高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点序章(昭和42年)
1967年 6月 4日(日)
京都駅スナップ写真
国鉄京都駅での記念写真 高野悦子は1967年6月2日(金)、日本史学専攻の同級生が知り合いを見送るのに同行して国鉄(現・JR西日本)・京都駅に行った。その時、在来線の車中で写真に写っている。
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 晴

 京都:晴・最低18.1℃最高30.3℃。

 自治委員選挙の告示が一日に行なわれ、皆てんてこまいの忙しさだ。
 立命館大学の一部(昼間部)各学部では1967年度自治委員選挙、代議員選挙が6月に行われた。
 自治委員選挙、代議員選挙の枠組み(選挙区)は学部ごとに異なるが、文学部の場合は専攻別に学生の投票で選んだ。
自治委員 学部の自治委員会を構成 学部自治会執行部を選出※文学部は学生大会で直接選挙
代議員 学友会を構成 学友会執行部を選出

投票する学生 立命館大学の一部(昼間部)では、法・文・産業社会・経済・経営・理工の各学部に自治会があった。これに文化系サークルを組織する学術本部と学芸本部、さらに女子学生会を加えた全体のトップに一部学友会があった。
 一部学友会の執行部は、1961年から反民青のフロント(社会主義学生戦線)系が占めていた。これに対して、民青(日本民主青年同盟)系が数年来拡大を図ってきており、前年度では法・産業社会の2学部の自治会執行部で多数を占めていた。
 このため、この年の選挙では民青系が各学部の自治会で勢力を伸ばし、さらに全体のトップにある一部学友会の執行部を奪還(政権交代)できるかが大きな焦点となり、選挙戦が白熱した。
 このほか一部(昼間部)だけでなく二部と共通で、体育系各部を組織する体育会本部、それに新聞社、放送局、応援団があった。ただこれらも実質的には一部の学生が中心に運営されていた。
☞二十歳の原点1969年2月17日「全共闘からフロントが脱退した」
民青

 選挙の実際について「キャンパスで、生協食堂で、下宿で、教室で…一票のうばい合いが行なわれている。かつてはコーヒー一ぱいが一票と言われたものであるが、義理と人情と、顔を使って、一票を追う。
 選挙期でない時には「学生運動」からつんぼさじきにおかれていたが、春も過ぎて、衣がえの季節になると色々な所からお声がかかってくるし、ハエのようにうるさい。
 曰く、「クラス運動の充実を…。」然り。「クラスと執行部と…」おおむねいいだろう。一年間、クラスを放りぱなしにしていたとしても未来の代議員殿、自治委員殿は、さすがに選挙期ともなれば、自分の選挙区が気になってくる。
 が果たして、結果やいかん」(「一票頼まれたが…」『立命館学園新聞昭和42年6月11日』(立命館大学新聞社、1967年)※表現の一部に現在では不適切な語句が含まれているが、歴史的事実として原文のまま引用した)とされている。

 文学部全学連連絡会のもとで電話や直接家にいってやるとか、すさまじい選挙戦がひろげられている。
 私の全学連支持の弁

 文学部全学連連絡会議は、文学部における民青系の自治会選挙活動グループである。したがって、ここでいう「全学連」は民青系全学連のことを指す。
 議長は日本史学専攻3年生で後の大阪・茨木市議会議員(共産党)。文学部全学連連絡会議の公約は“(民青系)全学連に加盟し、全学友が参加する自治会運動を実現”。
 一部文学部自治会は反民青系が執行部だったため、文学部全学連連絡会議はいわば野党にあたる。
三つの全学連

 また、この選挙で文学部日本文学専攻から代議員に選ばれた一人が3年生の穀田恵二であり、1967年7月10日の一部学友会代議員会で、民青系が執行部となった一部学友会の副委員長に選出される。
 立命館大学1年生で共産党に入った穀田恵二は現在、衆議院議員で共産党の衆議院国会対策委員長を務めている。当時について「あのころは、学生がマスプロ教育に放り込まれ、劣悪な勉学状況にあった。それをなんとかしようというのが当時の学生運動の中心課題のひとつだった」(臼井敏男「学友を訪ねて語り合い、大学を守った─穀田恵二」『叛逆の時を生きて』(朝日新聞出版、2010年))と振り返っている。

