高野悦子「二十歳の原点」案内
二十歳の原点(昭和44年)
1969年 4月11日(金)②

仕事にいく途中会った・梅沢さん「知ってる人がいきなりですもの」

 1969年4月11日(金)に次のようなくだりで始まる記述がある。
 仕事にいく途中、梅沢さんと会ったら、

 会ったのはワンゲル部の梅沢さんである。「二十歳の原点序章」と「二十歳の原点」で立命館大学ワンゲル部の関係者は数多く登場するが、記述の上で最後に接点があったのは梅沢さんになっている。
 高野悦子と同学年の梅沢さんは当時、ワンゲル部で数少ない女子部員の一人だった。(旧姓)梅沢さんと会って、ワンゲル部での接点などについて話を聞いた。


“かわいい子が入ってきた”

梅沢さんと新人合宿へ 梅沢:「二十歳の原点」は読んだことがありますけれども、私が何度も登場してるというのは意外です。高野悦子さんがワンゲルにいた時期は短いし、そんなに親しかったわけでもないと思っていました。でも高野さんがいたのと同じ空気を吸った人間の一人としてここにいます。
 割と最近、NHKで高野さんの番組がありましたね。若い女の子がほとんどでしたけど、〝今も高野さんの生き方とか書いてあることに共感を持っててまだ読み継がれてる〟って、〝文庫本でこれだけ増刷しているのは珍しい〟というそんな風な作りでしたよね。“へえー”って思って見てました。高野さんが亡くなってもう50年近く経ってるのにすごいですよね。今でも番組で取り上げるくらい、そんな風な読者がいてて。
  私は高野さんと同学年です。当時のワンゲルは女子が少なかったです。自分が誘ったわけでもなかったから、彼女が入部した時に“いや~、かわいい子が入ってきた”って思いました。小柄で細くてきゃしゃな感じで、お人形さんみたいでしたから。“いいなあ”と思った男子もいたと思います。

 ※NHK総合テレビ「目撃!日本列島」『悩んで、もがいて、生きて~私たちの“二十歳の原点”~』は2017年2月25日(土)午前11時30分~53分に本放送された。
ワンゲル部

 高野さんから「栃木出身」って聞いて“えっ”て感じでしたが、彼女は日本史で、「立命の日本史」って言ったら、あの頃はすごく良くて“看板学科”でした。だから栃木から立命を目指して来たんでしょう。私は地元に大学が数少なかったこともあって、親のすねをかじって申し訳ないですが、何となくミーハーみたいな形で入学してきて、もうキャピキャピして箸が転んでもおかしい感じの女子学生でしたけど…。彼女は考え方が何かしっかりしていました。
 私は大学に入った時にワンゲルとか山岳部とかそういうのをやりたいと、はなから思ってたんです。だからもう迷うことなく入部しました。でも彼女は何かいつも“ちょっと違うな”って、思慮深そうな感じがしてました。だからばかなことをクチャクチャしゃべりあうのはあんまりなかったですね。

栃木県立宇都宮女子高等学校

夏合宿での散策写真 1回生の時にワンゲルの〝女子ばっかりのパーワン〟って山小屋へ行ったことがありました。北山を登って菩提滝の所で泊まって、山小屋へ向かうというコースでした。「女の子だけで頑張って行こう」って、1回生の女子で行ったんですけど、高野さんは入部が2回生の4月だから行ってないですよね。
 高野さんも参加した2回生の夏合宿は、八ケ岳のふもとが集結地でした。パーティーで分かれて途中いろいろな所に行って、それで最後に「集結地」と言って、そこへみんなが集まって泊ってキャンプファイアーとか打ち上げみたいなことをするんです。その時に私も南アルプスに行きましたが、パーティーが違いました。だから山には一回も一緒に行ってません。ただ夏合宿の集結地で撮った集合写真で高野さんとともに写っています。

