)の女子で、3人は1年生の時に同じクラス(高野悦子とは別)に属し、いずれも下宿生活をしていた。全共闘だった同級生男子は「3人はセットだった。川口と飯田は元気のいい〝にぎやかな〟タイプで、岡本は前面に出ないスマートな感じがしたね。ただ恒心館バリケードのころ、3人が高野悦子に近かったとまでは言えなかったと思う」と振り返る。
☞大学同級生女性・岡本さん「高野悦子さんと日本史専攻」
立命館大学全共闘約150人は恒心館を出発し、広小路キャンパスで大学側主催で開かれていたメーデー集会周辺でデモをして小競り合いになったあと、河原町通、今出川通、堀川通をデモ行進して、二条城前広場に向った。
二条城前広場で開かれた総評系のメーデーの集会には、労働組合や学生など約8万人が参加。蜷川京都府知事と富井京都市長のメッセージが読み上げられた。
この集会には共産党系の学生や団体も参加した。
集会の参加者は、午前10時から北・中・南の3つのコースに分かれてデモ行進をした。
立命館大学全共闘などの学生は、中コース(河原町御池経由祇園石段下)の最後尾に付いたが、「「安保粉砕、闘争勝利」を叫びながら、一般デモ隊列をかけ足で追い越し、中央車線におどり出て、御池いっぱいにフランスデモを始めたため、一時、同通りの交通は完全にストップ」(『京都新聞昭和44年5月1日(夕刊)』(京都新聞社、1969年))させたりした。
河原町通に入り、河原町三条下ル付近で機動隊による並進規制(サンドイッチ規制)が行われたが、円山公園前でジグザグデモを行って、円山公園で集会後解散となった。
「インター」ではなく「インターン」とみられる。順序通りの行進の意味である。
円山公園は、京都市東山区円山町にある京都市の公園(地図上)。知恩院の南側、八坂神社の東側に隣接する。1866年オープンで京都市最古の公園である。園内の中央にあるシダレザクラ、通称「祇園の夜桜」が有名。
「グリーン」は、京都市上京区河原町通荒神口角荒神町にあった喫茶店「テラス グリーン」(写真)のことである。
コーヒー等に加えてカレーやサンドイッチなどが主なメニュー。また当時、店内にはジュークボックスがあった。
テラス・グリーンは荒神口通をはさんで、シアンクレールの向いの位置にあたる。
建物は現存せず、ビルになっている。
全共闘で高野悦子の日本史学専攻の同級生(1967年入学)だった男性は、「高野が恒心館に来た時に中核派の宮原がくっついていて“うっとうしかった”ね。高野は僕らと同じ学年だから“もっと顔を出せばいいのに”という思いはあったけど、宮原がくっついてた。よく見たね、喫茶店かどっかでオルグやってるところも見たことある。中核派はオルグだとかいろんなことをやってたと思うけど、宮原はもっと責任を感じてもいいような気がする」と指摘する。
☞1969年2月17日「十数人の中核が雨にぬれ意気消沈した様子でデモっており」
☞振り切られた・宮原さん「斜めのヘルメットでべそをかいてた彼女」
☞シアンクレール
高野悦子の祖父(父方)は栃木県西那須野村(現・那須塩原市)の出身。
予定を記述しているこの日の動きについては、5月3日付の項で述べる。
☞1969年5月3日「そのあと学校へ行って」
那須文学社版の記述。以下、「私は私の歴史をさぐっていこう」に続く。
隣りに座った男の人は、小山田である。
「職場反戦」は、主にベトナム戦争反対を掲げた労働者の団体である反戦青年委員会のうち、各職場の青年部による組織である。
反戦青年委員会は全国レベルでは1965年、日韓基本条約批准に反対するために、社会党や総評(日本労働組合総評議会)・総評系労働組合が呼びかけて結成された。京都反戦青年委員会は総評京都地評(京都地方評議会)に事務局を置き、「職場反戦」に加え、個人加盟の「地区反戦」を府下で洛北、洛西、洛南など9つ有していた。「職場反戦」と「地区反戦」は京都地区反戦連絡会議を作り、機関紙「反戦通信」を発行していた。
☞1969年5月12日「あそこの職場反戦の小山田君とサテンで「闘い」について話しました」
☞従業員食堂
☞飲みにいった・小山田さん「逆鉾で大将が」
高野悦子が当時出入りした京都国際ホテル労働組合事務所は、京都市中京区油小路通竹屋町下ル橋本町にあった。建物は現存せず、駐車場になっている。
「日常」ではなく、「日帝」の取り囲んだ空間に生きているという意味とみられる。
読んだ新聞は、『朝日新聞(大阪本社)1969年5月2日』(朝日新聞社、1969年)である。
「郵政省は、41年の通常国会で審議未了となった放送法、電波法各改正案を今国会にあらためて提出したい意向だったが、同改正案について自民党内の意見調整がつく見通しがないため、提出は見送られる情勢となった」(「今国会は見送り─放送法・電波法改正案の提出」『朝日新聞(大阪本社)1969年5月2日』(朝日新聞社、1969年))。
「近畿の各市で、最近ゴミ集め、くみとり、国保の集金、水道修理などの仕事をそっくり業者に頼むところがふえた。東大阪市など、こうした〝準市職員〟なみの民間従業員がざっと600人。まるがかえの市職員をあてるより安上り。これを自治省は「行政の合理化策」というが、心配なのは市民サービスの質低下。都市行政の下請けが広がるにつれて問題となりそうだ」(「都市行政の下請け広がる」『朝日新聞(大阪本社)1969年5月2日』(朝日新聞社、1969年))。
「自治体と企業との間に、公害防止の協定を結ぶ動きが広がっている。この4月24日には、静岡県富士市で、地元の公害発生源である製紙工場と市当局の間に低硫黄の重油使用、集合煙突の設置、騒音、悪臭対策などを決めた協定書が取りかわされた。鹿島臨海工業地帯をかかえた茨城県でも、近く進出する23社の企業全部と協定を結ぶ。年々ひどくなる公害、一方に高まる住民の不満。こうした事態を前に自治体は、これまでのように被害調査や苦情処理をしているだけではすまなくなった」(「自治体・企業、広がる公害防止協定」『朝日新聞(大阪本社)1969年5月2日』(朝日新聞社、1969年))。
図書館は、立命館大学広小路キャンパスの興学館である。立命館大学では1967年10月11日、衣笠キャンパスに新図書館が開館している。このため広小路キャンパスの図書館はその分館として位置づけられた。
借りた本は、井上清『戦後日本の歴史』(現代評論社、1966年)である。
開講の問題とは、大学当局が1週間の暫定カリキュラムに続いて、文学部(一部)を連休明けの5月6日(火)から開講することを決めたことである。
☞恒心館
オルグとは、組織・団体への勧誘をいう。英語のorganaizeの略称である。
高野悦子は中核派に入っていない。日本史学の同級生(1967年入学)の男性は「高野は中核派に全然入ってない。むしろそこで悩んでたぐらいだから。ただ限りなく中核派に入ったような雰囲気は4月や5月の一時期していた」と言う。
那須文学社版の記述。以下、「恋愛の幻想からの訣別!」に続く。
一一・一〇AMの部分の文章は、恒心館の泊りこみ(下記参照)から下宿に帰ってきてから書いている。
平安の間は、京都国際ホテルにあった大宴会場である。400㎡で正餐300人立食400人収容。2階にあり、メイン・ダイニング(当時)の近くに位置する。
☞京都国際ホテル
恒心館の泊りは4月28日夜以来になる。