高野悦子は1967年に行われた大学の自治委員選挙、代議員選挙で、この時は民青系を支持している。
高野悦子の文学部日本史学専攻の同級生であるとともに、高野悦子が1年生の時にいた立命館大学一部部落問題研究会(部落研)OBで、この自治会選挙では日本史学専攻で民青系として代議員に選ばれた、大阪・大東市議会議員(日本共産党)の古崎勉氏に当時の状況をうかがった。
「住道(すみのどう)の駅前も以前とはずいぶん変わりました」。待ち合わせ場所のJR住道駅に現れた古崎氏は、まず大阪・大東市の紹介から始められた。今は市議会議員として地元密着で活動している顔がそこにあった。
古崎:高野悦子のことは、大学入学式のころはもちろん知らなくて面識は全然なかった。
4月に新入生歓迎の期間があって、校庭に各サークルのデスクが並んだ。ぼくは部落研に入ろうと決めてたんで、すぐ探して入学式の当日か翌日にもう部落研に入った。でも彼女はちょっと遅れて入ってきた。それで入ってきた彼女と部落研のBOX(部室)
で集まるよね。そこで顔合わせをしたのが知り合ったきっかけの一つだった。
もう一つは、彼女と同じ日本史専攻だったけど、ぼくはその時から民青に入ったからね。部落研と同じ時に共産党に「入れてくれ」って言いに行った。そしたら「まあ、君はまず民青から入ったら」って言われて(笑)、「入りましょう」と(笑)。民青に入って、民青の仲間と活動を始めた。だから部落研と民青と両方やってた。
そのころ自治会(学友会)を握っていたのは統社同(統一社会主義同盟)=フロントだった。それをひっくり返すために民青は活動をやっていて、ぼくは日本史専攻で割り当ての学友会代議員になった。民青組織には日本史専攻そしてそのうち1回生だけでも、もっと積極的に活動した中枢メンバーが結構いたけど、学友会という性格からあまり中枢にいないヤツも入れてやらせようと。
ぼくは部落研をやってたから中枢ではない、それでたぶん候補者に選ばれたんだと思う。上級生に「今度学友会代議員の選挙があるから君がなれ」って言われて、「ハイハイ」って適当になった感じで(笑)。(選挙活動について言えば)高野悦子の場合は、部落研というよりも、民青の周辺にいたまじめな支持者だった。だから彼女と学友会活動したというよりいっしょにいたという程度だった。
「下宿オルグ」って当時言ってたが、ぼくなんか民青の仲間で中枢のメンバーと一緒に「あそこの家、お前いっしょに行ってくれ」って、周辺にいる支持者らしき人に支持をもらうために下宿まで勧誘に行くのをやってたけど、高野悦子は民青には入ってなくて、もうちょっと外にいたから、そこまではしてなかった。
☞1967年6月4日「自治委員選挙の告示が一日に行なわれ」
☞部落研
☞民青
部落研は数十人いて学内、地域、出版というふうにパートに分かれていて、彼女はたぶん地域に入っていた。そして西大路三条の壬生隣保館で子ども会の活動をしていた。ここは共産党系の影響力が強かった。
週2回か3回、午後7時ごろから8時半くらいまでやってた。講堂みたいなのがあって、卓球と柔道とかサークルに分かれて、それぞれ入る。ぼくは柔道だったけどあまり柔道好きじゃなかったし、頻繁には行かなかった。でも彼女は行ってたんじゃないかな。
彼女と同じ卓球をやってなかったこともあるし、この時の彼女の活動はあまりよくわからない。でも薄っすら覚えているのは、彼女は子どもたちに好かれていた気がする。そんなに「お姉ちゃん」という感じじゃなかったから、子どもたちも親しみやすかったんだな。
☞京都市壬生隣保館
古崎:彼女が一番強い印象に残っているのは、1967年8月に農村調査に同じ班で行ったことだった。農村調査は過酷だったけど、実りがあって、いい活動だったと思う。
ぼくら列車で行って、9人かな、みんなでいっしょに約2週間近く合宿する。地元の団体の招きの形で集会所、「公会堂」と呼ばれていた所にみんなで寝泊りをして、自炊もする。当時の田舎だから、学生が来てくれるって歓迎してくれて、自分の所で育てた野菜とか、コメとかまでも持ってきていただいて。なんかあまりお金を使った記憶がない。
「調査」って言っても、そんなに調査はしない(笑)。朝から地域の子どもの相手をして、いっしょに以久田橋近くの由良川が区切られた所で遊んだり、夏休みの宿題とか勉強も教えたり…。それで夜になって晩ご飯を食べて、午後8時くらいから大部屋でミーティングをする。それぞれその日の活動や子どもたちと触れた感想とかを出して、10時すぎまで。あのころはお金がないこともあって合宿してもお酒を飲まなかったからね。それで寝て、また朝起きて、午前6時半には外で子どもたちと地元の人も入って夏休みのラジオ体操をやった。夜遅くまで話したから、ものすごい寝不足だった。
夏の綾部は暑いけど、この公会堂は開けっ放しだと、いい風が吹き抜ける。それでぼくら疲れてるから、1週間くらいしたころに、ちょっと半日くらい休憩みたいにした。公会堂は畳敷きで結構広かったので、フリータイムで「昼寝でもしようか」って言って、みんなでバラバラって寝て、ぼくも寝た。
フッと目が覚めて見たら、彼女が大の字になって、グァーって寝てた(笑)。女の子にしてはすごい大胆不敵というか、“天真爛漫(てんしんらんまん)な子だなあ”って思った。色気云々というより、かわいい子という感じだったなあ。