パーワン(パーティーワンデリング)
夏合宿

積雪する山小屋 彼女は一人で山歩きをしてましたね。ワンゲルの山小屋に一人で行って、山小屋にあった「山小屋日記」に思ったことを書きそうな…、そんな気がするんですが。別にヘンな意味じゃなくて、女子よりも男子の部員の方が交流が多かったんじゃないかなあ。
 大学の授業もまだ1回生なら一般教養で彼女と重なることがあったかもしれませんが、2回生になると一般教養はだいたい終わってますから、学科が違ったらもう授業が違ってきます。大教室の授業で会ったこともなかったと思います。
 だから私には意外です。でも日記に書いてるんですものね。ワンゲルの総会とか会合で普段おしゃべりしてて、彼女の印象に残ったんでしょう。

山小屋

 広小路学舎では、ワンゲルの部室と言うかボックスとして、清心館の屋上につながる踊り場に何か倉庫みたいなのを一つもらっていました。
 自分が文学部で、清心館は文学部の建物でした。あのころ地理の谷岡武雄先生という、後に総長もされましたけど、その谷岡先生が授業の時に、「ワンゲルが清心館の屋上でウロウロたむろしてる」って部室代わりに使ってることを揶揄されまして。自分のことを言われたみたいで、フフフ(笑)。友達は「梅沢、お前いつもあそこにいるんだろう」とか言いますしね。
清心館の屋上周辺(模型) それで清心館の屋上でみんなで座って何かしらしてました。私、会計担当でお金集めしてたから、「お金ちょうだい!ちょうだい!」って言ってたことを覚えてます。でもミーティングとなると、やっぱりもう「じゃあサテン行こうか」って、喫茶店に行ってましたね。あと総会とかでは法学部がある存心館を使っていたこともあります。

 清心館のボックスではパーワンとかが壁の掲示板に張り出されました。自分が行きたいならそこに名前を書いて“行きます”と意思表示するんです。いろんなパーワンのリーダーとかサブリーとかそんな名前を書いたものがたくさん張り出されていました。今から考えたら、とんでもない部室というかボックスだったと言うか、体育会とかに所属してないから部室がもらえなくて、事実上の黙認状態とでも言うんですか。
 名前だけだと一学年80人ぐらいいたかもしれませんが、実際に活動してるのはそんなにはいなかったと思います。「自主性」という言葉でですね、何が自主性か知らないんですけど、「自主性、自主性」って言いまして…、ある意味〝いいかげん〟なクラブでしたよ。ワンゲルが体育会に所属してる大学と違って、何たって私たちは同好会ですからね。「同好会で行くのがポリシーだ」ってリーダー会で言ってましたりね。もうヘンな…フフフ(笑)。
 そう、一応「リーダー会」って言いまして、リーダー会が何人かであって、あと庶務とか会計とか役割はあるんです。今から思えば、普通だったらきちんとトレーニングもしないといけないのに、でもそれを「自主性」という言葉で置き換えましてね。私たちも女子だから本当はもう少しトレーニングをしないといけないのに、何もしないで山小屋とか夏合宿へ行って、それで「ヒーヒー」「ハーハー」言ってですね、余裕もない山行ばっかりでした。
 高野さんはやっぱり体力があったでしょうけどね。でも私は南アルプス縦走とか言っても、“なんか、ただ行った…”というだけでしたね。

印象に残っているPRスキーの受け付け
 高野悦子は1968年12月10日(火)にワンゲル部での活動について記述をしている。
 一日中PRスキーの申込み場所にいた。クラブ員と話をしたり、笑い合ったりしたけれど、いい加減慣れ合いである。(少なくとも私にとっては)改めてクラブ員、というより梅沢さん、吉岡君、赤塚さん、広山さん、保坂君……それぞれについて何を知っているのかと考えると、一応は(それぞれ深さの違いはあるが)知っている。がそれだけ。反対にどれだけ私を知っているのかといったら、それも疑問。

