☞1967年12月13日「佐藤さん、安藤さんらに民青加入をすすめられた」
☞民青
正式に退部の申し出をするのは4月13日(土)になる。
同学年で部落研を1年生だけで退部または活動を止めたのは高野悦子以外にも複数いる。そもそも大学で様々な理由からサークルを1年で離れること自体は珍しいことではない。
☞1968年4月13日「やめるべき理由はないがやめますと吉江さんにいったら」
☞部落研
いずれも日本史学専攻の同級生のうちの民青のメンバー。
☞1967年5月11日「長沼さん、浦辺さん、桜井さん、松田さん、北垣さん達のグループはそれぞれ民青の会員として活躍している」
『ものいわぬ農民』岩波新書(岩波書店、1958年)は大牟羅良(1909-1993)の著書。
戦後復員し、当時「日本のチベット」と言われた岩手県で古着の行商として山村を回りながら、農家のいろり端で耳を傾けた村人の話などを元にまとめた農村の生活や文化についての報告である。
引用部分の原文は以下の通り。
「行商の旅、それはつらいながらも自分の足どりで、自分の意志で方向をきめられる自由があり、体が疲れればいつもより早くきり上げて帰宅し、体を横たえる自由もあったのです。
春もあたたかい陽ざしが身にしむ頃の昼下り、私は、やや軽くなりかけた風呂敷包みを背負って、渋民村の二つ森という丘の裾野─二つ森というのは、ふっくらと盛り上った草の丘なのですが─その裾野をよぎりながら、〝俺には自由がある、俺には自由があるんだ!〟と絶叫したいような衝動に駆られたことがありました」(大牟羅良「行商四ヵ年」『ものいわぬ農民』岩波新書(岩波書店、1958年))。
前日の1月12日(金)のことである。
1月12日・京都:晴・最低-3.6℃最高10.0℃。放射冷却で年明けからでは最も冷え込んだ。午前7時30分の屋外の気温は-1.0℃前後。
第1時限(09:00-10:30):芸術学=教授・梅原猛
第2時限(10:40-12:10):経済学=講師(京都大学助教授)・瀬尾芙巳子
米原子力空母エンタープライズの佐世保寄港に反対する立命館大学一部文学部(反民青系)の集会が1月12日(金)午後3時半から存心館16号教室で開かれることになっていた。
☞二十歳の原点1969年2月6日「社学同が入試阻止をもちだす」
☞二十歳の原点1969年5月13日「私のAgitationより」
牧野さんの名前が『二十歳の原点序章』で登場するのはこれが初めてである。
☞二十歳の原点1969年2月6日「酔いながら牧野さんのところへいく」
第3時限(13:00-14:30):生物学=教授・菊池立身
第4時限(14:40-16:10):文学=教授・本野亨一
この年の文学の講義については「前期では、外国の文学を読む場合、キリスト教の信仰とギリシア人の経験が骨格になっていないわれわれは、ある程度のところで足踏みをしてしまう、その足踏み体験のようなものをおもなテーマにしました」「後期は、いったいなにがおもしろくて小説を読んでいるのか、例をあげて自分のおもしろがり方を示せ、とでも問われたときの、答えのつもりで、話すことにしています。学生諸君にも、同じことを、なにか自分のすきな文学作品で考えおいてもらうよう、話してあります」(本野享一「文学の経験」『立命館文学267号』(立命館大学人文学会、1967年))という記録がある。
☞二十歳の原点1969年4月19日「だからこんなに遅くまで岩波歴史講座をひもといて頑張っているわけ」
☞青春の墓標
当時は1月15日が成人の日の祝日だった。2000年からハッピーマンデー制度の導入に伴い、成人の日は1月の第2月曜日に変更された。
京都:晴・最低-3.5℃最高4.4℃。 平気気温が-0.3℃しかなく、この冬で最も寒い一日だった。
アルベール・カミュ(仏、1913-1960)の小説「異邦人」(1942年)のことである。ここでは大学の「文学」での講義内容に関係して話題になった可能性が高い。なお奥浩平「ノート1965年1月21日」『青春の墓標』(文藝春秋新社、1965年)。
1月「15日朝、米原子力空母エンタープライズの寄港阻止で、東京・千代田区の法政大学を出て、東京駅から佐世保に向おうとした反代々木系全学連中核派の学生約200人が、学外へ出たところで、警戒中の警視庁機動隊員にこん棒などでなぐりかかり、乱闘となった。
このため、学生側に13人。警官隊に10人のけが人を出し」「学生131人(うち女子学生15人)が凶器準備集合罪の疑いで検挙された」(「学生、機動隊と衝突─原子力空母の阻止」『朝日新聞1968年1月15日(夕刊)』(朝日新聞社、1968年))。