 Boxにいきます。

 Boxは立命館大学一部部落問題研究会の部室である。
部落研

 電車にゆられて下宿にかえります。

 高野悦子が利用していた電車は主に京阪京津線、下宿は青雲寮である。
三条通の電車
京阪京津線(大学1年通学ルート)
青雲寮

1967年 6月 6日(火)
 高校二年生の三学期に『青春の墓標』を読み、奥浩平にあこがれをいだいた。

 奥浩平が所属していたのは中核派である。広くいうと反民青(反代々木系)の立場である。
☞二十歳の原点1969年2月17日「十数人の中核が雨にぬれ」
青春の墓標

 川口さんと選挙のことで話した。
 結局川口さんがいっている中立な立場というものの存在を疑う。民青でもなく反民青でもないことが中立というのか。

 これはベトナム戦争反対に対する全学連と府学連のスローガンである。

 ここでいう「全学連」は民青系全学連を、「府学連」は民青系府学連を指す。

1967年 6月 8日(木)
 アパートに着いてからは、

 アパートは、青雲寮のことである。

 お風呂にいって、その後眠っただけだ。
千鳥湯

 お風呂は、京都市東山区山科御陵鳥ノ向町(現・山科区御陵鳥ノ向町)の公衆浴場、千鳥湯である。
 千鳥湯は2009年に営業を終了した。建物は現存せず、駐車場になっている。
千鳥湯の地図千鳥湯跡
八千代湯

1967年 6月 9日(金)
 きのう女子学生会の部屋にいかないで図書館にぼんやりと坐って考えた。

☞1967年5月17日「きのうは定期女子学生大会だった」
興学館(図書館)

1967年 6月12日(月)
 十日、十一日の六月集会が終った。

 高野悦子が参加したのは、第2回全国学生部落問題研究六月集会である。
 第2回全国学生部落問題研究六月集会は、1967年6月10日(土)・11日(日)の両日、立命館大学衣笠キャンパスで開かれた。おひざ元の立命館大学をはじめ京都の大学の部落研の1年生の中には会場の設営や看板作りにも参加した者もいた。
 集会には全国70あまりの大学の部落研(民青・共産党系)の学生約800人が参加した。
衣笠キャンパス六月集会地図以学館
 1日目の10日は、午後1時から衣笠キャンパス以学館のホールで全体集会が開かれ、民青系全学連のあいさつ、部落問題研究所(共産党系)・藤谷俊雄所長の講演会などがあった。
 夜には「文化祭典」と称して部落差別問題を題材にした劇や合唱などが行われた。
 2日目の11日は、午前9時から7つのテーマの分科会に分かれて討論が行われた。
 テーマは、①部落問題は一生の問題だ!解放の心を持ちつづけるために、②おれたち差別されている者の気持がわかるか─学生部落研の役割と可能性、③部落の子どもたち─地域活動を理解するために、④差別とはなにか─「寝た子を起こすな」をめぐって、⑤友情、恋愛、仲間作り─皆が成長できるサークルを、⑥女性差別と部落問題─「女性と靴下は戦後強くなった」というけれど、⑦平和と民主主義の課題─朝鮮・沖縄・部落と私たちを結ぶもの。
 最後に再び全体集会を開き、立命館大学部落研からは「同和教育推進の闘争」の現状について報告があった後、「部落の完全解放を勝ち取ろう」「アメリカのベトナム侵略反対」「六月集会を成功させた力でさらに仲間の輪を広げよう」「第9回ゼミに向けて日常的な活動を強めよう」という4つのスローガンを採択した。

 今日は女子学生会の運営委員の選挙だ。

 高野悦子は候補者ではなかった。この選挙で女子学生会の運営委員に選ばれたのは長沼さんである。

 きのうヒロ子ちゃんから電話があり、おとうさんが盲腸だそうだ。
 イエにカエリタクなった。

 ヒロ子ちゃんは高野悦子の姉である。
高野悦子の実家

 鈍行の東海道線にのって……。

 鈍行の東海道線は、国鉄(現・JR)東海道本線の大阪発東京行上り144普通列車(電気機関車+客車)のことである。
 この列車を利用した場合、夜が明けて午後に東京に到着する。
 00:43国鉄(現・JR西日本)京都駅─00:50山科駅─13:45東京
 さらに東北本線の下り553普通列車(電車)に乗り継ぐと、同日中に西那須野まで到着できることになる。
 14:33上野─17:34国鉄(現・JR東日本)西那須野駅
 東海道本線の夜行普通列車は、このあと電車化され、東京─大垣間のいわゆる〝大垣夜行〟に引き継がれた。さらに特急形電車を使用した臨時の夜行快速列車「ムーンライトながら」として2020年まで運行された。

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