存心館周辺(模型) 梅沢:高野さんで一番印象に残っているのは、PRスキーの受け付けをしてる時に、彼女もそこに来てて、みんなでワイワイしながら、いろいろしゃべったことですね。
 「PRスキー」と言って、クラブをPRするためにワンゲル主催で長野県小谷村に一般の学生さんを集めてスキーをしていました。2回生が中心になってする行事です、その時に私は会計の役割でした。
 広小路の法学部・存心館の前から文学部・清心館に行くあたりの所でやったのは確かだと思います。そのあたりはそんなに狭い場所ではありませんでした。広小路学舎は広小路、衣笠学舎は衣笠で募集していて、文学部の私は広小路でした。〝立て看〟を立てて、会議机のような台を使って、それで参加を希望する人に申し込み金か何かそのようなお金と、名前を書いてもらいます。
 寒い時にした覚えがあります。2回生が中心でした。もちろん3回生のバックアップはあったと思いますが、3回生はもう一線を離れていましたし、4回生に至っては卒業間近ですからね。受け付けは「一日中」と言っても、そんなの適当に解散したと思いますが…。

秋の合宿での高野悦子 PRスキー受付の白黒写真が残っていて、そこに女子でいたのが私と高野さんで、二人が受付に座ってて、私の横で彼女が笑ってるという、そういう写真です。そのイメージがあったから私も印象に残っています。当時は写真が今より貴重でしたが、先輩あたりがPRスキーの申し込み風景を後でワンゲルの機関誌「漂雲」に載せるつもりだったのかもしれません。誰かが撮影して、「写ってるから一枚やる」という感じでくれたと思うんですけど。
 あの時の彼女は髪が長かったかなあ…、短く切った時があるんですよね。切ったのを知って、「どうして切ったの」という感じで。ショートボブくらいですが、自分の中では髪が短い高野さんというイメージの顔が記憶に残っています。
 写真がなければ、これだけ覚えてることはなかったと思います。学生時代に「自分が写ってるよ」ともらった写真、そこに“亡くなった高野さんいるわ”っていうね。

 そのPRスキーは1回生の年(1968年2月)は私も行きました。PRスキーは長野県の小谷村で、もう普通のおうちで民宿だったと思います。その年まではできましたけど、2回生の1969年はせっかく準備していたのに学園紛争でお流れになって結局開催できませんでした。私は会計担当だったから、あの時はお金を返すのにもう大変だったです。
美山荘・わらび平スキー場

 ワンゲルの女子については1969年1月7日(火)に次の記述がある。
 これから、ワンゲルの女の子の新年会に出かける。(五・四五PM)

阪急松尾から阪急西院までの地図 「ワンゲルの女の子の新年会」ですか…、 しました、しましたね。1学年上の先輩で女子の内山さんの所に行ってしたと思います。それが「新年会」だったんでしょう、内山さんは阪急・西院駅の近くに下宿されてて、そこへ女子がみんなで行きました。内山さんはこの時3回生で、私たち2回生と、だれか1回生もいたんじゃないでしょうか。そこで食事をみんなで作って…、何かは忘れましたけども。
 その時のことを高野さんが書いてるんですね。彼女が阪急・松尾駅だとすると近いですわね。でも内山さんの所で女の子ばっかり集まってしたのは、今、鮮明に思い出しました。どうして覚えてるんでしょうね、あんなの1回しかしてないからなのかなあ。人間の記憶って深い奥底の方にあって、ちょっと言われると、“ああ、そうだったんだなあ”ってなるもんですね。

☞二十歳の原点序章1968年11月7日「火曜日は衣笠から西院までの道を歩く」

知ってる人がいきなりですもの
 そして高野悦子は1969年4月11日(金)、アルバイト先の京都国際ホテルに向かう途中、梅沢さんと久しぶりに出くわすことになる。
 仕事にいく途中、梅沢さんと会ったら、木村さんが盲腸手術、内山さんがスキーで複雑骨折、クラブでは新入生歓迎準備で一生懸命とのこと。急にいろいろな世界がおしよせてきた。とまどった。