「米原子力空母エンタープライズ寄港阻止のため15日朝東京・市ヶ谷の法政大学から佐世保に向け出発しようとした反日共系三派全学連中核派の学生約200人が、国電飯田橋駅近くで警官隊400人と衝突、学生131人(うち女子15人)が凶器準備集合罪、公務執行妨害現行犯で警視庁に逮捕された。また警官10人、学生13人が頭などに軽傷を負った」(「佐世保行き学生に先制─三派系の131人逮捕」『京都新聞昭和43年1月15日(夕刊)』(京都新聞社、1968年))。
☞1969年2月17日「十数人の中核が雨にぬれ意気消沈した様子でデモッており」
エンタープライズはアメリカ海軍の当時世界最大だった原子力空母。「エンタープライズを中心とする米原子力艦艇は19日朝、佐世保港に入港した」「昨年11月2日、政府がエンタープライズの寄港を承認してから2カ月半ぶり。また39年11月、佐世保に原子力潜水艦が初寄港してから3年2カ月ぶり」(「米原子力空母、佐世保に入港」『朝日新聞1968年1月19日(夕刊)』(朝日新聞社、1968年))。
民青系府学連は1月16日(火)に立命館大学広小路キャンパスで抗議行動の決起集会を開き、約300人が参加した。
このビラ、討議資料等は共産党・民青系のものということになる。
日記に記述はないが、16日に京阪・三条駅で通学定期券(3か月)を継続購入している。
☞高野悦子の通学定期券(遺品)
京都:曇・最低1.7℃最高8.3℃。午後から雲が減って晴れた。
月日\時限 | ①09:40-10:40 | ②11:00-12:00 | ③13:30-14:30 | ④14:50-15:50 |
1月24日(水) | 社会科学概論 | 英語 | ||
1月25日(木) | ||||
1月26日(金) | 芸術学 | 経済学 | 文学 | |
1月27日(土) | 英語 | |||
1月29日(月) | ||||
1月30日(火) | ||||
1月31日(水) | ||||
2月 1日(木) | 仏語(初級読本) | |||
2月 2日(金) | ||||
2月 3日(土) | 仏語(初級文法) | |||
2月 5日(月) | 哲学 | 生物学 | ||
2月 6日(火) | 自然科学概論 | 人類学 | 法学 |
この時点で先週にあたる1月27日(土)までに6科目の試験が終了している。今週は「試験がない」と記述しているが、実際には2月1日(木)と2月3日(土)にそれぞれ仏語の試験が控えていた。
☞前期試験
NHK-FM午前11時05分~午後0時00分:軽音楽「ムーン・リバー」、午後0時15分~1時00分:ジャズ「黒いオルフェ」、午後4時00分~6時00分:FMジュークボックス「スプリング・イズ・スプラング」「ニューオーリンズ」「アフリカ」
西山さんは京阪山科駅で降り、長沼さんの下宿に行ったが不在だったため、いったん駅に近い高野悦子の下宿に立ち寄った。
☞長沼さんの下宿
『氷壁』(新潮社、1957年)は井上靖(1907-1991)の小説である。1956年11月から1957年8月まで朝日新聞に掲載された連載小説。登山中にナイロン製のザイルが切断して登山者が死亡した、いわゆる「ナイロンザイル事件」をモデルにした作品である。
主人公の魚津恭太は「さあ、歩いて行け、人のむらがっている方へ。さあ、踏み出せ、大勢の人間が生き、うごめている世俗の渦巻きの中へ。魚津は何も口に出して言ったわけではなかった。心の中でそのようにつぶやいたのだ。魚津は人嫌いでもないし、別段孤独癖を持っているわけでもなかったが、山から降りて来た時はいつも自分にこのように言いきかせるのだ」
「出合に到着、ザックを肩からおろして、ひと休みする。9時である。煙草を一本のみ、直ぐまたたち上がる」(井上靖『氷壁』(新潮社、1957年))。
また全編のクライマックスとなる遭難する場面で「魚津は立ち停まった。自分がここから戻って行くことは、なぜか八代美那子のもとへ返って行くことを意味しているような気がした。ここから引返すそのことには、危険地帯から身を引くという以外、何の意味もあろうはずはなかったが、しかし、いまの魚津にはそうは思われなかった」(井上靖『氷壁』(新潮社、1957年))とストイックな生き方を表現している。
長沼さんは「確かに『氷壁』の単行本がありました。カバーに雪山の写真があった本でした。たぶん「 読みたかったら持って帰ったら」って言ったんじゃないかと思います」と話している。
京都:曇時々雪・最高8.3℃最低-1.4℃。午後から夕方にかけて雪が降った。
関東に比べマグロを食べない関西では食堂で鉄火丼をメニューに扱っている店は少なかった。一方、サバを使う鯖寿司は京都を代表する郷土料理である。
魚津は、『氷壁』に登場する主人公の男性。