いろいろやって楽しかった合宿だったし、この時の彼女はものすごくイキイキしてた。日記のように思い悩んでいるとは見えなかった。
☞農村調査
あのあと、彼女が部落研をやめると言ってきて、「はい、そうですか」というわけにはなかなかいかなくて、先輩とか「どうして」って説得するでしょ。
ぼくも話したことがある。「なんで」と。「同じ日本史専攻だし、やめないで、続けたらどう」と。代議員選挙の時の関係もあったから、部落研やめないでとだいぶ言った。いろいろ言っても踏みとどまらなかった、それでも彼女はやめちゃったな。
ただ『二十歳の原点序章』にぼくらしき人物は出てこないから、あまり印象ないんじゃないかなあ。
古崎氏の手元に残っていた一枚の写真。立命館大学広小路キャンパスの「わだつみ像」の前で高野悦子と2人で写っていた。
古崎:一回生の時のこの写真を見ると同級生なのに、ぼくは二浪してるから現役で早生まれの彼女とは年齢差があるでしょ。まるで〝兄と妹〟みたいな感じで(笑)。
それで日記を読んでも出てこないけど、わだつみ像が壊された時の集会(1969年5月20日)に彼女はいてた。ぼくは校舎の中にいたけど、彼女がその集会にいたのをぼくらの仲間が現認してる。
彼女がわだつみ像の破壊に直接手をかけたということではない。それは違う。ただ、ぼくらの仲間から見ると、破壊するのを防がずにシンパ的にいるだけでも、一部の暴力破壊分子と同じ扱いにされる。“彼女はわだつみ像の破壊に手を貸してる”という認識だったんだな。
わだつみ像は立命民主主義の象徴だと思うけど、この写真を見ていると、彼女の変化というか、一回生の時はああだったのに人はいろいろ変わるもんだなあと強く思う。
1969年5月20日午前8時15分に全共闘学生約190人がわだつみ像前で、「機動隊導入弾劾」集会を開いた。この時、一部の学生が銅像にかけあがり、足元から倒した。
高野悦子はこの集会に参加していたが、わだつみ像に直接関係してはいない。「キャンパスに再び機動隊が導入された5月20日、〝わだつみの像〟は全共闘の学生によって破壊された」(「安易な反戦意識─わだつみ像再建」『立命館学園新聞昭和44年6月2日』(立命館大学新聞社、1969年))とされる一方で、当時の民青系機関紙は「像が破壊されるところを目撃したものをさがしましたがみあたりませんでした」(「こわされた「わだつみの像」」『民主青年新聞1969年6月18日』(日本民主青年同盟中央委員会、1969年))としている。
☞恒心館に機動隊
このころの大学時代は楽しかった。大学紛争を経験してバンバンやりあいしてるから。時々言うけど「ぼくら軍隊に行ったみたいなもんだな」って。闘争のすさまじい経験をして、ぼくはけがをしなかったけど、友だちはいっぱいけがしてるからなあ。
とにかく大学時代は勉強なんかほとんどしてない。大学紛争になったのは2回生の終わりだったけど、毎日サークルのBOX に行ってて、あまり講義には出なかった。
高野悦子も書いてるように、マスプロ状態でおもしろくなかったし。ドイツ語の講義で出席を取り終ったら抜け出してたようなこともあった(笑)。勉強した記憶はあまりないけど、でもすごく楽しかったな。
その後、大東市役所に就職したけど、駅前の喫茶店にいたら、ロータリーでバスがバックする時、女性の車掌さんが笛を吹く。「ピッピッ」と。それでビクっとなる。
この音が、当時の全共闘がデモする時の笛の音に聞こえてしまって。かつてはその音を聞いたら、百人対百人くらいで逃げるか対峙するかしかなかったわけだから。
“就職してまでもこうなのかなあ”と。
日記を読むと、彼女は高校時代から自殺願望のようなものがあって、精神的に行き詰って亡くなったのかな、とも思う。
でも、そんな死ぬような感じの女の子とは違った。1回生の時の部落研にいた時の彼女、日本史専攻で民青のシンパでいた彼女、農村調査に行ってた彼女。
天真爛漫な女の子だから、“そんな死ぬ子じゃないよなあ”というのがみんなの印象だった。いつも物憂げに考え込んでいる…、そういうタイプとは違ったんだよなあ。(談)
喫茶・御所は、京都市上京区寺町通広小路下ル東桜町にあった喫茶店。
立命館大学広小路キャンパスの正門から近い。
当時は全共闘がいた河原町通を避けて、民青系は寺町通を利用することが多かったとされる。
☞リバーバンク
当時の立命館大学の状況で、公表を予定していない日記の記述ではあるが、「二十歳の原点」の中には1969年以降、民青および共産党について激しい言葉を並べて批判しているくだりが登場する。
これに対して古崎氏は学生時代に民青に所属し後にも共産党の議員として活動しており、いわば高野悦子から批判を受けた側にあたる。
それにもかかわらず古崎氏は、大学の同級生で同じサークルにいた立場から、広い心で本ホームページの取材に快く協力をしてくださった。ここに改めて謝意を表したい。
※話中に登場する人名の敬称は略した。注は本ホームページの文責で付した。
インタビューは2013年6月1日に行った。肩書等は当時のものを用いた。
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