梅沢さんと会った場所 梅沢:この「会った」記憶が全然ないんです。この流れだと“場所は河原町通くらいかな”という感じはしますが、「二十歳の原点」にあるのが意外でした。
 でも、話の内容は間違いありません。
 木村さんは勧誘か何かで引っ張られてワンゲルに入ってきた女子で私がワンゲルで一番仲が良かった友だちですが、この時は実際に盲腸(虫垂炎)手術をしました。その木村さんが「盲腸手術」ね…おかしいですね、フフフ(笑)。「あなた『盲腸手術』で出てた!」って言っておかないといけませんね(笑)。
 私が3回生の時に内山さんは4回生になりますが、内山さんがスキーに行って骨を折ったのも事実です。そう「スキーで複雑骨折」…すごかった、もうとんでもなくひどい骨折でした。「足がヘンな方向を向いてた」って言ってましたものね。
 高野さんとパタッと偶然会って話したんでしょう。会って「元気?」というくらいじゃなくて、久しぶりにワンゲルの話を聞いて、ましてや女子の話ですから。知ってる人がいきなり「盲腸手術」と「複雑骨折」ですもの。2人も手術してたら話にものすごいインパクトありますよね。
 今だとしても、2人がそんなことあったんだって聞いたらびっくりするわね。きっと私から「聞いて、聞いて、内山さんがスキーで骨を折った!」とかギャーギャー言ったんじゃないでしょうか(笑)。彼女にしたら「えー」「大変だなあ」って思って書いたんでしょうね。

 高野悦子と梅沢さんがあった場所は、京都市中京区の河原町三条交差点から河原町御池交差にかけて近辺の街頭(地図右上)である可能性が高い。

 3回生の時に「クラブでは新入生歓迎準備で一生懸命」してたのかなあ。と言うのは私もワンゲル部を全うしてないんですよ、3回生の夏で辞めて、大学生ですけど社会人の山岳部に入りました。ワンゲルは途中で辞めたから、ちゃんとした「OG」とは言ってもらえません。
 でも高野さんは3回生の時にはもうワンゲルの活動が…、〝幽霊部員〟になっていたということでしょうか。正式に辞めたのかどうかはわからないけど、そういうことですよね。
 でもワンゲルはとても大きくて幽霊部員みたいな人も多くいましたからね(笑)。私はそれこそ2回生の時に会計担当で、やっぱり会費で成り立ってるのに、それは幽霊部員ばっかりで…。

 「幽霊部員」とは、サークル・同好会で名義上は所属しているものの、実際の活動やイベント、コンパなどに全くあるいはほとんど顔を出さない者をいう。大学の大規模なサークル・同好会では多かれ少なかれ存在する。ただし4年生などになって活動の一線から下がった場合は含まない。

 高野悦子は1969年2月8日(土)に開かれたワンゲル部の“追い出しコンパ”について記述してるが、このコンパには梅沢さんも参加した。
 煙草を吸って男の子にとり囲まれて、チヤホヤされていい気になり愉快な気分になって、
 今日の追コンは、四回生の追出しコンパだったのに、四回生に対しお礼の一言もいえなかった。

 今思い出しましたが、彼女はコンパかどこかでたばこを吸ってましたよね。間近で見たと思いますが、おいしそうに吸ってるわけじゃありません。かわいい顔してるのに、そう似合わない…“下手くそ”って感じのですね。童顔で子どもが吸ってるような感じでした(笑)。
 女子でたばこって、当時でも少なくて意外だったです。私もちょっと吸ってみたことがありますが、何か大人になったような気がしましたね。結局、本格的に吸うまでいかなかったですけど。

追い出しコンパ記念写真(眼鏡の写真)

内面的に話したことがなかった

 梅沢:私は〝ワイワイキャーキャー〟ってすごくにこやかにしゃべってたけど、高野さんと込み入った話や、自分の恋愛や人生の相談とか、内面的に話をしたことがなかったですからね。だから、“あの時にあんなこともあったのになあ、ああいう風な亡くなり方をするって”…。彼女は考えすぎてね、そんなの何かわからないですけどもね、そこまで考えてたんだって。その時は私も若かったからもう“そんな、えー”という感じでした。
 「高野さん亡くなったんよ」って「えっ、どうして」って。それでお葬式に行った子は、たぶんお葬式でそれなりに区切りが付けられたかもしれないですが、私はただ聞いてただけですもの、「高野さん死んだんや」って。木村さんは西那須野のお葬式まで行きましたが、私は行ってないんです。“何で高野さんのお葬式に行かなかったのかなあ”って今でも思います。木村さんも行ってるのにどうして私は…、わからないです。何でも〝いっちょかみ〟の私なのに行ってませんからね。7月ころ帰郷しなきゃいけない用事か何かあったのかなあ…。同じ学年の女子で木村さんが行くことになったからということかもしれません。

 「いっちょかみ」(一丁噛み)は、関西の方言で、何事にも関心が高くすぐに首を突っ込む人のことを言う。ここでは自分を卑下して使っている。

大学の表札と正門1970年 日常の学生生活をしてる間に、あれから高野さんのことを思う気持ちはだんだん少なくなって…。自分がすごく接してもらってたら自分もダメージ受けるのかもしれないけど、申し訳ないですけど、高野さんが亡くなったからと言って私が何か変わったというわけでもなかったです。
 それで「二十歳の原点」が出ましたよね、“どんなのかなあ”という感じで読みました。読んでみて、何て言うのかしら、“うーん、こんなのだったんだ”っていう…。中に大学紛争はたくさん出てきますが、当時の学生はみんな何かはしてましたね、私でも何か忘れたけど座り込みをしたことがあるくらいですし。
 でも“彼女なんか何でアルバイトをしなきゃいけなかったのかなあ”とも思いましたし、最後の方には恋愛関係が出てきますわね。読んでたらしんどいんです、きついです。もう精神的に追い詰められてたってことはあるんじゃないでしょうか。そんなことなかったら亡くなるわけないんですから。
 だから“もっとチャランポランに生きてたらいいのになあ”って。でもそれができなかったんでしょうけれど。(談)

 立命館大学衣笠キャンパスでワンゲル部の部員が出入りしていて、梅沢さんも行ったことがある店に「セブン」と「プレジデント」がある。
セブン

 セブンは、京都市北区等持院北町にあった喫茶店。衣笠キャンパスの南側の門を出た前にあった。
衣笠キャンパス周辺の喫茶店・セブンとプレジデントセブン跡
 部室から近い場所にあったため、ワンゲルの部室に誰もいない時にセブンに顔を出すと必ず部員と会うほどだったという。「当時コーヒーが70円と安くて、学生にとっては貴重だった」と語るワンゲル部OBもいる。
 梅沢さんは「広小路からスクールバスで衣笠キャンパスに行って、みんながいるからセブンに行きました。当時の“たまり場”でした。喫茶店と言っても、食事をすることもありました」。ただ衣笠キャンパスの食事では以学館地下にあった食堂も利用したという。

プレジデント

プレジデント跡 プレジデントは、京都市北区等持院北町にあった喫茶店(地図上参考)。衣笠キャンパス西側で、観光道路(現・きぬかけの路)に面した一角にあった。
 部室からの距離では、セブンに次いで近い喫茶店になる。梅沢さんは「女子には、セブンよりもプレジデントの方が人気があった」。ワンゲル部OBによると「当時コーヒー150円で一般的な値段だったが、セブンよりは高かった」と言う。
 現在は別の喫茶店になっている。

 梅沢さんはこのほか広小路キャンパス周辺で、リバーバンク、シアンクレール、シャポーなどに行っていたという。「ワンゲルで利用したのはリバーバンクが多かったと思います。高野さんはシアンクレールに行きそうな感じでした。でもシアンクレールはジャズ喫茶でみんな音楽を聴いてるから、しゃべったら怒られそうでした」。
リバーバンク
シアンクレール
 ※注は本ホームページの文責で付した。

 当時で進学校や四年制大学に進む女子という背景があったにせよ、高野悦子の近くには必ずと言っていいほど〝頭が良く、活発で、比較的サッパリした性格〟の女性が現れるが、その一人がワンゲル部の場合に梅沢さんだったと言える。
 ワンゲル部で梅沢さん・木村さんの二人よりも高野悦子が親しかった同学年女子はいない。それでも“意外”と感じたという梅沢さんだが、「少しでも役立てれば」と、当時の記憶を一生懸命に呼び戻され協力いただいた。

 インタビューは2017年6月20日に行った。

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